それぞれの思い
デリシャスから話を聞いた後、ジェイクらは森を出てアグダー帝国へと向かっていた。
皆、一言も口を開かない。先ほど、エプシロンの力がどれほどのものか、デリシャスからはっきりと聞かされたのだ。
無論、悪魔や魔法にうといアランやスノークスには、その恐ろしさが完全に理解できたわけではない。それでも、ジェイクらの反応から察することはできた。
このエプシロンという怪物は、想像もつかないほどの存在なのだ──
特に、スノークスは間近で目撃している。
エプシロンが『ジュジャクの館』の主人であるニールを惨殺し、壁に一撃で穴を空けて消えていく様を……これまで傭兵として生きてきたスノークスにとって、人生で最大最悪の危機であろう。
はっきり言うなら、彼は降りたかった。他の者からの依頼なら、今すぐ「あいたたた……俺、腹痛いから抜けるぜ」などと言って、さっさとずらかっていただろう。
しかも、この仕事は一文にもならないのだ。ここで「俺は抜けるぜ」と言ったところで、誰も責めることはない。それに、スノークスは傭兵としては中の中……いや、中の下レベルかもしれない。そんな者が、ひとつの国をも滅ぼしかねないような怪物との戦いに加わっていいのだろうか? という疑問もある。もっと相応しい勇者がいるのではないか、という思いもあった。
だが、今さら降りることはできない。
スノークスは、間近で見てしまった。
かつて、英雄と謳われたレオニス・ドルクの無様な姿。家のために、己の娘をも平気で犠牲にする腐った本性を……。
堕ちた勇将の姿だけでも、充分に衝撃的だった。だが、そんなものよりも遥かにショッキングな光景があった。あれは、永遠に心から離れてくれないだろう。
(フィオナは言ったんだ! いつの日か、国境をなくしたいと! 世界をひとつに結んで、誰もが幸せに笑える、そんな世の中にしたいと! あんた、この言葉をどう思う! こんな大きな夢を抱いていたフィオナの命を、あんたは家のために使い捨てただけだろうが!)
あの時、ジェイクは泣いていなかった。だが、涙を流すよりも深い悲しみが、はっきりと伝わってきた。
スノークスの知る限り、ジェイクは誰よりも強い男だ。だが、それだけではない。ジェイクの凄いところは、とんでもない困難に笑顔で立ち向かっていける精神力だ。あれは、誰にも真似できないだろう。
そんなジェイクの苦しみと悲しみを、スノークスは知ってしまったのだ。今、ここでずらかってしまったら、何が起こるか。
確実に、生きて家には帰れる。代わりに、とんでもないものを背負うことになる。
スノークスは、一生自分で自分を許せないだろう。自責の念にかられ、残る人生を酒浸りで過ごすことになる。それは、死んでいるのと同じ……いや、それ以下ではないだろうか。
そう、スノークスにとって、この件から逃げるのは、死ぬことよりも嫌なことだった。
もうひとりは、違う想いを抱えていた。
アランは、何度も言いかけた。が、その度に舌がもつれ口ごもり言葉が出てこない。情けない話だ。
自分でも、こんなことを考えるのは場違いだと分かっている。だが、どこかで言わなければならない。そう考えると、余計に焦りが募っていった。
その時、リリスが躓いた。途端に、皆が足を止める。
「大丈夫か?」
声をかけるジェイクに、リリスは苦笑し答える。
「大丈夫だよ。いいから先行って」
「あ、ああ」
ジェイクとスノークスは、再び歩き出した。セリナは心配そうに見ていたが、リリスに近づいていくアランを見て何かを感じ取ったらしい。そそくさと離れていった。
「あ、あのう、リリスさん……」
立ち上がったリリスに、アランはそっと声をかける。おどおどした様子で、普段「放蕩息子」などと呼ばれている彼らしからぬ態度だ。
「ん、何?」
リリスはというと、落ち着いた表情だ。先ほどエプシロンの話を聞いた直後とは、完全に違っていた。
「あのですね、この事件が片付いたら……その、どうでしょうか?」
「はあ? どうでしょうかって何?」
「ですから、全てが無事に終わって、もし命があったら──」
「あのねえ、そういうことは今は言わない方がいいよ。戦場に行く前、彼女に結婚の約束をしていた男を大勢見てきた。でもね、そういう奴らはほぼほぼ帰ってこなかったよ」
「はあ!? けけけ結婚!? ち、違いますよ! そんなんじゃありません!」
思わず声を裏返すアラン。顔が真っ赤に染まり、両手をぶんぶん振って否定する。
対するリリスは、ふっと口の端を上げる。からかうような笑みを浮かべていた。
「何焦ってんだい。結婚てのは、ひとつの例だよ。何の話かは知らないけどさ、それは生きて帰ってきた時にとっときな。それが、あたしの言いたかったことだよ」
その言葉は、決して突き放すものではなかった。むしろ、彼女なりの気遣いだった。戦いを前にした若者の気持ちを無駄にしないための、優しい盾だった。
アランは唇を噛んだ。心臓は、まだ早鐘のように鳴っている。けれど同時に、リリスの言葉が胸の奥にじんわりと染み込んでいった。
(生きて帰ってきた時に、とっときな)
その一言は、アランにとって何よりの希望になった。もし本当にエプシロンとの戦いで生き延びることができたなら、その時こそ改めて言おう。
だからこそ、絶対に生き延びる。
いや、それだけではない。
リリスには、傷ひとつつけさせない。必ず守り抜く。自分もリリスも、必ず生きて帰る。
そして、必ず想いを伝える──
◆◆◆
その頃、バーレンのゾッド地区では──
「お前は、ジェイクを見張っているのではなかったのか? だからこそ、単独行動を許したのだぞ」
ダークエルフのアインリヒが、冷酷な表情で言った。
「しょうがねえだろうがぁ! あの野郎は、とんでもねえ卑怯もんなんだよ! 一対一の勝負に、毎回助っ人を呼ぶどクサレ外道なんだ! あの野郎、絶対に殺す! 殺して殺して殺しまくるぅ!」
狂ったように喚きちらすのは、もちろんピューマだ。その狂気は、日を追うごとに増しているようであった。
アインリヒとピューマにゲルニモの三人は、ゾッド地区の外れにいた。すぐそばには、高い城壁がそびえ立っている。周囲には、粗末なテントや木材を積み重ねただけの小屋がある。人の気配はするが、息をひそめ音も立てないようにしている。アインリヒらが放つ危険な匂いが、彼らにそうさせていたのだ。
この街で、ラーヴァナの残りのメンバーと合流してジェイクらを仕留める。それが、リーダーであるアインリヒの計画であった。
「ジェイクの野郎、今度会ったらブッ殺してやるぜ」
言ったのはゲルニモだ。すると、さっそくピューマが絡んでいく。
「はあ!? てめえはライブラの聖女のピカピカ魔法にやられただけで、泣きながら逃げてったじゃねえか! てめえみたいなチキン野郎にはな、ジェイクを殺ることなんかできねえよ! コケコッコーとでも叫んでな! このチキンチキンチキン!」
叫んだピューマに、ゲルニモの表情が変わる。
「誰がチキンだ! このクソチビが! ジェイクの前に、てめえを捻り潰してもいいんだぞ!」
「笑わせんじゃねえよ! てめえなんざデカイだけで何にも役立たねえじゃねえか! てめえはな、ウロの大木だ! 中身すっからかんの、ウロだらけになったデカイだけの木だよ!」
言いながら、ピューマはその場で宙返りをしたのだ。着地と同時に、短剣を抜いた。
たちまち臨戦態勢に入る両者。が、そこで現れた者がいた。
「やめろバカ。我々の今の標的は誰だ? ジェイクだろうが。どうしても殺り合いたいなら、ジェイクを仕留めた後にしろ」
ゲルニモとピューマという化け物の間に割って入り、そんなことを言ったのは……黒いマントに身を包み、フードをすっぽりと被った者だった。声からすると男のようだが、姿は全く見えない。まるで、闇が動いているかのようだ。
と、ふたりは不満そうな顔をしながらも引き下がる。どうやら、その男には一目置いているらしい。
「アインリヒさま、遅れてすみません」
続いて現れ挨拶したのは、若い女であった。こちらも黒いマントに身を包んでいるが、フードは被っていない。美しい顔立ちだが、髪を綺麗に剃り上げていた。
その剃り上げた頭の周りには、ぐるりと一周するような醜い傷痕があった。しかも、何かに憑かれたような目でアインリヒを見つめている。
「カオス、それにエヴァ、首尾はどうだった?」
尋ねたアインリヒに、エヴァと呼ばれた女は嬉しそうに答える。
「はい、異教徒どもは皆殺しにしてきました。カオスの戦いぶりは、本当に見事でしたわ」
「そうか。次の獲物は、霊拳術士ジェイクと奴の仲間たちだ。これまでとは違い、簡単にはいかんぞ」
そう言ったアインリヒに、エヴァはクスリと笑う。
「ふふふ。我らが五人揃えば、倒せぬ者など存在しませんわ」




