回想・フィオナの想い(1)
あの時、闘技場で観たあいつの姿は、あまりにも眩しかった──
ある日、私はとんでもない噂を聞いた。
クランの街には、恐ろしい男がいるという。数十人の兵士を、たったひとりで一蹴してしまう武術の達人だ。オーガーやミノタウロスですら、素手で倒してしまうというのだ。
聞いた時は、嘘だろうと思っていた。武人の話には、とかくデマが多い。人間は自分の手柄を大げさに語りたがるものだし、武勇伝を後から聞いた者は話を膨らませたがる。
だが、聖炎騎士団のアラン・アデールは、その男の知り合いだというのだ。
「いやね、えらく変わった男なんですよ。すっとぼけた性格で酒好きで女好きで、武術の達人なんて印象とは程遠い男ですね。ただ、腕の方は確かです。あいつだけは、間違いなく本物ですね。俺なんざ、百人がかりでも奴に勝てる気はしませんよ」
このアランという男、貴族らしからぬ話し方をする。アデール家はイスタル共和国でも名門なのだが、アランは遊び好きな放蕩息子として知られていた。
聖炎騎士団には、貴族でも評判のよくない子女たちの受け入れ先……という一面もある。私は団長として、彼らの生活指導もしていたのだ。
「その男には、どこで会える?」
「えっとね……あいつが普段いるのは、とんでもなく治安の悪い街なんですよ。アグダー帝国のクランて街を御存知ですか? そこを根城にしてます」
「案内してくれぬか?」
頼んだ途端、アランの顔色が変わった。恐ろしい勢いでかぶりを振る。
「えっ? いや、それはやめた方がいいですよ。あそこはね、団長の行くような場所じゃないですから」
その時、私は前に進み出る。アランの襟首をつかんだ。
「嫌だというのか? 私の頼みが、聞けないというのか? お前が我が団の合同演習をサボり、どこかの村娘とよろしくやっていたことを父君に報告しても良いと、そういうことかな?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! そりゃなしですよ!」
アランは、今にも泣きそうな顔だ。そう、アランの父は厳格な男である。そんなことが知れたら、今度こそ勘当されるかも知れない。
「じゃあ、私の頼みを聞いてくれるな?」
「わ、わかりました……」
クランの街は、混沌と悪徳を鍋で煮詰めたような場所だ。通りを歩けば、怪しげな屋台が立ち並び、客引きが進路を塞ぐ。さらに、こちらを値踏みするような視線をあちこちから感じた。
最悪だ。こんな街は、さっさと焼き払ってしまえばいいのに……私は、そんなことを考えつつ進んでいった。
「団長、変なのが声かけてきても相手しちゃ駄目ですよ」
横にいるアランが囁きかけてくる。私は頷き、先を急いだ。
地下闘技場は、想像を遥かに超える場所だった。
まず、入口からして異様だった。アランが古びた倉庫のような建物の扉を開け、中に入っていく。
内部には何もなく、ガランとしている。奥にはもうひとつ扉があるが、そこにはいかつい風貌の大男がふたり立っていた。
アランは大男に近づき、何事か囁いた。大男は頷き、扉を開ける。
地下へと続く階段を降りていくと、現れたのは円形の鉄格子に覆われた闘技場だ。
客席には、人相の悪い連中が大勢座っていた。だが、どこかで見たような顔もちらほら見かける。
たとえば、後列の端の席に座っているのはパーン男爵だ。普段とは全く違う服装だが、あの特徴的な顔立ちを見間違えたりはしない。
温厚な人柄で知られている人物だが、まさかこんな場所に通っているとは……。
その時、アランがそっと囁いた。
「ここはね、お偉いさんがお忍びで観にくるんです。この地下闘技場はね、知る人ぞ知る場所なんですよ。あまりキョロキョロしない方がいいですよ」
「わかった」
そこで始まったのは、恐ろしい戦いであった。
まず、片方の扉から出てきたのは、豚のような頭をした亜人オークだ。逞しい体で、右手には棘が付いた棍棒、左手には盾を持っている。
もう片方の扉からは、剣と盾で武装した人間の戦士だ。
「人間で、この地下闘技場に出場するのは、ほとんどが多額の借金を背負った食い詰め者です。人生の一発逆転を狙って、エントリーするんですよ」
アランが囁いてきた。
「あまり良い趣味ではないな。こんなものを、わざわざ観にくるなど……神経を疑うな」
話している間に、試合は終わった。オークの棍棒で叩き潰され、人間の戦士は原型すら留めていない。
ちらりとパーン男爵の方を見ると、楽しそうな表情を浮かべて檻の中を見ている。人が惨殺される様を見るのが趣味だったとは……。
その後も、似たような見世物が続いた。
ゴブリンの群れと、巨大なヒグマのハンディキャップ・マッチは、ヒグマの勝利となった。
トロールとオーガーという巨体亜人同士の対決は、トロールが勝利した。
トカゲのような亜人・リザードマンと巨大なトラの対決は、トラが辛くも勝利した。
いずれも、負けた側は死んでいる。これは、ただの殺戮ショーだ。断じて闘技を見る場ではない。私は不快になり、席を立とうとした時だった。
突然、檻の中にひとりの男が入ってきた。白いシャツを着ており、片目には黒い眼帯を付けていた。年齢は三十代から四十代だろうか。
その男は観客に向かい、高らかな声で叫ぶ。
「さあ、今日のメインの試合だ! この地下闘技場無敗のチャンピオン、ジェイクだ! 今日は、久しぶりに来てくれたぜ!」
男の声と共に、現れたのは想像とは全く異なる人物であった。
着ている袖なしのシャツには、あちこちに染みが付いている。履いている革のズボンは、あちこちに小さな穴が空いていた。
金色の髪は短く刈られており、袖なしシャツから覗く肩や腕は筋肉に覆われている。しかし、顔つきには締まりがなかった。整った目鼻立ちをしてはいるが、表情がニヤついている。
これから命懸けの闘いをするというのに、ヘラヘラ笑いながら、観客に両手を振って見せているのだ。
あれが、武術の達人だと?
正直、私は拍子抜けしていた。達人のイメージとは、まるで違う。
「おい、あいつか? あいつで間違いないのか?」
私は、隣にいるアランに尋ねた。すると、彼は苦笑しながら頷いた。
「はい、間違いありません。まあ、見ててください。百聞は一見に如かず、ですよ」
アランが答えた時だった。眼帯の男が、反対側の鉄格子を指差す。
「そして、今日ジェイクと闘うのは、ミノタウロスだ! じゃあ、俺はこの辺で失礼するぜ! このままいたら、ミノタウロスに殺られちまうからな!」
そう言うと、眼帯の男は檻から出ていった。
続いて格子が上がった瞬間、場内を異様な空気が包む。やがて、ミノタウロスが出てきた。
黒光りする獣毛。顔は牛のような形であり、二本角が生えている。もっとも、時おり開く口から見える牙は肉食獣のそれだ。筋肉に覆われた腕は、私の胴回りよりも太いのではないか。脚もまた逞しく、大木のようである。蹄が生えた足で歩く姿は、悪夢で見る怪物が実体化したようだ。右手には巨大な棍棒を持ち、ブンブン振っている。
私は、ミノタウロスと戦ったことはない。だが、噂は聞いている。牛の力と虎の動きと人間の知能を兼ね備えた非常に手強い相手だ、と。成長しきったヒグマですら、素手で引き裂いてしまえるのだという。完全武装した騎士数人がかりでも、勝つのは難しいだろう。
そんな怪物を相手に、あの男はどう戦うというのだ?
次の瞬間、信じられない出来事が起きていた。
棍棒を振り回すミノタウロス。その攻撃を、ジェイクという男は紙一重で躱しているのだ。棍棒の届く間合いを、完璧に見切っている。掠るようなギリギリのところで、ヘラヘラ笑いながら避けていた。
こんなことは、いにしえの剣聖にしかできない芸当だ。
だが、もっと驚くべき事態が待っていた。
攻め疲れか、攻撃が止まったミノタウロス。その時、ジェイクは何かブツブツ呟いた。
次の瞬間、奴の拳が光った……ように見えたのだ。
ジェイクは、その輝く拳を打ち込む──
次の瞬間、ミノタウロスの巨体が、ゆっくりと倒れていった。そのまま、ピクリとも動かない。
ジェイクが勝ったのだ。それも、いとも簡単に。




