1.
さかのぼること6月前。
「ああ……今年もこの時期がやってきてしまったわね…」
アリィシアは王宮の一室で、色とりどりの様々な生地、豪華なレース、艶やかな絹糸に囲まれてため息をついた。この華やかな状況とは裏腹に、これから最も憂鬱な季節が始まるのだ。
アリィシアは公爵令嬢である。この国に現在公爵家は八家、その中でも筆頭四家と言われるうちの一家、メリディアン家の長女だ。王家と筆頭四家にはアリィシアの前後にしばらく女子が生まれなかったから、王家の姫にも劣らない扱いをされて育ってきた。
と、聞けば贅沢三昧我儘三昧を想像されるだろうが、そうではない。ノブレス・オブリージュ、高貴なる義務。清貧こそ美徳。東の外国の言葉によれば、『武士は食わねど高楊枝』。つまりまぁ、義務をてんこ盛りにされてきたということで――
「ほほほ、そうですわね。待ちに待ったこの季節が!アリィシア様、昨年よりかなり体つきが大人っぽくなられて私どもも腕がなりますわぁ」
待ち受けていた王家御用達の衣装職人のハリス夫人が本当に指をポキポキ鳴らした。
彼女の作品は本当に美しく、そのドレスを着るのは国中の女子の憧れだ。アリィシアだって、ドレスを着るだけならワクワクして過ごすだろう。特に、いま打合せをしているこの衣装は今年の流行を作るとも言われるほど話題の中心になるドレスだ。
「今年はすみれ色ですから、お衣装次第でアメジストの艶めきのように妖艶にも、真珠の秘めた光のように清純にもなりますわね」
衣装に関して万の表現を持つというハリス夫人が楽しそうに言う。
この国には王家が主催する四つの祭りがある。祭りというか、祭事なのだが、四季の報告を女神に捧げるための祭りで、特に春に行うものの規模が大きく、一週間も続く大祭である。その春大祭で最も盛り上がるのが祭りの最初に奉納する舞で、これを一生に一度は見たいというのが国民の願いとも言われれるほどだ。この奉納舞、王家または筆頭四公爵家の未婚の姫が演ることになっている。その衣装の色は毎年占いで決められており、当日まで明かされないため、国民のほとんどが熱中する賭けにもなっている。
「……ガスパル家の双子のご令嬢もまだ今年で8歳ですから、お仲間が出来るのは二年後ですわね」
憂鬱そうなアリィシアの様子に、理由を察してくれたらしい。ハリス夫人とも長い付き合いだ。この衣装だけでなく、普段のドレスも作ってもらっている。
言われてアリィシアは半泣きになった。そう、王家と筆頭四家で10歳以上の未婚の女子は、この数年――アリィシアが10歳になって以降、たった一人。
たった一人で国民の視線を一心に受けて、踊る。これほどの恐怖があるだろうか。しかも、この舞、基本の動きはあるのだが、毎年アレンジされるために猛特訓が必要になる。ただでさえ、アリィシアは体を動かすことが得意ではない。10歳になってからの7年間、毎年この恐怖にさらされてきたわけだ。
「何かご要望はございますか?」
占いによって決められているのは色のみ。デザインは職人と舞手に任されている。
「動きやすいデザインをお願い……」
いたわるような声音に少し心慰められながら、これも毎年のお願いで、とにかく舞に影響しないデザインをお願いする。
「承知いたしております」
「それだけ考慮してもらえれば、あとはお任せするわ」
これから始まる特訓と緊張の日々に言葉少なになるアリィシアに同情して、ハリス夫人が言った。
「高貴な方は、大変ですこと……」
***
「よぉ、シア。今年は何色なんだ?」
採寸が終わって、青褪めた顔色でよろめきながらやってきたアリィシアにニヤニヤしながらランスロットが声をかけてきた。学園では澄ました顔をしているから、こんなニヤニヤ顔は王宮内であっても限られた場所でしかお見掛けできない。「完璧貴公子」なんて噂をしている女子生徒たちに見せてやりたい表情である。
王家に特有の漆黒の髪と、深いサファイヤブルーの瞳、高い鼻梁に意志の強そうな眉。真面目な顔をしていれば本当に格好良くて、見慣れていたって目を奪われる。城下で姿絵が売れているという話も以前耳にしたことがある。
――いいえ、見せたくない。みんなが知っているランスは作り物で、本当は口が悪くてガキ大将みたいな姿を知っているのは、幼馴染の特権だもの。
春大祭のドレスの仕立てが始まったことが耳に入っているのだろう。俺も賭けるから色を教えてくれよ、とは毎年のこの時期の会話である。
「ランス、毎年言っているけど、祭事の衣装の色は絶対に明かしちゃいけないんだから言えないわよ」
軽口に答えながら抱えてきた教材を机に並べる。いまから、周辺少数民族の語学の授業だ。学園では習わないマイナー言語のため、休日に講師を王宮に呼んで講義をしてもらっている。
「あら?オスカーは?」
もうすぐ講師が来るという時間になってももう一人の出席予定者、第三王子のオスカーが現れないのでアリィシアは首を傾げた。
「オスカーは、今日はサボり。ノイエスヴァルトへの遠征に同行するんだってさ」
ノイエスヴァルトは国の西側に広がる広大な森で、その奥には王家以外は居ることのできない禁足地がある。その周辺に魔獣が出るために定期的な討伐が必要なのだ。森があるおかげで隣国の侵攻を阻んでくれるとはいえ、魔獣は簡単に倒せるものではなく、毎回死傷者が出る。ために、精鋭の騎士と魔術師たちが派遣される。
「え、危ないのではないの?」
「あいつなら大丈夫だろ、もはや見習いじゃなくて戦力だからな。こっちをサボる口実になって嬉々として出かけてったぞ」
「まあ……」
確かにオスカーは王子というひいき目なしに剣術の才能があり、弱冠15歳にして国の剣術大会では上位入りの常連である。からして、確かに戦力であろうが王子が魔獣討伐とはあまり聞かない。
実力もだが、おそらく本人がそちらを志願したのだろう。今日の講師は宿題をやる気のない第三王子に厳しい。
「それに、なんだか時期が変ね?」
今はまだ雪深い。毎年春に行う定期討伐はもう少し先だったはずだし、魔獣が発生したという話も聞いていなかったと思う。魔獣の生態は明らかではないが、冬の時期にはなぜだかほとんど出現しないのだ。
「まあ、ちょっとお告げがな……」
言葉を濁したのは、まだ秘密の内容なのだろう。
なるほど、とうなずいて深追いはしない。すでに王太子であるランスも、それを支えるオスカーも、学生とはいえそれなりに国政に関わっている。幼馴染とはいえそれらに無関係なアリィシアに、彼らが言葉を濁すことはままあることなのだった。だから、わかったと頷いて見せて、話題を変える。
「ところで私の『謹慎』はいつ解いていただけるのかしら、生徒会長殿?」
「公爵令嬢に相応しい慎みを持ったと俺が認めるまでだ、副会長殿」
「もともとあなたの慎みがなかったことが発端なのに……横暴だわ。ロドニーからも仕事が溜まってるって苦情が入っているのよ、もうすぐ新学期だし」
「うるさい。この件に関しては、俺がルールだ」
二人が通う学園は王家が私財を投じて設立したもので、貴族の子息だけでなく優秀な能力を持っていれば平民からの入学も許されている。とはいえ身分の違う生徒を交えると問題も発生しがちのため、余計な摩擦が起こらないようクラス分けがされているので二人のクラスメイトは中等部からの持ち上がりの貴族がほとんどだった。
そして学園全体の旗頭として、位の高い貴族が生徒会役員を担うのも伝統であった。同い年であり、抜きんでて身分の高い二人は、高等部に入学した時からそれぞれ生徒会会長と副会長を拝命している。生徒会が使う生徒会室は、伝統ある学園の中でも学園長室と並んで美しい部屋なのでアリィシアも気に入っているのだが、ちょっとしたトラブルからあいにく今は生徒会長のランスロットから出禁を食らっているのだった。
ロドニーは会計を担当している宰相大臣の一人息子で、アリィシア達と同じクラスに所属している。
「あなたなんて、上半身裸だったのに。私はちょっとお腹を見せただけなのに」
「そんなことを言ってるうちは駄目だからな!」
これが、自分がいちばん彼に近いところにいるだなんて勘違いを、素直に信じていられた最後の日だった。
その日、第三王子のオスカーは、王城に伝説の神子姫を連れて帰還した。