「正義」は常に危うい
絶対化が招く暴走と分断
現代において「正義」という言葉は、極めて多用される。国家は“正義”の名のもとに法律を制定し、軍事行動を正当化し、個人は“正義感”によって他者を非難し、社会は“正義”を巡って分断と対立を繰り返している。
しかし、「正義」という概念は、本質的に不安定で危ういものである。
それは、時代や文化、立場、視点によって容易に変容し、“善悪の基準”でありながら、同時に“争いの火種”にもなりうるという、二面性を持つ。
この章では、「正義」という概念がなぜ危うく、時に暴力や腐敗を生み出すのかを、構造的・論理的に検証する。
1. 「正義」は主観的な構造に過ぎない
最初に確認すべきは、「正義」は**絶対的な普遍概念ではなく、文脈依存の“価値判断”**だという事実である。
宗教的正義:異教徒への暴力を正当化する場合がある(例:十字軍、ジハード)
国家の正義:戦争や弾圧を国益の名で行う(例:テロ対策法下の無差別監視)
市民の正義:SNSでの誹謗中傷や集団攻撃(いわゆる“正義の暴走”)
これらの「正義」はそれぞれの視点においては“正当”であっても、他者にとっては“害悪”となり得る。
つまり、「正義」は本質的に相対的で分断的な構造を持っている。
2. 「正義の独占」がもたらす危険性
歴史を見れば、もっとも多くの暴力と弾圧を生んだのは、“悪の力”ではなく、“正義の独占”である。
ナチス・ドイツは「民族の正義」の名の下に大量虐殺を行った
共産主義革命は「労働者の正義」で大量の粛清を正当化した
現代のテロリズムもまた「聖なる正義」の名を冠する
正義は、一度「絶対化」された瞬間に自己修正が不可能になる。異論を“悪”と断定し、自己の行為を検証できなくなり、ついには暴走する。
これは哲学者マイケル・サンデルが警告するように、「善き生のあり方」を一元的に定義する危険性とも通じる。
3. 「正義の構造」は常に“誰が語るか”に依存している
正義とは、価値の階層構造である。そこには必ず“誰か”が定義し、承認し、押し付けている主体が存在する。
国家が語る正義は、体制維持と治安の維持を目的とする
企業が語る正義は、利益とコンプライアンスを守る構造の中にある
個人が語る正義は、自分の価値観と快・不快に基づいている
正義とは、権力・立場・前提知識・感情の混合構造であり、常に“誰のための正義か”という問いを内在させている。
ゆえに、正義はそれ自体が“中立性を持ちえない”。
4. 情報社会における「正義の過剰露出」と「即時制裁」
SNS時代においては、個人が即座に“正義の審判者”として振る舞える構造が成立した。
その結果、正義は“拡散と制裁のスピード”によって劣化していく。
真偽が不明な情報による私刑(バッシング、炎上)
「空気の正義」による同調圧力と異端排除
数字やトレンドにより“正しさ”が可視化され、再帰的に強化される構造(エコーチェンバー現象)
ここでは、正義は“論理”ではなく“共感と怒りの速度”によって評価される。
その結果、思考を失った正義の暴走が常態化している。
5. 「正義」は常に問い直されなければならない
それでもなお、社会に「正義」は必要である。
しかしそれは、絶対視されるべきものではなく、常に更新されるべき“暫定的な判断”でなければならない。
ゆえに、以下のような姿勢が求められる:
正義を語る際は、必ず“他者の視点”を想像に組み込むこと
正義の適用には、論理と感情の両面からの吟味が必要であること
自らの正義を“仮説”として捉え、常に修正可能であるように意識すること
結論:「正義」は、暴力にも進化にもなりうる“両刃の構造”
「正義」は、世界を前に進める原動力にもなりうるが、その定義と運用を誤れば、最悪の暴力と分断を引き起こす危険な概念である。
だからこそ私たちは、「正義」を信じるのではなく、「正義を問い続ける力」を信じなければならない。
“正しさ”とは、他者を傷つけないためにこそ、もっとも慎重に扱うべき構造なのである。