エプシロンの葛藤
アグダー帝国の首都バルビアには、派手な建築物がいくつもある。その中でも、五本の指に入るのがエドマンド伯爵の屋敷であろう。
屋敷の外観は重厚で威圧的だ。黒檀のように暗い石で組まれた二階建ての建物は、窓の額縁や軒下に金箔を嫌味たっぷりにあしらい、ところどころに真鍮の飾り板が打ち付けられている。
屋根には小さな鉄の塔が突き出し、その先端には血のように赤い旗が翻ることがある。外壁には、獲物を誇示するかのように鹿や熊の剥製や古い甲冑が掛かっており、夜間には窓の薄明かりがそれらの影を壁に巨大に映し出す。
中に入ると、主の趣味の悪さが如実になる。サロンは宴のための部屋だが、そこにある装飾は品がいいとは程遠い。深いベルベット張りの長椅子、金縁の鏡、象牙の置物、やたらと揃えられた酒器の一群が不釣り合いに並ぶ。棚には戦利品や奇物が雑然と収められ、貝殻や奇形の骨、遠征先で入手したらしい異国の工芸品が混ざっている。壁の一角には扇情的な裸婦像が並び、その前に置かれた小さな銀盆には常に乾いた花びらと砂糖菓子、そして指紋まみれのワイングラスが無造作に置かれている。家具の角は磨耗して黒光りし、特に長椅子の座面の一部は不自然に沈み込んでいる──誰かが頻繁に寄りかかる場所らしい。
プライベートの寝室兼書斎は、伯爵の性格を最も雄弁に物語る空間だ。窓際の天蓋付きベッドは豪奢だが、薄い錆色の染みがカーテンの裾に滲んでいる。書棚には帝国の系図や軍略書がぎっしり並ぶ一方で、猥褻な挿絵のある古書や秘伝の薬草図譜まで混在している。机の上には打ち合わせ用の地図と、丁寧に並べられた小箱がある。
部屋の角には暗い扉があり、それは地下へと続く秘密階段を示しているらしい。扉は常に重く閉ざされ、開けると冷気と、かすかな油と鉄の匂いが上がってくる。
夜が明けようとしていた頃、エドマンド伯爵は秘密の地下室にいた。
普段は、その地下室にて気に入った町娘を連れ込み、夜の秘め事に耽る。そのための部屋なのだ。中には手錠や鞭といった、いかがわしい品がずらりと並べられている。
しかし、今日のお相手は普段とはまるきり違っていた。何せ、目の前には顔を真っ白に塗った男がいるのだ。黒の上下に身を包み、体は細見だが異様な腕力の持ち主だ。
この奇怪な男は、寝室に音もなく入って来たかと思うと、エドマンドを片手で担ぎあげ地下室へと連れ込んでしまったのだ。
「お初にお目にかかります。わたくし、エプシロンと申します」
そう言って、恭しい態度で一礼するエプシロン。だが、エドマンドは怯えきっていた。寝間着姿で、ガタガタ震えている。
それも当然であろう。エドマンドは、ほんの少し前までは熟睡していた。それが、突然この地下室に連れてこられたのだ。
この部屋には、完璧なまでの防音設備を施している。したがって、泣こうが喚こうが誰にも聞こえないのだ──
「な、なんだお前! エプシロン!? そんな者など知らんぞ! どうやってここに入った!?」
それでも、エドマンドは貴族の意地を見せる。強がって大声で尋ねたが、その足はガタガタ震えていた。
「そんなことは、どうでもよろしい。ひとつ、あなたにお聞きしたいことがあります。フィオナ・ドルク嬢のことです」
言うと同時に、エプシロンの手が耳たぶへと伸びる。
直後、引きちぎってしまった──
悲鳴をあげるエドマンドだったが、エプシロンはお構いなしに彼の襟首をつかむ。
「全部、話すのです。でなければ、もっと苦しむことになりますよ」
エドマンドは、血まみれの顔でどうにか答える。
「あの女か? あいつは……俺がやってやったよ。その後で、グノーシス枢機卿の術で顔を変えて売春宿に送ってやったんだ!」
「なるほど、グノーシス枢機卿の力でしたか」
「あの女のせいで、俺は皆からの笑い者だ! 俺は貴族の誇りを失ったんだ!」
やけくそになったのか、エドマンドは喚きちらした。その時、暗い光がエプシロンの瞳に宿る。
「フッ、あなたの誇りはそんなものですか。そもそも、誘いを断られたからといって暴力に訴える時点で、誇りなどという言葉とは無縁の塵芥かと思われますがね」
その後に起きた出来事は、一瞬のうちだった。
エプシロンの手が振るわれ、エドマンドの胸にめり込む。あまりに速いため、悲鳴すらあげる暇がない。
やがて、エプシロンは腕を引き抜く。その手には、血まみれの心臓が握られていた。
エプシロンは、心臓を高々と掲げる。垂れてくる血を、ゴクゴクと飲んだ。
次の瞬間、心臓を貪り食った──
終わった後、エプシロンは黙ってエドマンドの死骸を見下ろしていた。
ややあって、その口から言葉が出る。
「フィオナ、仇は討ったぞ。だが、殺すべき者はまだまだ大勢いる」
エドマンドを殺した後、エプシロンは瞬時に外に出た。野原にて、ひとり物思いに沈む。
フィオナの仇のひとりを、この手で始末できた。だが、胸の奥に燻るものは、未だ消えてくれない。
これは、いったい何なのだろうか。どうすれば消えるのだろう……そんなことを考えていた時だった。
「おじさん! 面白い顔だね! 真っ白だ!」
不意に聞こえてきた声。見れば、幼い子供がこちらに駆けてくる。この辺りの住人だろうか。エプシロンのことが怖くないらしい。
気がつけば、既に日は高く昇っている。ここに半日近く座っていたらしい……。
「おいおい、おじさんはないだろう」
そう言って、エプシロンは笑った。
子供も笑った。無垢で、何の悪意もない顔だった。何歳くらいだろうか。まだ十歳にはなっていないだろう。
その瞬間、胸の奥がぐらついた。異様な感覚が波のように押し寄せる。次の瞬間、それは血の衝動に変わっていた。
殺せ──
頭の中に声が響く。ささやきではなかった。鼓膜ではなく、脳髄そのものを直に揺らす声。
(君はもう人間じゃないんだよ)
「違う。心は人間だ……」
(殺せば、もっと強くなれる。人間を引き裂き、屠り、食らうんだ。今の君が飢えから逃れるためには、もっと血を飲まねばならない。肉を食らわねばならない)
「バカな……俺に、そんなものは必要ない」
(自分に正直になれ。ほら、目の前に……餌がいるじゃないか)
「やめろ……やめろ……やめろぉぉぉ!」
エプシロンは頭を抱えて叫び、地面に拳を叩きつけた。土が割れ、声が消えた。
と、子供が怯えた表情で倒れた。尻餅をつき、ガタガタ震えている。よほど怖かったのだろう。
エプシロンは、どうにか微笑んだ。
「ご、ごめんよ。怖がらせるつもりはなかったんだ」
言いながら、しゃがみこんで手を差し伸べる。だが、子供は悲鳴をあげた。手から逃れようと、後ずさっていく。
その瞬間、エプシロンははっきりと悟る──
俺は、悪魔なんだ。
この少年に、見破られた。
直後、エプシロンは立ち上がった。凄まじい速度で、森の中へと消えていく。
誰もいない草原で、エプシロンは泣き崩れていた。拭いても拭いても、涙が止まらない。
俺は、復讐のために悪魔の力を得た。
でも、心までは悪魔に売らない……そう決めていた。
甘かったんだ。
今の俺は、心まで悪魔に支配されようとしている──
そんなエプシロンを、離れた場所でじっと見ている者がいる。
今の彼のパートナーであるバイコーンだ。赤い瞳で、じっと見つめているだけだった。
やがて、その口から言葉が漏れる。
「切り裂き、屠り、食らえ……悪魔と化したお前にとって、それが唯一の生きる道だ。そして、共に歩もうではないか。人間どもの血で染まった赤絨毯を、な」




