冒頭ポエムっぽい会話と、両者の遭遇
「人が死ぬと、その魂は冥界へと運ばれる」
「その魂が、あまりにも深く傷つき悲しんでいる時はどうなるの?」
「そんな時は、悪魔が現れ魂に取引を持ちかける。取引に応じると、魂は再び現世へと戻されるのだ。そして、魂は最凶の怪物として蘇る。恨みを晴らし、過ちを正すために……」
・・・
クランの街は、アグダー帝国の中でも最下層の者だけが住んでいる貧民窟だ。道ばたには、怪しげな屋台が立ち並んでおり、ガラの悪い男女があちこちでたむろしている。
彼らは楽しそうに話しながらも、時おり鋭い視線を通りに向ける。その様は、獲物を探す肉食動物のようにも見えた。
そんなクランの片隅にある古びた酒場『トレビー』のカウンターにて、ひとりの男が飲んだくれていた。
店はさほど大きくなく、髪の薄くなった店主と中年の女給が切り盛りしている。飲んだくれ男の他に客は来ておらず、店主の彼を見る目は少し面倒くさそうだ。
「おい、酒だ酒。酒もってこい」
言いながら、飲んだくれは空のグラスを指し示した。
見た目の年齢は、二十代半ばといったところか。もともとの顔立ちは悪くないのだろうが、今は締まりがなく腑抜けた表情を浮かべている。髪は短いがボサボサで、無精髭が口の周りを覆っていた。
袖のない布のシャツを着ているが、食べこぼしや飲み物によるシミがあちこちに付いている。
金が入ると、その日のうちに酒代へと消えてしまう日雇い労働者という風体だ。もっとも、ここにいる飲んだくれが、そんな者でないことを店主は知っている。
「おいジェイク、ちょっと飲み過ぎだぞ」
たしなめる店主を、ジェイクは睨みつけた。
「るせえんだよ。てめえは黙って酒だしてりゃいいんだ。瓶ごと持ってこい」
「ったく、始末に負えねえなぁ」
店主は、思わず顔をしかめる。
今、店で飲んだくれているジェイクは、裏の世界では知る人ぞ知る存在なのだ。アグダー帝国最強……いや、かつては世界最強なのではないかと噂されていた男だった。
しかし、今は見る影もない。ただの飲んだくれでしかなかった。
店主がグラスに酒を注いだ時、店の扉が開く。
「おう、邪魔するぜ」
大きな声とともに入ってきたのは、小山のような体格の大男だ。髪は肩まで伸びており、首には鎖が巻き付いている。
その大男を先頭にして、チンピラのような連中が肩をいからせ入ってきた。みな革の服を着ていて、恐ろしく人相が悪い。めいめい、腰には長剣や短剣といった武器をぶら下げていた。
「おいおい、ずいぶんと空いてるじゃねえか」
言ったのは、チンピラ連中の一員である赤毛の男だ。体は小さいが、凶悪そうな顔つきである。
「い、いらっしゃい……」
店主は、愛想笑いを浮かべつつ挨拶する。もっとも、彼らの来店を歓迎していないのは明らかだった。
すると、赤毛の表情が変わる。
「はあ? なんだよ? こっちはな、先の戦争で戦ってきたんだぞ。お国のために戦った俺たちに、その態度はねえんじゃねえか!」
喚きながら、テーブルにナイフを突き刺した。すると、店主の表情が歪む。
「すみませんが、店の物に傷をつけるのは困るんですよ……」
「何だと? 誰が誰にものを言ってんのか、わかってねえらしいな。俺たちゃ客だぞ」
今度は大男が凄む。と、別の方向から声が飛んできた。
「お前ら、戦争帰りか?」
言いながら、立ち上がったのはジェイクだ。その瞳には、凶暴な光が宿っている。
「さっき、そう言っただろうか。お前、耳が聞こえないのか?」
からかうような口調で言ったのは赤毛である。ジェイクは、溜息を吐いた。
「そうか。お前らみたいなクズが生き延びて、フィオナが戦死するとはね……世の中、どうなってやがるんだろうな」
「はあ? 何わけわかんねえこと言ってんだよ」
大男が言った時だった。突然、ジェイクが動く──
ジェイクは、瞬時に大男の懐に飛び込んでいった。あまりの速さに、誰も反応すら出来ず見ているだけだ。
しかし、ジェイクの方は動き続けている。大男の顔を掴み、瞬時に捻りあげる。
ゴキッ、という音が鳴った。直後、とんでもない事態になる──
「ア、アガ! アガー!」
大男は、いきなり奇声を発した。口を大きく開けたまま、右往左往している。その様は、滑稽であった。
「て、てめえ! 何をした! 殺すぞゴラァ!」
喚いたのは赤毛だ。腰にぶら下げていた短剣を抜き、ジェイクにちらつかせる。
だが、ジェイクは表情ひとつ変えなかった。音も無く赤毛に近づき、彼が短剣を振り上げた手首をスッと握った。
途端に、赤毛の口から悲鳴があがる。同時に、握られていたはずの短剣が落ちた。その手首は、おかしな方向に曲がっている。
他の男たちも、ようやくジェイクが只者でないことに気づいたらしい。顔を歪め、後退りしていく。
そんな彼らに、ジェイクは面倒くさそうな表情で声をかける。
「このふたりを、さっさと教会に連れて行け。ライブラ教の司祭に治してもらうんだ。でないと、一生このままかもしれないぞ」
その言葉に、男たちは青ざめた表情でウンウンと頷く。
直後、ふたりを連れ慌てて逃げていった──
一方、ジェイクは冷めた表情で再びカウンター席に座った。直後、グラスの中に残っていたものを一気に飲み干す。
さらに店主を睨み、グラスを掲げた。
「オラァ、無くなってんぞ。さっさと注げよ」
「はいはい、わかったよ」
言いながら、酒を注ぐ店主。
そう、このジェイクは腕が立つ。今は酒浸りだが、それでも今のようなチンピラ兵程度なら、あっという間に撃退できる。
ここは、ガラの悪い客が多い。だからこそ、店で飲ませておけば用心棒代わりにはなるのだ。
イスタル共和国と、アグダー帝国。
このふたつの国は、百年近く前より同盟を結び良好な関係を築いていた。貿易も盛んであり、両国の王家もまた、親戚同士のような付き合い方をしていた。
ところが、そんな両国の関係は一変してしまう。
半年ほど前のことだ。
国境の町中にて、イスタルの兵がアグダーの貴族と揉めてしまった。きっかけは些細なことだったが、罵り合いから双方が剣を抜くことになり、両陣営ともに十人以上が死亡した。死者の中には、発端となった貴族もいる。
直後、アグダーはイスタルに宣戦布告した。そのまま、本格的な戦争が始まってしまう──
そして今から二週間ほど前、両国の国王が停戦に合意し調印した。この戦争、一年は続くであろう……と思われていた矢先のスピード解決である。どちらの国民も、この知らせに歓喜した。
ただし、素直に喜べない者もいる。このトレビーにも、ひとりいた。
「クソ、もっと早く停戦していれば……」
ジェイクは、呟くように言った。直後、ぐいと酒を飲み干す。
店主は、そんなジェイクに憐れむような視線を向けた。ただの酔いどれに向ける視線ではない。
本当ならば、ジェイクの横にはひとりの女がいるはずだったことを店主は知っている。
フィオナ・ドルク。
イスタル共和国のレオニス・ドルク公爵の長女であり、聖炎騎士団の団長でもある。そして、ジェイクの恋人でもあった。
しかし、フィオナは聖炎騎士団として戦場に赴き、戦死してしまったのだ。
両国の大臣らによる停戦会議が開かれ休戦したのは、その翌日であった──
ジェイクは酒を煽りながら、誰にともなくブツブツ言い続けている。店主も、さすがに付き合いきれず無視していた。
「こんな国、さっさと滅びちまえばいいんだ。いっそ、ドアンの伝説みたいに洪水で沈んじまえば……」
ジェイクは、そこで口を閉じた。顔つきが一変し、パッと立ち上がる。
酒浸りの生活を送っていたとはいえ、勘は鈍っていない。彼は今、異変を感知したのだ。
「なんだよこれ!?」
叫んだ直後、ジェイクは外へと飛び出していった。
だが、そこに広がっていたのは恐ろしい光景であった──