2話
特に書きたいことはありません。
「悠弥、おはよう!」
瞬間、自身に投げかけられた言葉に幾分かの驚きをして、村田は振り返った。
「ああ、春花か。おはよう」
「そうですあなたの海岡春花さんです!」
「また変なこと言ってる。俺専用の女友達なんか存在しないよ」
「あっそう? そうだとしても悠弥は私専用の悠弥だよ」
海岡春花は常識を説くように発言した。
「その悠弥とかいう男は可哀想だな。春花みたいな女子専用の男になるなんて」
「んー? 違うよ、ここでいう悠弥は村田悠弥だよ。あなたのこと!」
「ええ! そうだったの」
村田は大袈裟に反応して見せる。
「そうだよー。だからほら、今日は私の分の部活の準備も済ませておいてね」
「任せて。そのへんの草原にでも置いとくから」
海岡は悲しみと驚きを混ぜた目で村田を見やる。
「そんなことしたら竹刀でぶっ叩いてあげる」
「それ、本気? 春花は一度も俺に勝ったことないでしょ」
「うるさい村田悠弥!」
ごめんごめん、と村田は言葉を返し、同じ剣道部に所属する海岡と話しながら教室へ向かった。ガラガラと戸を開けて、二人で席に着いた後も同じように会話をする。
海岡は村田から目を離さない。村田は海岡に返答しながら、ホームルームまでの時間を淡々とこなした。
「悠弥、いつもの試合形式で稽古つけてよ」
六時間授業を終えた後の部活中、竹刀の素振りをしている村田に海岡は声をかけた。
「いいよ、今日はどっちが勝つだろうね」
基本的に、村田は他人に対して無感動だ。だが海岡にはある程度良い評価をしており、一目置いている。勉強ができるわけでも、部内で一番の成績を収められているわけでも、さらに手先が器用なわけでもない。だがひたすらに努力し、自分の弱さや欠点を受け入れ高みを目指そうとする姿に好印象を抱いていた。さらに「稽古つけてよ」と下手から出られる部分はむしろ好いていた。
だからなのか、海岡とする練習だけは他の部員とするそれとは違うものが含まれていた。
「今日こそ私が勝つよ」
どこからともなく、旗を持った審判を務める人間が三人やってきた。主審が一人に、副審が二人。剣道における試合審判原則に完全に則っている。
三十人はいる部員たちが、我先にと二人の練習を見るため集まってくる。大抵の人間にとってその対戦カードはベストバウトにあたるからだ。
二人は蹲踞の姿勢で互いの視線を喰らい合う。もはや、存在すら抹消せんとするほどの気迫で、目に宿る闘志をぶつけた。大昔に存在した、純然たる刀での死合のような空気が辺りを支配した。他の部員は皆固唾を飲む。村田と海岡は試合の時、必ず本物の剣豪になった。
審判の息を吸う音が、村田には聞こえた。
「はじめ!」
審判の声が場を切り裂いた。
二人は同時に素早く立ち上がり、あらゆる動きに対応するため、全神経を身体に接続させる。足先から髪の先に至るまで、全てに接続させる。身体が僅かに震える。肌で相手の思考を読み取るため、空気に自身の魂を溶かす。互いに、観衆からは知覚しえない動きを観測する。
試合開始の合図から数十秒、村田は海岡の微かな動きを見逃さなかった。道場の壁に設置されているデジタル時計の秒針が動く前に、突進する。
村田は、人間が反応を遅らせるタイミングの一つを理解していた。身体が反応を示した直後である。また同じように海岡もそれを理解しており、自身の隙を突かれる間際であることも──つまり今際の際であることを──同様に理解していた。そのために海岡も村田の動きに対応しようと無理やり身体を動かす。背中を何者かに引っ張られているかのような感覚を味わいながら、袴を激しく震わせる。
二人の叫び声が道場を震わせる。腹の底から発され、声は混合した。混声は空の青を飛び越えたその先、遥か遠くにまで達していた。そしてそれを一点に収束させるように、重々しい音が鳴り響いた。
音がしたのは海岡の防具からだった。
「勝負あり!」
と審判は宣言する。同時に開始線で相中段に構え、審判の合図で蹲踞の姿勢を取る。納刀の後に立礼位置まで後退し、礼を終えた。
一連の流れを終えるまで、二人の剣豪の目から闘志が抜けることはなかった。
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