3話
試合の後、休憩をしている村田に海岡は近づいた。
「ぷっはぁ! いや、負けた負けた。やっぱ強いね、悠弥は」防具の面を外しながら海岡が言う。まとめた長髪が宙を舞い、女の子らしい香りが村田の鼻孔をくすぐった。
「いや、勝った勝った。まだまだだね、春花」
村田は海岡の言い方を真似た。しかし面はつけたままだ。
「なにその言い方、変なの」
「春花がそれを言うの? 面白いね」
海岡はわけがわからないという反応を示し、村田は軽く笑った。
「春花は俺に合わせようとし過ぎなんだよ。まず、十分な実力があることを自覚したほうがいい。動きに自信の無さが滲み出ている。だから焦って動きを合わせようとしてしまう」
「むむむ、そうですか」
「俺が踏み込んだ決め手だって、春花が俺の自信に気圧されて動揺したことだ。自分でも自覚あるんじゃない?」
「そうですね……はい」
海岡が萎れた。村田はなんとか取り繕おうとして言った。
「でも、俺以外とやるときはそういう隙を作っていない。多分無意識にそうできてるんだ。だから、俺意外にはそうそう負けないだろう」
「うん、大会でも殆ど負けない」
その通りだ、と村田は肯定を示す。
「ただはやり、相手を格上だと認識するとさっきみたいに試合を運んでしまう。それもまた、無意識に判断しているんだ。その癖を無くすのが強くなる一番の近道だと思う」
「ありがとう」
海岡は言葉を喉に引っ掛けながら言った。
「実力は確実にあるんだ。だから自分の呼吸を忘れずに動くといい。頑張って、応援しているよ」
「うん、頑張る」
海岡の言葉は、村田にはどこか決意めいているように感じられた。
「悠弥って、人のことちゃんと見てくれるよね」
「どうしたの急に。閑話休題?」
「そうそう。かんわきゅーだい。ずっと張り詰めながら話しても疲れちゃうでしょ。りらーっくす」
村田は打ち込みの練習をしようとしていたが、海岡の言葉に納得して休憩を取ることにした。
「リラックス、ね」
「ぐえー」
胴の防具は外さずに、海岡は壁にもたれかかる。その体制のままずるずると壁に沿って落下し、ついには寝転がった。
「こらこら、まだ部活中だよ。休憩するならせめて座りなよ」
「んー、でもなー。私、悠弥との試合で疲れちゃって動けないかも。悠弥が身体起こしてくれるなら別だけど」
海岡は演技であるとバレるための演技をする。まるで、その言葉に隠したい意味がどこか別のところにあるかのように。
村田は無言で海岡のそばに寄り、腕を背中へとまわす。軽く力を入れて海岡の上体を起こしてやった。
「ここまでしたんだ。壁にもたれかかるなとは言わないから、取り敢えず寝転がらないで」他の部員に声が届かないよう顔の距離を近づけて、海岡を見つめながら囁くように言った。
海岡はただ無言で困惑に近しい視線だけを返した。数秒して、絞り出すように海岡は言った。
「リクライニングチェアみたい」
「え?」
村田が戸惑いを隠しきれないでいると、海岡は突然立ち上がった。
「私、練習戻るね。悠弥もサボりすぎて私に負けないようにしなさいよ」
村田は「別に、サボってるわけじゃないんだけどな」と一言零してから、自分とは反対に位置する壁一面の姿見の前まで走る海岡を見つめた。
時刻は午後六時半。練習を終えて、村田は影を一つだけ落としながら帰宅をしていた。いつも下校をともにする仲の良い男友達が、今日は部活へ来なかったからだ。
村田は立ち止まり、ふと後ろを振り返る。学校の方角というより、家とは真逆の方角と表現するのが正確だ。そちらのほうに広がる茜色の空をぼんやりと眺める。
今日は遠回りしよう、村田はそう決意して右手にある横断歩道を渡った。
帰宅が遅くなる適当な言い訳をメールに打ち込みながら村田は川の土手上を歩いていた。
「母さんはどんな言い訳なら納得するかな」と呟いてその場に斜面に座り込んだ。
わきには高校へ入学してから新調した登校用リュックが置かれている。目を真っ直ぐ向ければ赤々と輝く夕日が目に映り、川の近くでは中学生がボール遊びをしていた。一度メールの打ち込みをやめ、村田は夕日を眺めた。その瞬間村田は夕日に吸い込まれる感覚に陥った。普段見向きもしない一日の終りの美しさに魅了されてしまったのだ。それはいつも下校の足取りが重い村田にさらに足枷をかける魔法だった。
「悠弥じゃん。お疲れ」
村田の脳が思考を夕日に預ける直前、海岡の声がそれを防いだ。
声がした方へ向き直り「よう、お疲れ様」と村田は声を張り上げた。
海岡が手を振りながら側に歩み寄る。村田には遅すぎず早すぎないスピードで調整しながら進んでいるように見えた。
「恋してるみたいだったよ」
海岡がいたずらっぽく言って見せながらしゃがみ込む。
「誰に?」
「誰かにってわけじゃない。なんていうか、夕日に」
夕日に恋するか、と村田は一拍置いてから言った。
「夕日に恋するか、それも悪くないかもね」
「どうしたの、今日は。珍しいね」
「それ、どういう意味?」
海岡は真剣な表情で悩んでいる。眉が下がって目が細くなる。村田は、これが二者選択を迫られているときの海岡の癖であることを知っていた。
「こっちから帰ってくるのが珍しいって意味。私はいつもこの道を通るけど、悠弥は違うでしょ。それに、悠弥は早く学校を出たはずなのに私に追いつかれてるし」
「ちょっとした用事だよ」
「用事って、恋してる夕日を眺めること?」
「正解。そのために俺はこっちに来たんだ」
ふぅんと何かを勘ぐるように海岡は言う。
「夕日に恋する理由を教えてよ」
「ストレートに聞けばいいのに」村田は乾いた笑みを浮かべながら言った。
「別に、言いたくないならそれでいいんだよ。用事を知りたい訳じゃないし。私は理由が知りたいの。ただ、なにか後ろめたいことなのかもしれないと思って」そう言って海岡ははっとしたような表情をする。「だからといって悠弥の用事がどうでも良いわけじゃないんだよ! 無理に言わせたくないって意味であって」と付け加えた。
「わかってるよ。春花のそういう気を遣えるところには感謝してる。ありがとう」
海岡は足元の草に目線を落とした。同時に、上質で無垢な彫刻のように白く美しい膝に口元を沈めた。
「実を言うと、夕日に恋なんてしてないんだ。だから小難しい理由もない。ちょっとばかり道草を堪能していこうと思って歩道を渡ったら、ここにたどり着いたってだけだ」
そう、と海岡は言葉を返す。そうして二人は隣り合った。
「今日から毎日、私と道草を堪能してみない?」
二つの影が大きく伸びた後、海岡は震える声を押さえつけながら言った。いつの間にか中学生は消えていた。
「私は悠弥とそうしていたいよ」
「毎日?」
「うん」力強い決断が含まれる声音で海岡は言った。
夕日の光を錯覚したのか、村田には海岡の頬が紅潮しているように感じられた。
「付き合ってよ」
「何に付き合えばいい。夕日を見つめること?」
意地の悪いこと言わないで、と海岡は目で訴える。
村田は海岡の目を見つめ返す。まるで、一日の終りの美しさに魅了されてしまったように。
海岡の眉が下がり、目が細くなる。
「夕日なんて見られなくてもいい。それよりも、私はもっと別のものを見ていたい。悠弥は違うの?」
村田は斜面に身を委ねる。茜が深まった空をぼんやりと見上げていた。海岡はそんな村田をじっと見つめている。
時刻は七時丁度。村田は「彼女の家で遊んでくる」とだけ打って玲子にメールを送信した。
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