4話
夏休みの末、海岡は村田の部屋を訪れていた。空は黒い雲で覆われ、雨の勢いは一時間ほど前から勢力を増し続けている。
モダンな色調で塗りたくられた部屋は、エアコンによって生ぬるい程度に温度が調整されている。コップの中の氷がカラン、と音を立てて形を変えた。
海岡は壁に設置された学習机と真面目に向き合っている。顔を上げ、雨水でろくに景色を見通せない窓を見つめる。小さなため息をつき、真横にいる村田を見つめる。助けを求める猫のような眼をしていた。
「どうした。どこかわからないところがあった?」英語検定一級の参考書を閉じて村田が訊く。
「ここ、この問題。解答を見て解き方は理解できるけど、どうやってこの解き方までたどり着けばいいのかがわからないの」
学校から出された数学の課題を指さしながら海岡が言う。海岡は成績不振が祟って教師から追加の課題が出されていたのだ。それを終えるまでは部活動も禁止する、とすら言われた始末である。
「そういうことか。ええと、ここは」
そう言って村田は丁寧に説明してやる。海岡は適当な相槌を打ちながら大人しく聞いている。村田にとって理系科目は大の得意であり、高校数学を教える程度なら彼にとっては朝飯前であった。
「そっか! ようやく理解できたよ、ありがとう」
どういたしまして、と村田は返し参考書に目を向ける。が、ふと時計の時刻を確認して再度海岡に言葉を投げかける。
「もう六時だよ。勉強を始めてから四時間は経ってる。少し休憩しよう」
「でも、私この課題来週までに終わらせないと先生に怒られちゃう」
「そうだろうけど、もう七割方終わってるんだ。ちょっとくらい休んだって問題ないよ。それに無理して部活いけなくなったら本末転倒でしょ?」
海岡は少し考え込むように静止する。カレンダーの方に目をやり、椅子にもたれかかった。
「それもそうだね。悠弥も一緒に休憩しよ?」
ベッド上に移動して、海岡が提案する。布団をポンポンと叩き村田に自分の横に座るよう促す。村田は参考書を置き、海岡のもとに足を進めた。
「追加課題なんてあるのがいけないんだ!」
唐突に叫んだ海岡に村田が戸惑った。しかしすぐいつもの調子で返事を返す。
「そりゃ、春花がテストで良くない点取っちゃったんだから仕方ないよ」
村田の言葉を聞いて、海岡がベッドで寝転がる。
「しかたないじゃん。私数学嫌いだし」
「俺は好きだよ」雨音が部屋を支配する。その空間に言葉を置くように村田が言葉を続けた。「春花のこと」
海岡がバッと起き上がり、目を丸くして村田を見つめる。その視線を避けるかの如く、村田はそっぽを向いている。
「わーたーしーもーだーよー!」
言いながら勢いよく海岡は抱き着く。村田は嫌にならない、そして夏の暑さとは違う温度を感じて顔を赤らめる。
「だから、一緒に頑張ろう」
「うん、頑張る頑張る! だからもう一回言って」
またもや雨音が響く。
村田は海岡を見て、視線を泳がせ、もう一度彼女を見る。
「好きだよ」
海岡が村田の腕に顔を埋める。
「雨の音でよく聞こえなかったかも。もう一回言って?」
海岡は腕を握る強さを強める。村田には彼女の逃さないという意思が、筋肉を伝って感じられた。
雨は屋根を激しく打ち付ける。雨以外の音をつくらぬよう、男はそこに蓋をする。女の目は見開かれ、強く握っていた男の腕を離してしまう。その代わりに今度は男が女の腰と頭に手をあてがう。
女には自分を逃したくないという男の意思が、骨を伝って感じられた。
「今日、親、いないから」
その声を最後に、もはや部屋はただの部屋ではなくなった。
男は女の上から彼女を見つめる。女は手で口元を隠し首を九十度右側に回転させる。男の紳士的で、ある種暴力を孕んだ行為へ抵抗を示さず、屈服の眼差しを向けた。
男は女を手放し、探し物をする。女は男の思惑を察し持参したリュックから探し物を男に差し出す。大して時間の経つ間もなく、もはや衣擦れの音すらしなくなった。あるとすればそれは、肌と、毛と、布団が擦れる音だけだった。
女は別の何かに変化しつつある自分たちを俯瞰し、恥じらいを深める。
男はラブ&ドラッグのワンシーンを頭の中に浮かべていた。
ぎこちない初心な行為の後には、雨音が一切なかった。
時計の針は午後八時半を指していた。外の温度とは対照的に、部屋は冷気で満ちていた。エアコンが冷房の十七度で設定されているのだ。
「あっついねー、悠弥」
ああ、と村田は返す。
「時間、大丈夫? 早めに帰らないとおじさんたち怒るんじゃないか」
「大丈夫だよ。今はすぐに帰りたい気分でもないし」それより、と口にして海岡は続ける。「そっちこそ時間は大丈夫なの? おばさんたち、そろそろ帰ってくるんじゃない」
「さっきも言ったけど、今日は親いないから。夫婦そろって泊りがけの仕事さ」
海岡は意味ありげにふーん、と言葉をこぼす。
「それってさ、もしかして」
村田は海岡の言葉を遮るように言う。
「わかってる。たぶんそういうことだと思う。息子としては親のそういう事は、なんていうか」村田は言葉を濁し、次の選択を吟味する。「あまり考えたくない」
「それ、私たちが言えることじゃないと思うけど」
海岡は笑って言う。ちょっとした肌寒さを感じて布団に身を包んだ。
「お風呂いれようか。俺も汗かいて入りたいしさ」
「うん、じゃあ借りちゃおうかな」
村田家のバスルームのすりガラス付きのドアには、二つの人影が映った。
「こんなに遅くまでお邪魔してごめんね。それに見送りまで」
「いいよ、いつかこういう日も必要だっただろうし」
「なにその言い方、ちょっと淡泊」
海岡はムスッとした態度を見せる。村田は取り繕うとはせず、別段何を考えるわけでもなく海岡に口づけをした。二人の目は、月の光に照らされて不純物を含まない宝石のように澄んで見えた。
辺りは電車の音で支配されていた。
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