さすがにこれは――。
名前を尋ねられたが。
さすがにここで、リヴィの名は出せない。
仕方ないのでジョンという、非常にありがちな名を口にすることになった。
「そうか。ジョン。俺の名はマッドだ。君は酒が強そうだから、残念だよ」
「はは。申し訳ない。マッドこそ、酒豪だろう。僕の分まで飲んでほしい」
そう言って私はマスターに、マッドのお代わりのビールを頼む。そして支払いを済ませると、すぐに食堂を出た。立て続けにビールを飲んでしまったので、レストルームに寄ることにする。
転生したこの世界。前世で知る中世のように、トイレがなかったら困る……と思ったが。この世界には、ぼっとんトイレ、すなわち汲み取り式トイレが普及していた。これはこの世界に転生して、一番安堵したことだった。
ということで男女共用のレストルームから、サッパリして出た瞬間。
息が止まりそうになった。
なぜなら廊下にマッドがいたからだ。
もしやトイレの順番待ち?
「やあ、ジョン。また会ったな」
「ははは、そうだな。ちょっと用を足していた」
「そうか」
そう言ったかと思ったら、いきなり肩に腕を回され、短剣を喉元に突き付けられていた。
完全なる不意打ちだった。
しかも騎士であると匂わせたが、完全にオーラを消していた。このマッドという男、ただの騎士ではない。
「ソードマスター<剣術師範>だな」
「はは。さすがですな、剣聖と言われた団長殿。よくぞ今の出来事だけで見破りました。だが解せない。なぜあなたがこんな場所に?」
……バレている!
これには大いに焦ることになった。
なぜならソードマスターが、国境近くの宿場町に、たまたまいるはずがない。マッドは間違いなかった。ヴァルドに随行しているソードマスターだ。
剣を抜くかどうか、迷った。
まず、こんな狭い廊下は、剣の戦いに向いていない。
それに騒ぎは起こしたくなかった。
できれば穏便に済ませたい。
「……僕はサンレモニアの森で、避難民の救出活動を指揮している。森の外で天幕を張り、そこに滞在しているんだ。今日はその……女を抱きたくなって、ここまで来た。自国の宿場町より、ここの方が近いから」
「リヴィ騎士団長、嘘は困ります。あなたは平和条約締結記念舞踏会に出席するため、王都へ戻ったはずでは? それなのにここにいるということは……ヴァルド皇太子殿下の暗殺を国王に命じられたのか? 仲間はどこに待機している?」
王都へ戻ったはず……なぜそれを知っている……!?
そう思ったが、すぐに一つの可能性が浮かぶ。
ヴァルドはもしかすると、この宿場町に昨日、今日来たわけではないのかもしれない。平和条約締結記念舞踏会には、絶対に出席する必要がある。だが急な嵐などで足止めを食う可能性がある。ゆえに早めにここに到達していたのではないか。そして気づいた。サンレモニアの森で、避難民の救出活動を、マリアーレクラウン騎士団が行っていることに。
監視……されていたのかもしれない。
だからこそ私が王都へ戻ったことも、知っているのでは!?
いや、今はそのことよりも……。
「ち、違う! 断じてそんな理由で来たのではない! 仲間など一緒ではない。僕一人だ」
騒ぎになることを躊躇せず、マッドの短剣を奪い、息の根を止めておけばよかった。
平和協定を結んでいたとしても。
ヴァルドが滞在する宿場町に、宿敵である私がいれば……。
それは絶対に怪しい。
暗殺を目論んだのかと、疑って当然なのだから。
躊躇したのは、気が緩んでいたせいなのか?
一方、私の返事を聞いたマッドは「そんな言い分、信じられると思うか」と言うのと同時に、私を気絶させたのだ。
意識を失う刹那。
思ったことはただ一つ。
女であることは、絶対にバレてはいけない。
単身行動をしていて、女とバレたら……。
いくら礼儀正しいヴァルド率いる帝国軍でも、さすがにこれは――。
そこで完全に意識を失った。