EQUALITY UNDER THE LAW...
現行の法律に疑問を抱いた刑執行官たちによる革命戦争が終結。
改革派が勝利するも、新しく制定された法律は恐ろしいものだった。
主人公は自身の持っている“もの”で新しい法律に一人で立ち向かう。
独りという大きなリスク。
誰も傷つけたくは無い。
思い通りに行かない世の中を、この作品に込めました。
C.O.H
厳しい法の下、規律でかためられた世の中。
警察とは違い、即効型の刑執行組織があった。
裁判を必要としない強硬なものだ。人々は常にピリピリしている。
科学者の主人公は世の中の平等に違和感を感じていた。
人は外部の干渉だけではなく内部からの干渉からも影響を受ける。
執行官は被疑者の血を微量採取して機械にかけ、その結果もふまえ刑を決める。
しかし殺人などの凶悪犯罪には適用されない。これでは意味が無いような気もする。
C.O.H (code of hammurabiから引用され、命名された)……という刑執行官組織がある。執行官個人に個性はなく、ロボットのように淡々と仕事をこなす。かなり強気な治安維持組織。この世界ではカースト制度に似た階級分類が存在する。執行官はそれをふまえ、刑罰を決める。
つまり、カースト上位の者はカースト最下位の者よりも刑罰が軽くなるのだ。
カースト上位には、社会貢献の多さや影響力の大きい者がいる。
権力者やお金持ちがカースト上位の多数を占めている、ということだ。
彼らが優遇されるのには理由がある。
例えば…無職で知名度も全く無い、何も社会貢献などもしていない、健康であるにもかかわらず生活保護を受けている人間が、死刑になった場合、社会に与える影響は限りなくゼロに近い。
一方で…大企業の社長で、多くの事業に携わり、政府の有識者会議にも出席、低所得世帯や自然保護活動・代替エネルギーの開発への資金援助、TV番組でも人気のカリスマ性を持つ人間が、死刑になった場合、社会に与える影響はかなり大きい。
大きな問題には、多くの費用がかかる。
使われるのは、国民の税金だ。
このカリスマ実業家には大物政治家の親友までいる。
犯罪が明るみになれば、国会は連日、関係のある与党の大物政治家への追及のために、高額の税金が毎日のように使われる。
たとえ、未曽有の大災害が起きていようとも、この大災害と無理矢理にこじつけて、追及するのだ。
そんなお金があるのならば、被災者へ配った方がいい。
そして、カリスマ実業家が亡くなった場合、最悪…何万もの社員が職を失う恐れもある…。
また、彼の多くのファンが彼の罪を認めずに、暴動を起こす可能性もある。
保障と給料、そして待遇の良いこの職場を解雇されることになってしまった社員は、被害者やその家族に逆恨みをするだろう。無論、多くのリストラされた社員が、である。集団になった人間の攻撃性はぐんと上がる。
新たな被害者が生まれる可能性があるのだ。
他者の命を奪う行為…それは、どんな理由があろうとも、犯してはならない罪である。
法律は平等でなければならない。
しかし現実は…平等ではないのだ。
同じカースト上位の者同士が加害者・被害者だった場合、被害者が受けた苦痛と同じ痛みを、加害者は味わうことになる。
しかし、加害者が子供であっても、どんな理由があろうとも、カースト最下位の場合…待ち受けているものは地獄である…。
細胞レベルの平等
『犯罪指数の高い者は……赤子でも処罰される。』
刑執行官同士の革命戦争は終戦し、改革派が勝利した。
改革派は新しい法律を定めたが、それは思っていたものとは違った。
『犯罪指数の高い者は……赤子でも処罰される。』
…こんなことを望んで、戦争をしたんじゃない………!
蓋を開けてみると、いいようにつくられていたのだ。
そして、任務に忠実な保守派が、この革命戦争で多く亡くなったことで、刑執行官の質も落ちてしまった。
どう見ても…被害の方が大きかった。
復興作業にも取り掛からなければならない。再び革命を起こすほどの気力・体力も残っていなかった。
この革命戦争は、現行の法律に疑問を持った執行官が、新法律の制定が難しいことに業を煮やして、執行官のトップを暗殺したことを発端に始まってしまった。
執行官同士、保守派と改革派とに分かれ、溝は深まるばかり。
ヒートアップした末に、戦争にまで発展してしまったのだ。
戦争は、この世でもっとも重い犯罪だ。
刑執行官が、犯罪を犯す不条理。
しかも、ここまでしておきながら、新しく制定された新法律は多くの者が戸惑う、『犯罪指数の高い者は……赤子でも処罰される。』というもの…。
カースト制度と、規律によって支配されている国民の中に、異議を唱える者もいない。
心の中ではおかしいと思っている…けれど、目を付けられるのは怖い…。
case1
新法律・【犯罪指数の高い者は……赤子でも処罰される。】
が施行されてから、確実に治安は良くなって来ていた。
しかし連日、新聞やニュースでは、痛ましい内容が報道されている。
『…昨日の午前10時頃、青葉区緑ヶ丘公園内で2歳の女児が30歳代の女性を母親と間違えて抱きつく、という事件がありました。被害を受けた30歳代の女性は直ぐに執行官へと連絡を入れ、2歳の女児の血液はその場で精査され、高い犯罪数値および潜在犯罪指数が検出されたため、実験ラボへの輸送が決定されました。既に収容が完了しているとのことです。……えーそれでは、今週のトレンドのコーナーにまいりまぁーす!今回伺ったのは、代官山にありますオシャレなカフェレストランの…』
ピッ。
テレビが消され、一人の男が気持ち悪い物を吐き出すように大きなため息をつく…。
はぁ~~~~~…。
「犯罪を犯してしまう人間は、体内で……ある物質が異常発生してしまうんだ…。本人に自覚がなくても遺伝で受け継がれてしまう。それは理性では抑えが効かない。それが殺人欲求などにつながる。この2歳の女の子に基準値よりも大きな数値が出てしまっていても、なんら問題は無い。2歳の女の子に犯罪を行う意思があるものか!母親と間違えて抱きついたことで実験ラボ行きなんて酷過ぎる…!通報した女も女だ、何を考えているんだか…。大方、示談金目当てだったんだろう…。こちらの方がよっぽど問題だ。」
実験ラボでは、様々な実験が行われている。
犯罪者をモルモットの代わりとして実験に使っている。
このおかげで、昨今の医薬品の認可は非常にスピーディーになり、病の重症化率は激減している。
これに機嫌を良くした厚生労働省は、多くの犯罪者を求め、幼子でも未来に繋がるのならば多少の犠牲も已む無し、の姿勢だ。
そんな背景もあり、連日くだらない内容で捕まる人が後を絶たない。
皆、明日は我が身だということに気が付いていないため、他人事である。
たとえ真っ当な人間がいたとしても、声を上げれば、自分も犯罪者にされ、実験ラボでの非人道的な酷い実験が待っているため、二の足を踏んでいた。
本当のことを言うと、彼ら犯罪者の末路は実験ラボだけではない…。
この実験ラボですら、建前上は医療治験だが、その実…犯罪者に対し、多岐に渡るあらゆる被験を行っている。
その身体は死してもなお、骨の髄まで利用される。
こういった話は、ゴシップを扱う週刊誌の良いネタになり、ある事ない事が記事となり、実際の気が狂った被験が霞がかってしまう。
真っ当な人間が逡巡する中、一人の研究者が行動を起こす!
彼は、犯罪指数を判断するための物質、それを抑える新薬の開発を始めた。
その物質は男性ホルモンに含まれるため、無くすことは出来ない。
男性ホルモンは女性にもある。
犯罪指数の基準にもされているが、このホルモンは決して悪いものではなく、野心、仕事が出来る、弱い人を守る責任感、数学が強い、などにも影響を及ぼす。
これらの人々が犯罪者の烙印を押され、駆逐されてしまうと、世の中の均衡が崩れてしまう。
人は誰しも知らず知らずのうちに、何かしら法に触れる行為を行っている。
勧善懲悪を行えば、この世界から人は一人もいなくなるだろう。
人は生まれながら罪を背負って生まれてきている。
かつて、この土地でどれほどの血が流れてきただろうか。
我々が平等に生きるために、どれほどの涙が流れただろうか。
その痛みを私たちは知らなければならない。
知らずに生きていることの罪深さ…。
犯罪指数を判断するための物質、それを抑える、これが重要だと、この科学者は考えた。
もう、幼い命が軽んじられるニュースなど見たくも聴きたくもない!
新薬をはやく完成させるんだ。
認可の壁は初めから覚悟している。
それよりも、1分1秒が惜しい。
自分の研究室にいるスタッフにも知られてはならない。
自分は……今から……法を犯す……!
新薬の開発は順調に進んでいた。
しかしある日……
「……ん?データが表示されない…?…んん?……はぁ!?ウィルスに感染した!?なんで!?ネットは遮断しているんだぞ!?」
研究員はカチャカチャとタッチメソッドでPC内部のウィルス感染の原因を探る。
滑り止めが効かないほど、PCのキーボードが忙しなく揺れる。
しかし、そんなことなどお構いなしだ。
それほど焦っていた。
とにかく、ウィルスをなんとかしなければ重要なデータが無くなってしまう!
「……ふーーーーーー…。ぁあ、いい香り…」
甘ったるいアメリカンコーヒーを飲み、一息つく。
デスクに置いたコーヒーカップから、柔らかな湯気と共にコーヒーの香りが立ち昇ってくる。
あの後すぐに、USBにデータ保存しているのを思い出し、感染したPCは捨てることにした。
ウィルス感染したPCは強い磁気であらゆるデータ破壊した後、HDDを取り出して、物理的にもぶっ壊してやった…。
…あのパソコン……高かったんだぞ……。
ネット環境を遮断しているこの部屋でウィルス感染はおかしい。
外部から……となると……USBなどを通さなければ難しいはずだ。
……誰かが工作した可能性が極めて高い…。
……なら、データも既に盗まれているだろう。
順調にいっていたあの研究データは諦めて、ベクトルを変えないといけなくなってしまった。
……そんなこと出来るのか?
それよりも工作行為を行った人物を特定しなければ、研究を再開することなど出来ない。
新薬開発の研究室を出ると、別棟にあるメイン研究室へと向かうべく、外へ出た。
外へと出なくとも移動出来るのだが、私はいつも外へ出る。
木々に囲まれた研究施設。
「ん~-----っ!」
と、軽く背筋を伸ばして深呼吸をする。
固まった上半身から腰の筋肉をほぐすように、ラジオ体操やストレッチを軽くする。
メイン研究室へと向かう道すがら、腕や首をグルグル回しながら歩く。
……そして、没頭してる研究のことは考えない。
ここで、一旦リセットするのだ。
それが、私のこだわりでもある。
他の者たちは、外へ出ると、再び消毒エアーなどを一からやり直さないといけないため、その労力を考えると、一度研究室へ入ると出たがらなかった。
この施設は当たり前だが、セキュリティが厳重だ。
内部に犯人がいる可能性が高い。
研究のことは考えないが、犯人探しで今は頭がいっぱいだった。
プシューーー!
本日2度目の消毒エアーを浴びる。
セキュリティは体に埋め込まれているチップでなんなく通る。
研究施設は白で統一されており、研究で疲れた目には眩しく感じ、少し嫌だな、といつも思っている。
ウィン。
自動ドアが私の体内にあるデータチップに反応し開く。
自分の研究室へ入ると、椅子に腰かけ両手を頭の後ろで固定し、斜め上を見てぼーっとする。
不意に、
「お電話です」
と、声をかけられた。
「誰?」
と、尋ねると、その女性は言いにくそうに、「…警察です」と、小声で言った。
少しドキリとはしたものの、商売柄、警察からの電話は今に始まったものでもない。
なぜ、この子はそんなにビクビクした様子なのだろう。
「お電話変わりました。近松です。」
『近松先生、新しい研究はどうです?』
開口一番に自分の名前を名乗らず、話す男性。
「常に新しい研究はしておりますが、どの研究のことを仰っているのでしょう?」
動じることなく話しているつもりだったが、
『マッドサイエンティストは皆、簡単に法を犯しますなぁ。先生はもっとご自身を大事になすった方がいい…。』
と言われ、
秘密の研究が警察にバレたことを察した。
『先生……犯罪が減ると困るんですわ。来年度の予算が下りなくなる。ただでさえ予算削減されてるってのに…。あんたなら、予算削減の辛さがわかるでしょう?…新薬のデータなんて興味は、無い。あんたはやってはいけないことをやっている…それが分かっている我々の方が有利なのはお分かり頂けますなぁ』
その通りだ。
犯人は産業スパイではない。
警察にバレてしまった以上はもう無理だ。
しかし、毎日ニュースに流れて来る子供たちの逮捕が直ぐに頭に浮かんだ。
少しの骨も残らない、お墓には名前しか刻まれず、その血を後世に残すことも出来ずに、青春も知らず、人を愛すことも知らずに、苦しみの果てに、何も残らない、自分がこの世に生まれ、生きた証が何もない、そんな子供たちが不憫でならない。
彼らの中に、もしかしたら偉業を成し遂げる者がいたかもしれない。
何が、未来に繋がるだ……!
……子供は宝だ……!
少子化にもかかわらず、子供を大切にしない昨今の風潮も気に入らない。
大人は自分の事ばかり。
外が暑かろうが、赤子には帽子も被せず、自分はサングラスに帽子で紫外線対策をしっかりとしている母親を見ると、うんざりした。
泣くのが仕事の赤子に、「うるせぇ!」と暴言を吐く酔っ払ったおじさん。
あんたにだって、赤ちゃんだった時代があったんだぞ?
一人でそこまで大きくなれた訳じゃない。
睡眠時間を削って育ててくれた人がいたから今があるんだ。
……警察がなんだ!私は命をかけて、必ず新薬を完成させる!!
case2
あれから警察からは何も連絡がない。
私が諦めたと思ったのだろうか。
確かに今まで素直に言う事を聞いた来た、私だ。
ここに来て、日頃の行いがものを言ったのかもしれない。
この機を逃す手はない。
内通者だったかも知れないスタッフが1名…自ら退職したため、安心して研究に取り組むことができる。
彼女は一身上の都合で退職したそうだ。
辞める時は大抵が一身上の都合なのだから、都合のいい言葉だ。
…挫けることなく、新薬の開発は進んだ。
そしてついに……新薬の開発に成功した。
新生児に数回投与すれば、異常物質を大きく抑えられるようになる。
これを義務化すれば、犯罪欲求を抑制することが出来る。
そして私は今……もの凄く悩んでいる…。
論文を書くべきか。
本音を言うと、そんなものを書いているうちに、子供たちが一人、また一人と犠牲になってしまうから、直ぐにでも広めたい。
しかも、この薬を、どこの製薬会社でつくって貰うのかも決めていなかった。
各方面からの圧力は勿論のこと、被験者が減って一番困るのは製薬会社だろう。
快諾してくれるわけが無い。
仲良くさせて頂いている製薬会社もあるにはあるのだが、悩む。
薬の開発に没頭するあまり、他のことを考えるのを怠ってしまった。
頭がパンクしそうだ…。
一人ってのは大変だ…。
三人寄れば文殊の知恵って言うけれど、せめて一人は仲間が欲しい…。
しかし、こんな危険なことに友人を巻き込むことは憚られる。
「焦る気持ちは分からなくもないが、論文は必要だろ。」
私はドキっとして、声の主の方を向く。
私の顔がおかしな表情をしていたのだろう。
友人は、一瞬たじろいだ。
「…ぉお…、なんて顔だ。論文は基本だろう?学会で論文も無しに話せるわけないじゃないか。第一、君が成功したとて、それでは意味が無いこと位わかっているはずだ。なんとか細胞だって他の研究者が試してみたら、つくれなかったのは有名な話だが、誰でもつくれるということも証明しなければ狂言学者と呼ばれてしまうぞ。こんな学生でも分かることを…はぁ…ヴィンス…君に言う日が来ようとはな。」
友人は呆れた顔で、正論を述べてくれた。
私は、そのまま『新薬を、論文なしで発表し、新薬投与を今すぐに義務化させたいのだが、どうすればいいと思う?』と、質問したのだ。
なんの薬かは伏せている。
友人は、実に真面目な姿勢で答えてくれた。
いい奴だな。
しかし、改めて自分の質問を振り返ると、とんでもない質問をしたものだ。
それこそ、マッドサイエンティストな考えだ。
私がした質問は、答えがとても簡単なものだ。
しかし、疲弊しきっていた私は冷静な判断力が失われていた。
自分がとんでもない考え方をしていたことに気付く。
友人に相談せずに、一人で背負い込んでいたら、新薬を使うことなく、私はモルモットになっていたかもしれない…。
「…君の言う通りだ。論文を書くとしよう。…変な質問をして悪かった。」
「ぉお…。珍しいな、嫌に素直じゃないか。いつもであれば、あーでもない、こーでもないと、そーでもないと、屁理屈を並べ立てるのに!まぁ、大事な話があると言われて来てみれば、実にくだらないことを言うものだから、気でも触れたのかと思った…いやはやヴィンスではないようだぁ。根を詰め過ぎているんじゃないか?あまり無理をするなよ。…それは無理な話か!あぁー、上手いことを言ったな小生は!」
「……君は相も変わらず、のようだ。ははは!」
「ぉお…??ど、どうした?普段の君ならば、突っかかって来るか、不機嫌になるか、の、どちらかなのだが…。……まだ、笑っている……。……天変地異の前触れか…???」
「それは、随分な物言いだ。……しかし、そうか……。」
「どうかしたのか?いや、どうかしているから、どうかしたのか、は、おかしいか。いや、おかしいのはヴィンスだ。……いや、小生もおかしいな。……んん。狐に憑かれたか。」
「ははははは!」
「……まだ、笑っている……。」
この秘密のプロジェクトは、私の一人善がりで始まった。
誰かに助けを求められた訳じゃない。
相手にとって迷惑であれば、正真正銘の一人善がりだ。
新薬の開発に、貯金は使い果たし、多くの子供たちを救うという大義を勝手に掲げ、自分は法を犯すという罪悪感を、その大義名分で誤魔化している。
貯金が無くなってしまい、月の給料だけでは、当たり前だが足りない。
有難いことに家には美術品や骨董が多くある。
これらをオークションで売却すれば、かなりの額になるため、当分はしのげる。
ご先祖様が残してくれた土地や不動産も充分にある。
高額の固定資産税を払っていて良かった、と、初めて思った。
友人と会い、冷静さを取り戻した私は、自分は何を考えているんだ、と胸が苦しくなる。
「いくら自分の代で近松家が終わるにしても、家宝や土地までも売る気でいるなんて…。亡くなった両親や兄弟に顔向けできない。……いや…、多くの命が助かるかも知れないんだ。……家宝は……売るのはやめて、質屋に入れよう。落ち着いたら買い戻せばいい…。」
「はははは!」
情けない自分の独り言に、思わず笑ってしまった。
研究疲れでフラフラしていた時だった、私は通行人とぶつかってしまった。
「申し訳ない!」
しかし、
「ふざけんな!誰か、執行官を呼んでくれ!」
騒ぎになり、人だかりができる。
こういったトラブルはいつでもどこでも見かける……が、自分が当事者になるとは…。
私は思わず、
「金が欲しいんだろ!?いくら、欲しい?」
と、言ってしまった。
今、トラブルを起こすわけにはいかない!
「…なんだとぉ…馬鹿にしてんのか…!!」
相手はさらに逆上する。
野次馬たちも、私を蔑んだ目で見つめ、騒ぎが更に大きくなる。
「私は執行官の北原です」
野次馬をかき分け、執行官が来てしまった。
…とうとう……私も耳から血液を採取され、検査機にかけられる。
……アレをやってから、数日経つが……どう出る……!?
「!!」
北原執行官は、ロボットのような無表情の顔を僅かだが歪めた。
(こ、これは…この数値は今まで見たことがない…。犯罪指数が0なんて有り得るのか?職業を伏せているが、科学者のように見える。違法薬物で誤魔化しているのかもしれない。このようなケースは初めてだが…真相を確かめない限り、報告するのは危険だ。混乱が起きる。)
「異常はありませんでした。それでは、失礼いたします。」
と、北原執行官はその場を去って行った。
「ちょ、ちょっと!……ちっ!」
ぶつかってしまった男性は悔しそうに舌打ちをすると、彼もその場からいなくなる。
携帯で私を撮影していた人々も、動画を削除する素振りをしながら後にしていく。
「……ふーーーーーー。」
安堵の域を吐いた私だが、何やら物騒な風体の人物と目が合ってしまった。
思わず固まってしまったが、その人物は路地の中へと消えていった。
……後を追ったりはしません。
帰路を急ぎ、無事に自宅へと到着いたしました……。
新薬の論文は、早くに書き終わった。
元々こういうのは得意なのだ。
だったら、書いておけば良かったのだが、あの時は気持ちが急いていた。
薬はあるんだから、今すぐに使って欲しかった。
臨床実験もしていない薬だが…まぁ…よくある話、実験体は私だ。
少し冷静さが戻って来たのは、新薬の影響が出始めたから、かもしれない。
友人の話を否定的に受け止めずに、その通りだと聞けたのも、この薬が関係している可能性が高い。
自分という人間で試し、血中の数値の変化も確認。
世に出してもいいと判断した。
執行官に検査された時は、正直…焦った。
血中の犯罪指数の値が、通常よりも低くなっていたので、怪しまれるかと思ったのだ。
実感は全く無いのだが、数値上では抑制が認められる。
現在進行形で犯罪を犯してしまっている身としては、なんとも言えないことだ。
そして、私はついに論文を発表した。
多くの学者が驚いたことは言うまでもない。
彼らが驚いたのは、犯罪欲求を抑える薬が完成した事では無い。
元々の治療法で、女性ホルモンの注射などが既に行われているし、強い犯罪性と男性ホルモンの関係もとうに解明されている。
皆が驚いたのは、同業者に反逆者が現れた、ということだ。
モルモットが減れば、研究が滞ってしまうし、損失も大きくなる。
彼らが犯罪者モルモットを欲するのは、失敗した時の責任逃れにある。
犯罪者モルモットでなくても、失敗した時は責任は負わないのが普通だが、自分の心の負担が大きくなるため、前者を選ぶ。
私の新薬は、倫理の面で大きな反対にあったが、今のこの国に倫理があるとは到底思えない。
問題は、倫理だけではない。
case3
国と政治家が敵になり、尚更……困難を極める。
勿論、警察が動いた。
ギャングにも拉致された。
……ぇえ~……。
……これは、予想外過ぎて訳が分からなかった。
こんな高そうで凄いリムジン見たことが無いと思っている間に、無理矢理にその車に乗せられる。
中には、いかにも若頭と言わんばかりの雰囲気の男がいた。
あっ!
しかも、執行官に採血された時に見かけた、人相の悪い男もいる!
この中で、見るからに一番偉いであろう男を見る。
しかしそれは自然と目がいった。
男の自分から見ても、目を奪われる。
身なりの整った、それこそ美青年というに相応しい容姿の男だが、高そうなスーツには皺も汚れも無く、髪型もキレイに整えられ、仕事に対しての厳しい思想を持っていそうだなと感じる…。この方たちにおいての仕事とは…人を痛めつける類のものだ…。私はあまり汗をかかない体質だが、最悪の結末が頭をよぎり、人生で初めて、冷たい汗をかいていた。
…こんな寒気のする汗は初めてだ…。
屈強な男たちに囲まれても落ち着いている様子といい、纏うオーラも今まで出会ったことのない人種だ。
そして私はこの男に、新薬を違法薬物に応用して欲しいと頼まれた。
……断ると、
「先生、三合会はご存知でしょうか。」
「存じ上げない」
「フフ…。あまり我々を怒らせない方がいい。
…ところで…あそこの男の子、可愛いですね。ねぇ、先生?」
私は、直ぐにこの男が何をしようとしているのか、分かってしまった。
慌てて、声を上げる。
「…おい!やめろ!」
彼は、私の言葉を無視し、控えている男に顎をしゃくって指示を出す。
近くにいる母親でさえ気づかぬほど、完璧な手並みで男の子を連れて来た。
「中国では、このような事は日常茶飯事です。日本は良いターゲットですが、以前より、やりにくさを感じますね。
さて、先生、色よい返事を期待いたします。
で、なければ、この子の指を1本ずつ折っていきます。」
涼しい顔で、そう言うと、小枝を折るようにポキッと、いとも簡単に、なんの前触れもなく、少年の指を折った。
男の子が叫び声を上げるが、防音されている車から外へは、この大きな悲鳴は聞こえない。
異常過ぎる行為に、吐き気がしてきた……!
「何をするんだ!!」
「大丈夫ですよ。子供の骨折は後遺症が残りにくいですから。」
そう言うと、
「ほら」
ともう1本、折る。
「な…、や、やめろぉ!!!」
男の子の悲鳴が酷くなる。
「大丈夫ですよ。この位の子供はいつの間にか怪我をしているものですから」
男がもう1本折ろうとした時に、私は慌てて、要求を飲むと告げた。
男は笑顔から真顔になると、再び顎をしゃくって部下に指示を出す。
男は、左二の腕に固定していた男の子の頭を外すと同時に、左手でしっかりと捕まえていた少年の手首も離した。
ずっと暴れていた両足が鎮まる。
そして、
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになった男の子は、折られて腫れあがってきた指を痛そうに庇いながら、母親の元へと返された。
私はこみ上げてくる吐き気を抑えるように息を吐きながら天を仰ぐ。
「もっと酷いことをなさっているお方が、この程度で吐き気ですか?」
張り付いた笑顔の男。
「ロン・フーフェイです。…面白い名前でしょ?」
「…いや、中国語は分からないんです」
「日本では龍虎と呼ばれています」
「…へー」
「関心がないようですね。これからは朋友ですから、仲良くしましょう」
仲良くしようという割に、人を寄せ付けないオーラが全く消えないロンフー。
「私はこの後、用事がありますので失礼いたしますが、先生、私の部下が今後あなたを警護いたしますが、ご心配なさらないで下さいね」
……最悪だ……。
こいつらは、どこまでも、付いてくる、つもりだ……。
最悪の男に目を付けられてしまったことを、心の底から嘆いた。
ロンフーの部下に見守られながら、自宅へ到着した私は玄関に辿り着く前に立ち止まった。
私を監視していた警察官が数名いたのだ。
ロンフーの部下は、一般市民と変わらない恰好をしていたが、警察官の目は誤魔化せない。
私の容疑が、子供を守る為の計画だったものが、反社会的勢力の犯罪に加担している、というものに変わってしまう!
上手く行くとは思っていなかったが、ここまで障害があるとは思わなかった。
ロンフーの部下は警察官を遠目に確認すると、
「シエンション。我々は下がりますが、あなたの事を常に見ています。」
と言い残し、下がって行った。
どうやら警察官はまだこちらに気が付いていないようだ。
安心したものの、日本の警察、これでいいのか!?
と、少しばかり呆れてしまった。
以前の私ならば、激怒に値する案件だ。
……しかし…私は、本当の意味での犯罪を犯そうとしている……。
どうすればいいのか、ため息しか出てこない。
「ホランイ、교수님、《キョスニム》の家に警察がいるらしいです。イナンが家の中に入れなかったと言っています。」
「それは良くない。近松セムに時間を与えてはいけない。私の行動を見ていなかったのか?それに警察がマークしていたという報告は受けていない。監視を怠っていたようだ。…誰の責任だ?」
「…うっ、ぼ、僕です。すいません…」
「まぁ、いい。直ぐにセムをこちらまで連れて来たいが、警察が付いてくると困る。また、タイミングを見計らって監禁しろ。全てが済んだら殺せ。いいな。」
「わ、わかりました。」
私は見たくもないニュースを見るためにTVを付ける。
自分の事が報道されていないかを、確認するためだ。
…犯罪者とは、こういう気持ちなのか……。
常にビクビクしていて、気持ちが落ち着かない。
ニュース番組では、今日の天気が流れていた。
『今年は観測史上初と言われる程の冷夏です。今週も平年の温度を大幅に下回るでしょう。野菜を買われる際は、ブランドの屋外栽培の野菜よりも、工場で作られているものがオススメです。屋外栽培の野菜は生育が例年よりも遅い上に、枯れてきているものもあるそうです。そして、今年は意外にもお菓子の売り上げが良いそうで、その理由のひとつに栄養価の高さが大きなポイントとなっています。今や、体に良いことが前提でなければ売り上げを伸ばすことが難しいお菓子業界の今もお伝えしよう!、ということで、番組おススメの、食物繊維やビタミンが多く含まれているお菓子をランキング形式でご紹介いたします。新しい健康習慣として、食後のお菓子はいかかでしょう?まずは、第3位からです……』
もう、夏か……。
と、改めて思う。
まったく暑さも感じず、曇り空も多い。
体感的に夏を感じることが無い為、季節を忘れてしまう。
……新薬の研究を始めて1年が過ぎたのか……。
5月の方が、夏のように暑かった。紫外線を強く感じ、今年の5月は肌が弱くない私でも、刺さるような刺激を感じたのを思い出す。
勢いに任せ、新薬の完成まで漕ぎ着けたというのに、こんなことで頓挫してしまうなんて……。
悲観的に感じてしまうのは、犯罪抑制効果の影響でもある。
私は、データ収集のために、既定の量よりも多く投与しているため、普段は感じたことのない、鬱々とした気分を堪能している。
……うつ病を患っている人は、こんなに晴れない、怠い気持ちを抱えて暮らしているのか……。……キツいな……。
しかも当人に自覚症状もないため、病院を受診しないケースが多いと聞く。
全てが順調だった……成績優秀……希望の仕事にも就けた。
数年前に家族を事故で無くしたが、あの時は、携わっていた研究に没頭していた為、喪失感は全く無かった。
しかし……今更になって深い喪失感と、罪悪感…悲しみが心を満たす。
新薬を完成させた時の達成感と喜びは、大きく薄らいできていた……。
ピロピロリん♪
『メールを1件、受信いたしました。』
私は、ブレスレットに付いている白く薄い装飾部分に人差し指を乗せる。
『指紋認証を確認。解除いたします』
目の前にモニターが表示される。
あらゆる物は光の反射で目視することができる。
その光の反射を利用して、ホログラフィーされているのだ。
まぁ、詳しい話は、私は専門ではないので差し控えさせて頂く。
目の前のホログラフィーモニターを操作し、メールを表示させる。
私は未だにアナログなところがあり、やり取りは殆どが直接の電話が好きだが……世の中は文章でのやり取りが主だ。
電話は盗聴のリスクが付きまとう。
悪質な無線愛好者が盗聴のレベルを上げて来ているからだ。
ただ…盗撮からの読唇術の解析レベルも上がっている。
AIが対象者の状況や経歴、性格などを元に…的確に当てて来る。
それも、一瞬で、だ。
空からは高機能衛星からの監視、地上からは、無線愛好者達の盗聴や盗撮が問題になっている。
日常会話も全て聞かれていると考えた方がいい。
無線愛好者達は、得た情報を売ったり、趣味に利用したりしている。
こちらの部門は、私の友人が盗聴を防ぐ研究を行っている。
その点、メールの場合は、通信会社がしっかりと保護しているため、安全だった。
過去の歴史では、保護されていると言われていた、全ての1000億個を超える端末が監視されていたと聞く。
セキュリティソフトなどを利用していたようだが、そもそも…そのセキュリティソフトに情報が漏洩されているし、契約している電話会社などの通信大手は、顧客の情報を警察に協力を求められれば開示するし、PCや携帯を使用した時点で、ローカルアカウントなど関係なしに、情報が抜かれていると思った方がいい。
私が生きるこの時代では、メール管理や保護の面は改善されている。
ただ……この世界の何処かにとんでもない天才がいて、昔の時代のようにハッカーが蔓延る世の中になったりして……。
ホワイトハッカーもいつ黒に染まるかも分からない。
私が今後の未来に望むことは……、私自身が、実行する……!
保護がかけられているメールに暗証番号を打ち込み、開く。
数日間、接触してこなかった、三合会からのメールだ。
警察を警戒していたのは予想が付いていたが、関わってしまった以上、私の身が危ないのは分かっていた。
この計画を立ち上げてから、自分の身が危ういのは承知で進めていたが、やはり恐いものは恐い。
研究のモルモットにされるのも、拷問されるのも嫌だ。
……………この数日間、私は考えた。
もう、これしか、思いつかなかった。
彼らの……………ロンフー一味の……仲間に入る……それしかない……………。
まずは、安全であるメールで、「仲間に入りたい」という旨を伝えた。
あちらの回答は「会って話がしたい」というものだった。
どの道、自分の末路に待ち受けるものがなんなのか、理解している。
覚悟を決め、彼らに会いに行った。
それは思いのほか簡単だった。
彼らのグループには警察に潜り込んでいるメンバーいるみたいだ。
しかも、キャリアの中にだ。
怪しまれる事の無いように、段取りを行っていたらしい。
約束の日…………、
私の自宅周辺の警察官は、全ていなくなっていた。
「セムの方から仲間に入りたいと仰って頂けるとは思いませんでした。正直に申し上げますと、違法薬物の作り方の確認が取れ次第、然るべき処分をさせて頂く予定でおりました。」
私の自宅応接室で、ロンフーは綺麗な顔で、恐ろしいことを言う。
“処分”という言葉に思わず、息が詰まる。
「私どものチームにも研究者は多くおりますが、……近松先生の今回の研究発表には随分驚いておりました。学会での発表の後から、先生のことはマークさせておりました。」
……えっ……!?
あのトラブルの時に目を付けられていたと思っていたが、それよりも前からマークされていたなんて……!
……論文は書かない方が良かったってことか……?
そんなことまで、考え付くわけがない!
「? 何か…勘違いをされているようだ。
まぁいい…。ところで……事前に申し上げたい事がございます。子供の指を折ることぐらいで、嘔吐されると困るのです。私共の仕事はスナッフムービーの販売もございますし、特に可愛い子供は人気が高いのです。……先生に、それが、出来ますか?」
その言葉を聞いた私の表情を見て、ロンフーは笑い出した。
「その顔は、どうやら無理のようですね。先生のご活躍如何では然るべきポジションをご用意させて頂きます。私は、もたもたされる事が嫌いでして、直ぐに準備して頂けますか?あーあと、緊張感は持って下さいね。怪しまれるような行動は慎んで下さい」
私は急いで支度を整えた。
何かあった時に、いつでも逃げられるように、ある程度の準備はしていた。
10分そこらで応接室へ姿を現した私を見て、ロンフーは満足そうな表情になると、組んでいた足を下ろして立ち上がり、
「あなたとは、長いお付き合いが出来そうです」
と、笑顔になった。
ロンフーの目配せで、部下の男が私の荷物を持とうとしてくれたが、私はそれを断った。
「ご安心ください。盗もうなどとは思っていません。近松セムの脳から情報を抜き取ることなど簡単です。我々は現在、自白剤すら使っていないのです。あなたを生かしている理由は、あなたの想像力とお人柄です。あなたのような考えを持つ研究者は我々の組織にはいないもので、新しい発想からの新技術に期待をしております。」
しかし、その言葉を聞き、私はかえってカバンを抱えていた腕に力が入る。
ロンフーの放つ気配で部下は察し、下がる。
「では、セム。朋友が待っております。参りましょうか。」
混乱と緊張で脳が停止しそうになるのを、必死で堪えながら、この間、乗らされたリムジンとは違う、何億円もするであろうハイパーカーに乗車した。
あの時のリムジンとは違い、車の窓には真っ黒なカーフィルムが貼られている。
この濃さは、明らかに法律に違反するし、車検だって通らないだろう。
って……この人たちにそんなもの関係が無いか。
しかし、こちらからも外が見づらい程の濃さで……鏡のように自分の顔が映る。
怯え切った自分の情けない顔を見て、少し笑ってしまった。
「何かお飲みになられますか?アルコールも御座いますが?」
ロンフーがピリッとした気配を少し和らげて、声をかけて来た。
このハイパーカーは、見た目よりも車内が広く感じる。しかも小型の冷蔵庫が完備されている。そのままの車両の値段でも凄いだろうに、色んなオプションが付いているので、もしかしたら数億どころか、十数億円かもしれない。
思わず唾を飲み込むが、喉がカラカラだったようで、ンぐっと喉がつっかえる。
「…すいません、お言葉に甘えまして、お水を頂けますか?」
「勿論です。氷をお入れ致しますか?」
「いえ、常温に近いものがあると有難いのですが……」
「御座いますよ。まだ少し到着までに時間がかかりますので、楽になさって下さい。」
私は軽く会釈をして応える。
高そうなグラスに高級そうな水が注がれ、それを喉に流し込む。
「はぁ~~~~~っ!上手いっ!……あっ、すいません」
「いえ、こちらに置かせて頂きますので、お好きな時にどうぞ」
と、ロンフーは笑いながら、私と彼の間にあるサイドテーブルのドリンクホルダーに、水の瓶を置いた。
この水……瓶だけでもインテリアになるほど、見事なつくりをしている。
……意識の高さを感じる…。
ロンフーが固い雰囲気を和らげてくれたお蔭で、道中の気まずさは殆ど無かった。
私はこの時間を無駄にしない為に、今後起こりうるであろう事態を予測し、頭の中でシミュレーションをしていた。
ただ…私に考える時間を与えたくないのか、ロンフーが色々と話しかけて来る。
同時に複数のことを行える特技を生かし、会話をしながらも、色んな事を考えていた。
休憩を挟みながら、目的の場所へと到着した。
パーキングエリアでトイレへ行くときに渡された、特殊なサングラスとイヤホンを着用して車を降りる。
このサングラスは、進む道しか示さない。
障害物も確認することが出来るが、どういった建物かも、看板や標識も分からない。
イヤホンはノイズキャンセリングがされていて、音楽が流れている。
指示などはサングラスに表示されていた。
ここが何処かも分からずに歩くのは、とても怖い。
せめて、建物の構造や道順を覚えようとしたが、耳に流れてくる音楽が特殊なものらしく、覚えようとする意識が削がれた。
車内で装着を強要されなくて良かった。
これが長時間だと、頭がおかしくなる。
30分ほど歩かされた時だった。
サングラスとイヤホンを外すよう表示が出た。
僅かな感覚から感じたものは、同じ道を行ったり来たりしたり、エレベーターに乗ったり降りたり……………まだ、私のことを信用していないようだった。
優しい曲調にもかかわらず不快な音楽から逃れたくて、先にイヤホンを外した。
すると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ヴィンス!…っ、ロンフー、なぜ、彼を連れて来たのだ!?ヴィンスの論文は正確だ、時期にあらゆる学者が証明するだろう、なぜ、なぜ、なぜ、連れて来た!?」
私は聞き覚えのある声の主を確かめるべく、慌ててサングラスを取ろうとした。
…が、冷たい手に、それを遮られた。
「そちらのシエンションを別室へ。お話は後ほど伺います。それよりも、なぜ、あなたがいるんです?」
なんだ?
一体、何が??
「なんてことだ…!ヴィンス…あぁ…小生の所為だ…」
この話し方…。しかし、その声はだんだん小さくなり、聞こえなくなった。
「领袖さん!」
代わりに違う男の声が聞こえてきた。
私のかけているサングラスからは、男のシルエットが見えるだけだ。
「あんたみたいな似非中国人とは違うんだよ。こっちは正真正銘のチャイニーズさ。生物兵器を開発したと聞いたんでね、譲って貰おうと思ってさ。まさかこんな場所に研究室があるなんて驚いたけど。」
「よく、ここまで来られました。」
「三合会をなめて貰っちゃ困るね。」
「…えっ!!」
私は思わず大きな声が出てしまった。
ロンフーが三合会の人間だとばかり思っていたからだ。
私はサングラスを外さずにはいられなかった。
そして、三合会の人間だと名乗った男を見た。
こいつが本物の三合会だと!?
ロンフーの顔を見ると、
「私はあなたに三合会の人間だと言った覚えはないですよ」
と、余裕たっぷりの顔で私を見返す。
「また勝手に三合会の名を使ったのか、ヤ・ジェヨン」
「ただ、三合会は知っていますか?と聞いただけです」
「…俺たちを怒らせたいの?」
「まさか。あなたもあまりその組織の名前を使わない方が良いと思いますよ。ワンさん。いや、王 隆史くん。中国系日本人で、中学生の頃から自分は三合会の人間だと吹いていた。幾ら中国人の血があったとしても、その組織の名前を勝手に使う方がよろしくない。」
王 隆史 と呼ばれた男は、見る見るうちに顔色を変えて行った。
自分の素性がバレてしまい、焦っている…といった感じに見える。
先程の威勢はどこへやら、その場を逃れようと走り出したが、簡単に道を塞がれてしまう。
あまりの急展開に、私一人が置いてけぼりをくらっている。
「子供が軽い気持ちで名乗っていい組織ではない。様子を窺っていましたが、頭の悪い連中が隆史くん、君の言葉を鵜吞みにして困っているんですよ。そろそろ、ご退場願えますか。」
「ま、まさか、は、嵌めたのか!?簡単に通してくれたと思ったら、そういう……………はぁあぁあっ!!や、やめろよっ!本当だからな!僕は三合会だっ!くそっ!この……ホランイっ!!」
ロンフーはホランイと言われると、切れ長で鋭い目を隆史くんに向けた。
その目を見てしまった隆史くんは、叫ぶのも暴れるのもやめて、20歳前後の男性とは思えない位に、子供の様に泣きじゃくっていた。
自身の末路を感じ取ったのだろう。
ロンフーが軽く手を挙げると、隆史くんは、どこかへと連れて行かれた。
先のことは考えたくない。
目の前で、拷問を見ないで済んだ事に感謝しなければ。
しかし一方で、今後の自分に降りかかる恐怖が倍増してしまった。
ロンフーは何者なのだろう…。
「良からぬ事を考えると、隆史くんと同じ道を辿りますよ」
私の心を見透かしたように、虎のような目から笑顔に変えて、こちらを見つめてくる。
「まぁ、ホランイは私にとって褒め言葉ですが、あれは完全に馬鹿にされたと思いました。彼には、ずっと甘く見られていたので、お灸をすえないといけません。」
……お灸をすえるだけでは、済まないだろうに…。
リンショウさんと呼ばれていたロンフーは、最後、ホランイと呼ばれていた。
ヤ・ジェヨンとも呼ばれ、ロン・フーフェイとも名乗っていた。
何やら、ややこしい…。
「…中国語を話していたのは分かったのにな…。」
「フフ…。実はハングルも話していましたよ、쌤《セム》」
なんとなく、ニュアンスでからかわれているのを感じた。
…もしかして、ずっとからかわれていたのだろうか?
セムってどういう意味なんだ??
「ヴィンス。新しい法律が制定されるにあたり、医学の代表として有識者会議に参加した人物を知っているか?」
私は、あの後、聞き覚えのある声の主と対面し、私が新薬の開発を始めるきっかけとなった法律について、聞かされていた。
「いや、知らない。」
怪訝な顔で友人の顔を見る。
「……………樹梨先生だ。」
「!!!」
その名前を聞いた私は耳を疑った。
「……先生は……人の命を第一に考えておられた。何より、あの出来事以降、先生を見かけたことは一度もない。有識者会議の映像は知人に見せて貰ったが、先生の姿はどこにも無かった。」
「樹梨先生は、全てを変えたのだ。名前も経歴も顔も声も、耳もだ。他人の耳を闇のルートで入手したらしい。声帯も手術で変えたらしい。有識者会議に、しゃがれた声の男がいただろう?偽名の方は申し訳ない、忘れてしまったが、彼が樹梨先生だ。」
「…なぜ、そんなことが君に分かるんだ?」
私はこの話をまだ信用していない。
「耳を提供したのが、三合会の傘下だったのだ。」
「君は……もしや、盗聴したのか?!」
「ヴィンス、君は真面目過ぎるぞ。いいように利用されているだけでは、長生きなど出来ない。ある程度、相手を脅せるだけの材料は持っていなくては。私を誰だと思っている。」
同じ思想を持っていると思っていた友人に、些か失望してしまったが、人の事をとやかく言う資格など私には無いし、それ位の気概がないと、この危険な世界でやっていくことは難しいと、友人を尊敬の眼差しで見た。
それを察してか、彼は、
「おいおい。全く君という男は嫌に純粋過ぎる。私をその様な目で見てくれるな。常に法に触れた行いをしているのだ。そう、おぞましい物を見る目を向けてくれたのならば、助かるなぁ。ははは!」
と、気持ちの悪い器具や物で溢れた研究室で、カフェで談笑しているように笑う。
私は清潔な研究室に慣れ親しんでいるため、こういう部屋は落ち着かない。
丹下 リロイ ………私には無いものを持っている。彼が友人で良かったような、距離をとった方がいいような、実に悩む……。
そして彼から、ロンフー一味は三合会では無いことも教えて貰った。
世界的に見ても、かなり危険な組織で、言葉にするのも憚れるそうだ。
ただ、ロンフーには何か考えがあるらしく、わざと三合会の名を口にしているらしい。
私がここに来るきっかけは、自分の所為だと彼は話し出した。
「小生は、話すことが出来ない事情を抱えている。これを君に話してしまうと、なお、君を巻き込んでしまうことになる。なので、聞いてくれるなよ?小生は君の尋常ではない態度が気になったのだ。論文の発表を見たいと、外出を許可して貰った。君の相談も許可を得てから行ったのだ。盗聴はされていない。これがあるからな。」
と、盗聴を防ぐ効果のある、ネクタイピンを触りながら話す。
「だが…常に警護という名の監視が付き添って来る。そこでな、君の事が知られてしまったのだ。論文があれば、それを再現できるエキスパートは沢山いる。何も君を連れて来る必要など無いと言ったんだ。ヴィンス…ここに来るべきでは無かった。大人しくな…死んでいた方が良かった。」
と、私の頭にメタリックボディのボールペンを突き付けた。
「リロイ…!!」
私の体が強張る。
「これの電源を入れると、君の脳は機能を停止する。苦しまずに死ねるのだ。君にはな、無理だ、ここは。ロンフーは、とても恐ろしい男だ。大切な友を、せめて小生の手で…」
リロイの手が震えている。
彼の手の震えの原因は……、
身も凍るような声が、直ぐ近くから聞こえてきた。
「丹下せんせい、少しは私のことを信用して下さいませんか?」
…ロンフーがリロイの直ぐ後ろに立っていた。
「くっ!!」
リロイが私の脳を破壊する器具の電源を入れようと力を入れる。
…が、ロンフーの蹴りの方が速かった。
バキッ!
リロイの手首が有り得ない方向へと曲がり、骨が皮膚を突き抜け、血管を損傷したのか、血液が噴出していた。
それよりも驚いたのが、ロンフーが自らリロイの手に救急措置を施していたことだ。
激痛に顔を歪ませるリロイに、
「申し訳御座いません。咄嗟のことに加減が出来ませんでした。」
と、ロンフーにしては珍しく人間味のある表情で謝っている。
そして、常に言葉がハッキリしている彼が、どもるように言葉を続けた。
「………丹下せんせい。…私はあなたを信用しています。警護もあなたを心配しての事です。私の言う事が信じられないという事は理解しておりますが……私はあなたを失うのが怖いのです。丹下せんせいが近松セムのことを解放して欲しいと仰るのならば、我々は引き下がります。………まさか、丹下せんせいがそこまで大事になさっているご友人だったとは…。……………危うく殺してしまう所でした。」
「ジェヨン………。」
リロイは驚いているようだった。
「………私には………やらねば、成し遂げなければならない………その為には、とにかく金と名声が必要なのです。このやり方が一番稼げる。弱みを握り、暴力によって支配する……………。」
虎のような男が、厳しい顔に戻ると、強い声音で、しかし微かに震えながらも言葉を続ける。
「犯罪が起これば法が厳しくなる。しかし、皆、抜け道を見つけ、また、犯罪が起こる。それが、ずっと繰り返されて来ている。所詮、この世界は頭の良い人間が全てを意のままに操り、私腹を肥やす。表面上は平和に見えても、その実、ドロドロに腐っている。私たちは一番汚い所にいる。生まれた時からだ。幸せそうな家族を見ると、ズタズタに引き裂きたくなる。………脱北者が南で平和に生きられる訳が無い。楽園を未だ探している。………私は置き去りにされ、家族は皆…北に戻ってしまった。…後に聞いた話では射殺されたそうだ。」
ヤ・ジェヨン…それが彼の本当の名前だと理解した。
彼は、朝鮮半島の北の領土からの脱北者だったのか。
おそらく…中国にある脱北者支援の保護下にあったのだろう。
中国語とハングルが混ざっていた謎が解けた。
しかし、中国とノースコリアは繋がっていた筈だ。
苦労と絶望が、今の彼を形成した。
社会と大人に強い憎しみを持ったまま、成長した。
「我々は法で守られている。フッ、何が法だ……。守って貰ったことなど一度たりとも無い。………………。」
ロンフーは私の方を見て、不思議そうな顔をして、黙った。
私の目から、涙が溢れていた。
「…ヴィンス…」
リロイは、止血され、かなり傷むであろう手を気にすることなく、私を抱きしめてくれた。
再び口を開いたロンフーを、涙を拭いて見た。
彼は、私をもの凄い形相で睨んでいたが、冷静な顔つきに戻り、私の知るロンフーに戻ると、まさかの提案をしてくれた。
「近松セムは現行の法に疑問を持たれた。執行官同士の革命戦争とは違う方法で、孤軍奮闘されていますね。見た目よりも勇気があり、責任までも一人で背負っている。………宜しければ、私にもお手伝いさせて下さい。………私には自信があるのです。この世界から犯罪が無くなることなど無いと。初めて近松……せんせい、の新薬のお話を聞いた時は、馬鹿げた内容に久しぶりに腹の底から怒りが込み上げて来ました。さんざん利用した挙句に殺してやろうと決めていました。」
彼の話を聞きながら、ここに来るまでにシミュレーションした予測は悉く役に立たなかった。
まさか、私のことを殺すと思っていた相手が協力してくれるとは…。
この男を信用しても良いものか?
だが…彼の告白に心を動かされてしまった私は、彼を………犯罪者である彼を信じてみることにした。
「私は製薬会社を所有しています。そこで、新薬の製造を承ります。お金の心配は要りません。認可が直ぐに下りるよう手配も致します。………どうなるか、今から楽しみですね………。」
あれから、様々な問題はあったものの、ロンフーの協力の元、新薬投与の義務化に、漕ぎ付くことが出来た。
case4
* * *
新薬投与が義務化され、数十年が経った。
そろそろ結果が出始める頃……投与された赤子、現在(15歳~25歳)の人間が突然変異を始めた。
スクランブル交差点にある巨大モニターにニュースが流れる。
映像には信じがたい者が記録されていた。
体の一部分を醜く変形させた若者が、歩行者を無差別に殺傷している。
しかも、一人ではなく、何人もいるのだ。
混乱と悲鳴がモニターから聞こえて来る。
視線をそのまま下に下げると、そこが、この、現場だった。
他のビルに設置されている、巨大モニターには、また別の現場が映し出されている。
日本を中心に発生した、若者達の突然変異現象。
この事件が収束するまで、執行官達は、警邏中心の勤務体系を変異体の捕獲と、駆除活動をメインに切り替えられた。
すると、混乱に乗じた犯罪も頻発するようになってきた。
警察では、依願退職者が続出し、犯罪を取り締まる者が減っていく。
日本軍の退役軍人達にも声がかかるようになり、対ミュータント組織を新たに結成した。
退役軍人を起用する背景には、中国との問題にある。
軍事力を拡大してきていた中国が、ロシアと共に日本に戦争を仕掛けて来ている為、現役軍人を当てることが出来ないのだ。
同盟国だったアメリカ合衆国は、一方的に同盟を破棄し、お友達予算に充てられた日本国民の莫大な税金は、ドブに捨てられたようなものだった。
日本政府は、日本で頻発しているミューテーション現象は、中国による生物テロではないか、と、考えている。
強固な戦略と守りで、日本よりも軍事力を有する2強国からの攻撃を防いでいる日本。内側の混乱も気にせず、母国を守る為に、戦っていた。
医学と科学の権利などで、世界第1位のGDPの座にいる日本だったが、敵国の兵士や武器の多さには負けている。
中国がロシアと共に戦争を仕掛けて来た理由は、宇宙開発の頓挫にある。
一人っ子政策が廃止された中国では、国民の人口が再び増え、社会問題へと発展していた。宇宙に第二の中国をつくり、国民を移民させる計画が進んでいたが、地球の温暖化対策と、軍事力強化、他国に貸したお金などが、かさみ、宇宙開発の予算が足りなくなってしまっていた。
そこで、過去の日本との遺恨を持ち出し、宇宙開発の資金を日本に要求してきたのだ。
駆け引きが続いていた両国であったが、業を煮やした中国が領空侵犯・領海侵犯を同時に行い、日本軍の警告を無視、攻撃を仕掛けてきた。
そして、中国は、日本を植民地にすると宣言してきた。
中国とは違い、人口が激減している日本に、中国の国民を移動させ、日本人は奴隷にするという。
そして次に、宇宙開発に移行する…という計画のようだ。
戦争は他国でも未だにあり、国際連合も表面上の注意に留まっていた。
中東のテロ組織との戦争も長引いている。
それを上回るこちらの戦争にまで軍事力を割けないのだ。
この戦争の主戦場は、空。
迎撃システムが強固な日本は、敵のミサイルも墜落してきた戦闘機も、地上に落ちる前に排除していた。
驚いたことに、未だに本土の被害は0だ。
戦争で生じる大きな爆音も、消音効果のある特殊な粒子のお蔭で、何も問題は無かった。
資金力に余裕のある日本は、戦争による国民の被害は殆ど無かった。
食べる物も、生活にも、経済にも何も問題は無い。
戦争と人々の生活は完全に区切られていたが、ミュータントの出現で、人々の生活は脅かされていた。
街頭モニターには連日のように若者の突然変異現象と、とある科学者が関わっているという報道がなされている。
顔と名前が表示され、高額な懸賞金が掛けられていた。
その画面を横眼に荒んだ顔の男性は路地へと歩を進める。
ドクン…!
「お久しぶりです、近松先生。執行官の北原です」
ヒリヒリするような日々を過ごして来た。
日に日に感覚は研ぎ済ませれて行く。
声がする前に男の気配を感じていたヴィンスは頭だけを動かし、穏やかだった瞳は何時しか厳しくなり、その眼光が北原を貫く。
彼の変わりように北原は純粋に驚いたが、表情を変えずに言葉を続けた。
「あなたの護衛をしていた若者数名をC.O.Hが処刑しました。お一人では危険です。私を護衛として仲間に加えて頂けませんか?」
ヴィンスは両手で顔を覆うと、自らの命を守る為に若者の命を利用してしまった自分が許せず、思わず大きな震える声を発してしまった。
「!!」
その姿に北原は慌てて声を出す。
「近松先生…!堪えて下さい。私が迂闊でした。場所を考えて発言すべきでした。活動拠点はどこです?そちらで詳しい話を…」
「うるさいっ!!!!それがお前らの作戦か!同情して仲間に加わったフリをして私を捕まえ、情報を全て改ざんし捏造するつもりだろうっ!!
…こんな筈では…なかった…んだ…」
堪え切れずにその場に崩れ、へたり込むヴィンス。
C.O.H所属の執行官に感情は無い。
しかし、北原はヴィンスの気持ちを察するように顔を歪ませると、
「私の事は信じて頂かなくて結構です。今の声で誰かに気付かれたかもしれません。申し訳ないのですが、手荒な事をさせて頂きます。」
と言うと、屈み込みヴィンスの耳元で更に言葉を続けた。
「…私の名前はヒューゴ。北原ヒューゴです」
「!!」
その名前に驚いたと同時にヴィンスは気を失った。
CASE5
「そうだったのですね、それで姿が見えなかったのだと理解できました」
室内にはコーヒーの香りが漂う。
二人はコーヒーを飲みながら話をする。
「…そう、変わらず資金提供はしてくれているので助かっているし、何より合わなくていいのが助かるんだ」
と、ヴィンスは語る。
「しかし、その資金提供を受けている事で契約が成されますね。ワンフーからすれば貴方が死のうが生きようがどちらでもいいのでしょうね。
情報データは自らの所へと自然と来るし、貴方が邪魔になったとしても代わりに殺してくれるヤツは沢山いる。
抜け目のない男だ。」
ブラックコーヒーに映る自分に視線を落とし、北原は言う。
すっかり気を許した様子のヴィンスは、意外そうに、
「こんなに人間じみた執行官を見たのは初めてだ…君の事は覚えているよ。あの時は正にC.O.Hといった感じだったが…いや…だけど…血液のデータに異常は無かったかな?
明らかに異常な数値であったと思うのだが…」
と、コーヒーをデスクに置き、手を組んだ。
「ええ、とんでもない数値でしたよ。平静を装うのに苦労しました」
と、爽やかな笑顔で答える北原。
「…少し…頭が混乱するよ…執行官が笑ってるなんて…。名前まで教えてくれるしね、ヒューゴ」
「まぁ…自分は変わり者なんで。はぁ…僕は革命に失敗した…。仲間がいたのに何も変わらなかった。なんの為に戦ったのか。
落ちてしまった執行官の質を戻すべく、僕たちは強い催眠によって自我を殆ど奪われました。中にはパニック症状を起こして死んでしまった仲間もいました。
あの酷かった精神病院での出来事すら脳にプロテクトがかけられて、薄っすらとしか覚えていません…」
「そのプロテクトは絶対に解除してはないないぞ。精神崩壊を引き起こしかねない。恐ろしい爆弾を抱えているなぁ…」
「いや、先生ほどじゃないでしょ?」
「いやいや、私は意外と図太いなぁと自分で関心しているんだ。本音を言えば死んだら楽になれるのにと毎日、考えている。
だけど気付けば1日、1週間、1か月と時は進んでいる。そして、私は生きている。なんて業の深い生き物かと更に自分を責めてはいるが、
その考え、行いすら腹が立って来る。」
ヒューゴはフッと笑う。
「…笑われるとは思わなかった…」
ヴィンスは年甲斐もなく少し落胆する。
「いえ、だって…それ僕に言う?と、思って」
「…あー…」
ヒューゴは現行の刑執行に疑問を感じ、革命戦争を起こした。
戦いでは仲間が死に、勝利するもC.O.Hの仕組みは何一つ変わらなかった。
その後、精神病院にて拷問という名の強い精神操作を施され、血も涙もないC.O.Hの仕事を強要されて来たのだ。
「先生は僕らに不満があって行動を起こしたのでしょう?だったら頑張って貰わないと!」
笑いながら、そう言うヒューゴの顔を見ながら、ある疑問が湧く。
「精神操作を受けたんだったな。そうは見えないのは何故だ?」
「………。」
暫く黙った後に口を開いた。
「…実は、執行官を辞めたんです。理由はパワハラですよ。僕の事が気に食わない男が上司になって、やたらとイビッってくる。
僕もヤツの事が嫌いだった。上司を殺した敵ですから。精神操作を受けたとしても、そういった感情まで無くならないみたい」
「辞めたら、精神操作を解かれるのか」
「はい。執行官も結構つらいんですよ。なにせ元々の冷酷な執行官が確認戦争で多く亡くなっているので、現在 活動している執行官の殆どが僕と同じ側にいた人間で、
自分のしたくない事を精神操作で強要されているんですから。しかも簡単には辞められない。僕の場合は上司に依願退職するよう仕向けられたんですがね。
悔しいですが、戦う事に疲れてしまったんですよ。もう、いいやって。辞めた後はどうしようか…と考えた時に丁度テレビに貴方が映っていた」
ヒューゴは、そう言うと室内にあるテレビの方を見る。
それでもヴィンスは納得がいかない表情をしていた。
「う~~ん…」
(強い精神操作を施しても革命戦争を起こした程の思想までも消し去る事は出来なかった…という事か?)
(それ以上の精神操作は精神の崩壊と同時に脳死に至る。少なくなった人員を埋める為の強行な手段だが、執行官になるにはかなり優秀な人間しかなれないからな、
貴重な人材であるのは確かだ。)
ヒューゴはヴィンスを穏やかに眺めている。
それに気付き、
「あっいや、すまない、理解したよ」
と言うと、
「でしょうね」
とヒューゴは笑う。
「?」
ポカンとしているヴィンスに、
「先生は分かりやすいです。顔に出るから」
と、年下の男性に言われ、
ばつが悪い感じで頭に手を当てたのだった。
ワンフーは「南北統一戦争」真っ只中の朝鮮半島へと戻ったらしい。
彼の心中を推し量る事は出来ないが、こちらに資金提供するだけの余裕はあるようだ。
恐らく武器や情報の提供で儲かっているのだろう。
世界各地で紛争やクーデターが後を絶たない。
国際連合は言葉で解決しようとノーベル平和賞受賞者たちに押しつけ、彼らが平和について訴える度に暗殺される事件が相次ぎ、
言葉だけでは、どうしようも無くなっていた。
個人による武器販売も増え、質の悪い銃火器が戦場を混乱させている。
そんな中、王虎の武器は質も良く、大量に生産している。
噂によるとプライベートの飛行機やクルーザーなどを使い、日本から輸出しているらしい。
プライベートジェットは税関検査を受けなくて良いし、クルーザーも簡単に誤魔化せる。
人を疑う事も知らない のどかな田舎で3Dプリンターなどを使い、生活困窮者を見つけては好待遇で雇い入れているようだ。
しかも日本はミューテーション現象の対応に忙しく、王虎という指揮官がいなくても楽に犯罪を犯す事が出来る。
先進国の中で遅れていたデジタル分野において、目まぐるしい発展と共にトップに立った日本。
デジタル犯罪をするだけの設備がのどかな田舎であってもあるのだ。
しかし、ヒューゴと今後の作戦を立てている最中、急に王虎から連絡が入って来た。
「セム。お久しぶりです」
ホログラフィー通話で久しぶりに見たワンフーの顔は、ロボットかと思う程に若い頃から容姿が変わらない。
「要件を言います。ミューテーション現象の原因はマシンセルですね?心当たりは御座いますか?」
「!!」
「マシンセル?なんです?それは」
ヒューゴの顔を見た王虎は、
「口を挟まないで頂きたい。新薬投与の際、一部の薬に何らかの方法で混入されたものと思われます。本題を申し上げます。
ワクチンで細胞レベルの書き換えは可能ですか?」
とヴィンスに顔を向け尋ねた。
「…そこまで知っているのなら、それが不可能であると分かっているんだろう?」
ヴィンスはワンフーを睨む。
「私があなたをなぜ生かしているのかお分かりか?マシンセルについては近松セムの思想に反する。犯人が他にいるであろう事は容易に考えられる。
あなたは不可能を可能にし、驚く程にお人よしだ。このまま静観しているとは思えない。出来れば私がそちらに赴きたいが、忙しくてね。
今後の定期報告に対抗ワクチンについても記載して頂きます。それでは失礼いたします」
通信が切れると同時にヴィンスは怒りを露わにする。
「くそっ!いずれはバレると思っていたが…予想より早い。アイツのメンタルはどうなってるんだ…」
「今の話だと、先生は既に真犯人を知っているのに告発せずに、対抗ワクチンの制作に取り掛かっている、という事ですか?」
ヒューゴの問いに、ヴィンスは驚きの事実を述べた。
「対抗ワクチンは既に出来上がっている」
「えっ…」
予想外の言葉にヒューゴは固まった。
思考までも止まり、何も言葉が出てこない。
「ただ、誰にマシンセルが入り込んだのかを突き止める方法が無いんだ。それが分かればワクチン摂取で書き換えが可能だが、他の人間によって何度でも書き換えられるのが
マシンセルの特徴だ。変異体においても治療が可能だが、長期間による闘病が必要になる。指名手配犯の話を信じる者などいない。命が狙われているが、私が死んだら誰も
事実を知ることなく被害が続くだけだ。不思議な事に私は変異体にも狙われていた。しかし、そのお蔭で犯人と原因が分かった。だが、死ぬわけにいかず、『イナ』に守って貰っていたんだ」
「イナ?」
「ヒューゴと同じだ。精神操作がかからない人間がいたのだ。私が変異体に襲われた時に意志の無い変異体が『イナ!!』と叫び、一人の少女を襲い始めたのだ。混乱に乗じて我々は逃げる事に成功し、
彼女の血液を調べるとマシンセルが見つかった。だが、どうやら不具合が発生していたようで…」
「ちょ、ちょっと待って下さい!こんなに動転したのは初めてです。そもそもマシンセルが分かりません。
変異体については死亡した状態のものしか確保していませんが、細部に至るまで検死解剖を行い、採取した血液からはマシンセルというものは検出されていません」
「当然だ。簡単に検出されたのでは意味が無い」
頭が混乱しているヒューゴはコーヒーを手に取り、一息つく。
「…血液の検査法は多岐に亘りますが全て確認済みです。つまり、マシンセルを特定する為の検査法や検査薬が必要なわけですね?
先生は、初期の段階でマシンセルをお疑いになっていた?」
ヒューゴの問いにヴィンスは頷く。
「…樹梨先生だ。新法律の制定に強く関わっていたと友人から聞いた。ある出来事をきっかけに見かける事が無かったのだが、別人に成りすましていたと…。
彼は長く停滞している人類の進化について研究していた。生物の進化には大きな環境変化、外敵の存在、それに対応する順応力が必要なのだが、
人間はというと、発達した頭脳が様々な問題を解決している為に進化が停滞しているんだ。日本で起きている一連の騒動は新法律が施行されてから嵐のように荒れ狂っている。
私が新薬の義務化に成功した数年は嵐の前の静けさだった。…胸騒ぎはしていた。」
「大きな環境変化…が新法律。外敵の存在…が変異者。順応力…は治安維持が出来ていない現状。特に順応力は一般人においては不可能に近い」
「そう。だから進化するしかないんだ。しかし、それには長い年月が必要だ数百か数千年か…。普通に考えたらば待っているのは絶滅への道だが、
ここで重要になってくるのは新薬とマシンセルだ。新薬は犯罪欲求を抑えると同時に闘争本能も低くなる。戦力になる若者を使えなくしてしまっている。
更に一部の若者の中にマシンセルが紛れ、変異しない『イナ』を襲わせる。」
ヴィンスは残りのコーヒーを流し込むと、空になったコーヒーカップを強く握ると力のこもった声で言い放つ。
「『イナ』とは、新人類の事だ…!」
「新人類!?何を言ってるんですか?……いや、そういえば先生の護衛をしていた若者達は変異者では無いのに異様に力がありました…。華奢な少女でも武器を持った男数人がかりで…
何か違法薬物で強化されたものだとばかり思っていましたが、もしかして…」
ヴィンスは手に持っていたコーヒーカップを壁に叩きつけ、欠片を飛ばしながらカップが散った。
「彼らがイナだ。ドーピングも何もしていない。彼らは言っていたよ。物心ついた時から他の子とは違ったと。運動していないのに、どのスポーツも得意で、勉強も出来た。風邪を引いた事も無いし、高い所から落ちても掠り傷
で済む。気付けば周りからは気味が悪いと遠ざけられたと言っていた」
「先生。こんな時に下世話な事を言いますがご容赦ください。その…、イナ同士で自然妊娠をしたら子供にもマシンセルが組み込まれるのですか?」
「…推測の話になるが、マシンセルは遺伝しないと思う。樹梨先生は完全な人類の進化を促したいと考えている。イナ同士の受胎が進めば、自然と強い子供が増える。新薬の投与で犯罪欲求を抑える必要も無くなる。
なぜなら、イナは犯罪指数も低く、優しい心を持った子が多いからだ。社会生活も上手く行くだろう。能力も高く、病気や怪我に強い体。
私が疑問を抱いていた新法律による被害も、自然と収まって来るだろう…」
自分の理想に近づいているはずなのに、ヴィンスは悲しい顔をしていた。
「では、このまま静観していれば自体は収束するのですか?」
「表現が悪かった。上手く行けばの話。実際は、変異者が今後、どの程度増えるのか、また、イナにおいては更に数が少ない。
変異者はマシンセルにイナを攻撃するよう指示されている為、変異者に襲われている若者を中心に保護する必要がある。
血液検査でイナであるかを確認。イナの若者は境遇も似ている。恋に落ちる確率も高い。全て樹梨先生の計画通りという所か」
「変異者は無差別に殺戮を行っていたと思いましたが、理性が無いからか。偶然イナに遭遇した場合にターゲットをイナに変えるんですね」
ヒューゴは窺うようにヴィンスを見ると、
「ワンフーには何と?」
と尋ねた。
「今更、ミューテーション現象について言って来るあたり、リロイに何か言われたか、あるいは田舎の武器製造に若い従事者が多いため被害が出る前にワクチンを準備したいのだろう。
後者の方が近そうだ」
そう言い、ヴィンスは考えるように顎に手をやり、
ずっと、ワンフーに言いたかった事があるんだ、と笑いながら言った。
「おととい来やがれ」