回想・エプシロンに起きたこと(1)
ソードットの森は、とても平和な場所だ。多くの獣が住んでいるが、人間に害をなそうとはしない。なぜなら、森の主ともいえるエプシロンがそう命じているからだ。
森で育ったエプシロンには、不思議な力があった。生まれつき、動物と意思を通わせることができるのだ。その力で、人間と動物との調停をしていた。両者がカチ合わないよう、生活領域をうまく調節していたのである。
そんなエプシロンの家を訪問したのは、ジェイクであった。暗い表情で、顔はやつれている。何日も寝ていないような風貌だ。
「ジェイク、どうかしたのか?」
静まり返った部屋に、ジェイクの低い声が放たれた。
「フィオナが死んだ」
その言葉が発せられた瞬間、エプシロンの瞳から光が消えた。まるで、魂そのものが抜け落ちたかのように。
「なんだと?」
その声は、空気を切り裂く刃のようだった。
「戦死の報告が、今さっき入った。二日前、本隊が敵の奇襲を受けた。フィオナは、その時に命を落としたらしい」
ジェイクの言葉に、エプシロンは何も言えなかった。ただ黙ってうつむき、拳を握り締めていた。
やがて、エプシロンの顔が歪む。目からは、涙が溢れ落ちた。悲しみが怒りに変わり、怒りが破壊衝動へと変わっていくのが、はっきりわかった。
次の瞬間、怒号と共にエプシロンは拳を放つ──
「お前のせいだ!」
鈍い音が響き、ジェイクの顔が歪んだ。しかし、それでも彼は反撃しなかった。躱すことすらしなかった。
「お前が、あの時、無理やりにでもフィオナを連れていっていれば!」
今度は、腹に拳がめり込む。しかし、ジェイクは眉ひとつ動かさなかった。
それでも、エプシロンは攻撃を止めない。むしろ、彼の態度が怒りの炎に油を注ぐこととなった。
「お前が、あんな場所に送り出さなければ! なぜ戦場なんかに行かせたんだ!」
叫ぶエプシロン。さらに、何発もの拳が放たれる。涙も汗も混ざったその顔は、狂気に染まっていた。
だが、ジェイクはその全てを受け続けた。
「俺の……俺の……たったひとりの!」
なおも吠えるエプシロン。ジェイクは殴られながら、何も言わなかった。抵抗もしない。ただ、虚ろな目でエプシロンを見つめ、静かに殴られ続けていた。
ジェイクとて、痛みは感じている。だが、それ以上に胸を締めつけるのは、自分の選択が誰も救えなかったという事実だ。
あの時、ジェイクはフィオナの意思を尊重した。本音を言うなら、結婚を申し込んだあの日に力ずくで連れ去りたかった。
だが、フィオナの涙を見て、何もできなかった……。
やがて、エプシロンの腕が止まった。息は荒く、肩を大きく上下させている。
「もう、ここには顔を出すな。お前は、友だちでも何でもない」
その声には怒りよりも、深い絶望があった。ジェイクは一歩も動かず、その言葉を胸に刻むように聞いていた。
「フィオナは、お前のせいで死んだんだ!」
最後の一言が突き刺さる。血のにじむ唇を噛みしめ、ジェイクは黙って背を向けた。
そのまま、小屋を出ていった。
エプシロンはというと、去りゆくジェイクの背中をじっと睨みつけている。
直後、泣き崩れた。
言えばよかった。
たった一言、「好きだ」と。
それだけでよかった。
エプシロンは膝を抱えたまま、真っ暗な部屋の中で、指先をじっと見つめていた。フィオナに触れることのできなかった彼の手は、微かに震えていた。
いつかは、言えると思っていた。
時が来た……そう思えたら、心を決めて伝えるつもりだった。
でも、そんな時は訪れなかった。
「怖かったんだ。怖くて、言えなかった」
呟いた声が、自分でも驚くほど弱かった。振られるのが怖かったのではない。彼女がそれを聞いて、遠くへ行ってしまうのが怖かった。
言葉にしてしまえば、何かが壊れる気がして、いつも笑ってごまかしていた。
森の中を共に歩き、一緒に粗末なものを食べ、笑い合う。それだけで幸せだった……はずだった。
だが、そこにジェイクが現れた──
もし、ジェイクがどうしようもないクズ野郎だったら……エプシロンはどんなに汚いやり方をしてでも、ふたりを引き裂いていただろう。
あるいは、フィオナを奪って、どこか遠くへ逃げていたかもしれない。
誰に咎められようと、エプシロンは正しいと信じたことをやっていたはずだ。
でも、現実は違った。
ジェイクは、あまりにも「いい奴」だった。
戦いに慣れた体と鋼のような腕、鋭い勘と判断力。その強さは、エプシロンには想像もつかないレベルである。
だが、それだけではない。ジェイクには、まっすぐな魂があった。
普段は軽口を叩いて、人を煙に巻くようなことばかり言っていた。けれども、その奥にあったのは純粋な心だった。
エプシロンは、わかってしまったのだ。
ジェイクの全ては、フィオナに向いていた。視線の熱さも、笑う時の優しさも、不安を拭ってやるような言葉の選び方も、全部が真実だった。演技なんかじゃない。
ジェイクは、フィオナを心から愛していた。フィオナも、ジェイクを心から愛していた。
そこに、エプシロンの入る隙間はないのだ。
だから、エプシロンは身を引いた。引かざるを得なかったのだ。「仕方ない」と、ひたすら自分に言い聞かせ続けた。
フィオナには、俺なんか必要ない。
あいつみたいにまっすぐで、強くて、どこまでも彼女を信じられる男が相応しいんだ。
俺には、この森の動物を守る義務がある。
そう思い込もうとした。エプシロンは自分を誤魔化して、言葉を飲み込んで、ふたりの前で笑っていた。
好きだなんて、ただの一度も伝えないまま……。
それが、悔しくて仕方ない。
もう、声も、笑顔も、見られない。
「好きだよ……フィオナ」
暗闇の中、やっと絞り出したその言葉は、誰の耳にも届かなかった。ただ、自分の胸にだけ響いて、すぐに消えていった。
しかし、翌日に想像もしていないことが起きる──
エプシロンの住む小屋に、ユニコーンが息せき切って入ってきたのだ。
同時に口を開く。
「フィオナが、今さっき死んだぞ!」
「知ってるよ……遅いんだよ、お前は。そんなの、ジェイクの奴から聞いて──」
そこで、エプシロンは違和感を覚えた。今のユニコーンの言葉はおかしい。
「ちょっと待て。お前、今さっき死んだって言ったな? どういうことだ?」
「言葉の通りだ。フィオナは、今さっき死んだ。私の角に、彼女の死が伝わってきたのだ」
そう言うと、ユニコーンは静かに頭を振った。その白銀の角の根元が、かすかに赤黒く染まっていた。
「これこそが、フィオナの死を感知した証だ」
「証?」
エプシロンが眉をひそめると、ユニコーンは頷いた。
「我らは、命の印という感覚を持っている。魂と魂が繋がった者……互いを認め合った者の死が訪れると、この角に痛みが走る。血のような熱が、内側から滲み出すのだ」
「そんな能力が……」
「疑っているのか?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
「以前にもあった。かつて私が戦で背に乗せた者が亡くなった時、私は離れた場所にいた。全力で走っても、数日かかるような場所にな。それでも、同じように角が焼けるように痛んだ。場所も時間も関係ない。魂の繋がりだけが、反応を呼ぶ」
聞いたエプシロンは、思わず目を伏せた。
ユニコーンの言葉に嘘はない。なぜなら、嘘をつく必要がないからだ。聖なる獣は、人間とは違う。嘘を言わなくてもいい世界で生きている。
「となると……」
「そうだ。フィオナは、今さっき死んだばかりだ」
「どういうことだ?」
エプシロンは、その場に座り込んだ。
ユニコーンは、フィオナの死を今になって感知した。しかし、昨日のジェイクの話によれば、フィオナは二日前に戦死した……ということになっているらしい。
「お前は、フィオナの死体のある場所もわかるのか?」
気がつくと、エプシロンの口からそんな言葉が出ていた。
「ああ、わかるぞ。だが、死体をどうする気だ?」
「いや、せめてこの森に埋めてやろうかと思ってさ」
一応は、そう答えた。だが、実際はそうではなかった。
ジェイクと、ユニコーンの話のズレ……何かモヤモヤするものを感じる。そのモヤモヤの正体を突き止めたいのだ。




