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名残雪

作者: Kazuki


此処はいつ来ても寒い。

気温が低いというより空気に水分が多く、肌が湿るような寒さ。

冬は砕いた氷が宙に舞うような肌を切る寒さで、それを溶かすように温かい息は白い煙へと変わる。


どこか物憂げな青年は厚手のコートに革の手袋、アタッシュケースを携えて、喉を凍らせては白い息を吐いて廊下を進む。

此処は使われなくなって久しい廃墟。廊下の塗装は剥がれ、どこから入ったのかゴミや落ち葉、壁から剥落した薄い塗装が散っている。

がさがさ、ぱりぱりと何かを踏み散らしながら窓から差し込む星明かりに導かれる様に歩を進める。此処へ訪れるのは久しぶりであった。だからこそ不安と期待が入り交じる。──まだ彼女はいるのだろうか。

荒れ果てた廃墟の一室、そこに彼女はいた。

窓の前に置かれた椅子に座り、入り口には背を向けて夜空を見上げながら足をパタパタさせている。足音に気づいた彼女は振り返ると椅子から立ち上がった。

「もー、おそいよー」

拗ねたような口ぶりと裏腹に、窓越しにチラつく雪を背に彼女は嬉しそうに駆け寄り青年を見上げた。

「うん、遅くなった。ごめんね、夏姉」

「まぁ? 私はおねぇちゃんだし? 雪君よりえらいからゆるしてあげる」

「うん、夏姉えらいえらい」

「そーでしょー?」

室内の寒さに対して薄着の彼女は、暖かい笑顔を浮かべて青年の手を取ると特等席に戻り空を見上げた。青年は初めて彼女と会った時も空を見上げていた事を思い出し頬を綻ばせる。

「雪君、お仕事はどーお?」

「まぁまぁかな。なんとなく大変で、なんとなく楽しんでる」

「うんうん、がんばっててえらいえらい」

「……夏姉はどう?」

「いつもどおりだよー」

「うん、変わらないね」

夏姫綾音はあの頃から変わらない。一人だけ、あの日から時を止めている。だが不思議な事に記憶だけは保持し続け、今日まで存在していた。雪原葵にとって、それは嬉しくも悲しい事であった。

「ほら、今日はおつきさまもまぁるいよー」

「そうだね、今日も丸いね」

灯りの無い荒廃した建物の一室を覗き込む猫目石。此処では何時でも真ん丸な瞳をしており、部屋を覗き込んでいる。

「ねぇ、夏姉」

「なーに?」

「辛くない?」

「なんでー?」

「……ここに、一人で」

「えー、だって雪君きてくれるし。それに──」

──ここから見える空が好きなの。

彼女は一度も青年を見ることなく、夜空に目を奪われていた。その横顔は姉を名乗る割には幼く、青年の子供と言っても疑われることがない容姿。月明かりを浴びる彼女の瞳は今も昔も輝いている。青年が恋した少女は今も色褪せることがない。今でも青年は夜空に夢中な彼女に恋をしていた。子供の時の淡い恋心、素直になれない気持ち。それらを理解して整理できるまでに青年は成長していた。それでも尚、彼女に対する恋心は特別なもので、かけがえの無いものである事を青年は自覚している。

「今日はなんできたの?」

「……うん」

覚悟を決めたはずなのに躊躇いが生まれた。答えなければいけない、このままではいけない。青年は唇の端を強く噛む。彼女の陶器のように白い肌が月明かりに照らされて仄蒼白い。覚悟を決めるために感情を落ち着かせていた青年の目に、彼女の青い瞳が写り込んだ。月明かりを吸い込んだ小さな双眸は、思い悩む青年の心を裂いていく。

「どうしたの?」

その記憶に違わない無邪気さが、青年を躊躇わせ惑わせる。今日は、今日こそはと青年はいつも覚悟を決めて此処へ来るが、いつも彼女を前にすると躊躇い、動けなくなった。

「……夏姉に会いたくなったんだよ」

「もー、雪君は甘えん坊だなぁ」

彼女の小さく冷たい両手が青年の手を取り、握りしめる。

「よしよし、おねぇちゃんがいるからねー」

──あぁ、駄目だ。やっぱり駄目だ。

年甲斐もなく顔が崩れ、涙が頬を伝う。いつもそうだ、どれだけ覚悟を持っても彼女の優しさが簡単に粉砕していく。彼女はいつだって優しい、ただ此処にいるだけの空が好きな無害な少女なのだ。そんな彼女はいつだって青年の覚悟を宥め、柔らかく無邪気な笑顔で青年を満たしていく。

「もー、いっつも泣くよねー。お仕事つらいの?」「っ……、違うよ。そうじゃないんだ」

「ほんとー?」

手を掴んでいた彼女の両手が青年の頬へと触れた。その温度差が、どれだけ青年の体温が高くなっていたのかを物語る。

「雪君、おっきくなっても甘えん坊で泣き虫さんなんだね。おねぇちゃんが守ってあげるから泣かなくていいんだよー?」

どこまでも純粋な彼女の言葉に嘘はない。大人になった今でも彼女を守れない青年は自身の不甲斐なさと、守られているという安堵感が混じる感情を瞳から流し続けていた。

「前から思ってたんだけど、それなぁに?」

彼女は青年の持つアタッシュケースに目を向けると青年の手から取り上げた。

「持ってきてるってことは見てもいいよねー?」

「あ、夏姉。それは……」

感情の処理を優先する青年の脳は体への伝達を疎かにした。止めるまもなく彼女はアタッシュケースを開く。中には本やら札やら、彼女には何に使うかもわからない道具が詰め込まれていた。

「……仕事で使ってるんだ」

「ふぅん、いっつも仕事帰りにきてるの? 」

「……うん、今はちょっと遠くに住んでるから」

「だからいっつも夜にくるんだね。おつかれさまー」

月を照らすような笑顔が滲んた視界に映った。見慣れた笑顔はぼやけた輪郭を補正して、正しく処理をする。同時に感情も落ち着き始め、青年は口を開いた。

「ねぇ、夏姉」

「なーにー?」

「……今日は帰るよ」

「うん、わかったよ」

開いたアタッシュケースを閉じ直し、青年に渡す。

「じゃあ、またね。雪君」

「うん、またね。夏姉」

「次はクリスマスに来てねー。プレゼント待ってるからねー」

尻尾のように振る手を見て諦めた笑顔を浮かべた青年は、彼女に手を振り返すと来た道を戻る。見送った彼女はその背中を見て微笑んでいた。

「優しいなぁ、雪君は」

彼女は特等席に座り直し、白い線がチラつく夜空を見上げる。

荒廃した部屋には静かな鼻歌が響いていた。



青年が建物から出ると見知った顔が淡い雨の中、熱い息を吐いて立っていた。

「いい加減にしなよ」

後を付けられていた事に舌を打つが青年は声を無視して横を通り過ぎ──。

「私がやろうか」

反射的に伸びた腕は人影の首を掴んでいた。

「俺に関わるな」

低く威圧する言葉と物理的に締められる首から細い息を漏らしながら人影は嘲笑う。その周囲をチリチリと音を立て、火の粉が舞い始め白い雨を溶かし始めた。

「放せよ」

次第に火の粉は大きくなり、青年を掠めるように動き始める。それを目の端で捉えた後に、火の粉に照らし出された男を押しのけるように手を離した。

「ここに立ち入るな」

「人払いまでして。あんたの土地じゃないだろ?」

「黙れ」

「はん、引き摺ってんのか?」

「……」

「私達はただでさえ縛られてんだ。これ以上自分で自分を締めてつけて何がしたいんだ、あんた」

「お前には関係ない」

舞っている火の粉を無視して、吐き捨てた青年は振り返ることなく立ち去った。残された男、三ヶ峯拓人はスマホを操作して耳に当てる。

「……三ヶ峯です。雪原は例の所にいました。どうしましょうか」

しばし会話の後に、スマホをポケットに仕舞うと白い息を吐く。

「……はぁ、めんどくさ」

三ヶ峯は人払いのされた廃墟を見上げた。白い雨に混じっていた火の粉は重力に従い消える。組織は雪原を手放すつもりのない事がはっきりした。万年人手不足な事を考えれば仕方がないが、雪原だけを特別扱いするつもりもないのは先程の会話の節々から察する事が出来た。

「やるなら私、舞台はここ」

上はそういうシナリオを作るだろう。準備だけは必要だと判断した三ヶ峯は溜息をつくと廃墟から去っていった。


──まったくもって悪趣味だ。

三ヶ峯は悪態をつきながら積もった雪の上を歩く。街灯の乏しい道は足跡すら見えない。ちらちらと降る粉雪は見えない足跡を隠し、三ヶ峯を白く染める。予想した通り、舞台役者に選出された三ヶ峯は舞台へと向かい歩を進めていた。

今日は12月24日、世間で言うクリスマスイブである。もちろん自分も幼い時には楽しみにしたものだ。どこも賑やかで明るく、街中には幸せそうな人で溢れている。それらを通り過ぎて三ヶ峯は廃墟へと向かっていた。

「まったくもって悪趣味だ」

再度悪態をつくが足は止めない。元より休みなどない仕事だが、だからといって故意的にここを空けるのは性根が腐っているとしか言えない采配であった。何故もっと早く、何故数日ずらす事をしないのか。──いや、人外を相手にする組織の運営をするような奴等だ。人間としての情などないのだろう。舞台に辿り着いた三ヶ峯は深々と降る雪の中、煙草に火を付けてスマホを見た。時刻は日を跨ぐところである。気の進まない足は重く、思った以上に遅い到着であった。

「……10分だけ待つか」

まぁ、遅い登場は主人公の特権か。

自嘲気味に鼻を鳴らした三ヶ峯は白い雨の中、空に登る煙を見上げていた。



「夏姉、似合ってるよ」

「ほんとー? やったぁ」

夏姫綾音は雪原からもらったマフラーを首に巻き、御満悦な表情で星空を見上げていた。

「もぅちゃんと覚えてるなんて雪君さすがー」

「何にしようか結構悩んだんだよ」

「んふー、そんなに私のこと考えてたのー? 雪君、私のこと好きすぎー」

彼女は満更でもない様子で首に巻いたマフラーを両手で口元へ持ち上げ、目を細める。ただでさえ寒い室内で寒そうな彼女には暖色を身に着けてもらいたかった。明るさの抑えられたオレンジ色のマフラーを巻いた彼女は特等席に座ったまま体を左右に揺らして鼻歌を歌う。

「ごめんね、私もなにかあげたかったんだけど」

「気にしないでいいよ。僕は夏姉に会えれば嬉しいから」

「ふふ、今日も良い天気だねー」

そういった彼女に促され窓から空を見上げる。

瞬く星と猫目石。月明かりに照らされながら降り積もる雪。空から落ちる光の欠片は世界を仄かに輝かせながら堆積する。その景色を夏姫と共有する雪原は彼女が一瞬だけブレた事に気づけない。

「……うん、良い天気だね」

「ねー、雪君」

「何?」

「手、出して」

促されるまま差し出した手を彼女は握り、引き寄せ、腕を抱きしめる。彼女の冷たさが肌に伝わり、胸が痛くなった。

「暖かいね」

「……そうだね」

手が冷たい人は心が暖かいという話があるが、それを踏まえると夏姉が暖かいのは納得ができた。逆に言えば自分は冷たい人間なのを理解させられているようで、また胸が痛む。抱きつかれた腕に頭を寄せる彼女に心を奪われていた雪原は、不意の異常に気づき入り口を振り返っていた。その先には誰もいない。だが、視覚以上の感覚は来た道を遡り建物の入り口を出た先で原因を見つけた。人払いの結界を壊したのは三ヶ峯拓人であった。

「夏姉、ちょっと……」

「やだ」

夏姉にしては珍しくわがままを言い、腕を抱く力を強めた。それは明確な意志の表れで、自分を見上げる彼女の瞳が行かないでと主張する。その意思に折れた雪原は白い星空を見上げながら意識だけは三ヶ峯に向けていた。

「ねぇ、雪君。私ね、雪君にプレゼントお願いしたけどサンタさんには違うお願いしたの」

「何お願いしたの?」

「んとね、プレゼントはいらないから雪君と──」

誰もいないはずの廊下から、がさがさとした音が届き夏姫は言葉を区切り、不安そうに眉を寄せた。その弱々しい彼女が抱いている腕を優しく解くと、雪原は夏姫を背に廊下の方を向いた。次第に近くなる音は無遠慮に室内に入り、立ち止まる。

「よぉ」

「出ていけ」

「わかってんだろ。時間だ」

「知るかよ」

三ヶ峯は煙草を取り出すと火を付けて咥える。深く行きを吸い、吐き出した煙は寒さで吐く息よりも明らかに白い。

「わがまま言うなよ、今まで見逃されてたんだ。充分だろ?」

「帰れ」

夏姫は現状を理解しつつも声を出せずに、自身の後ろにいる雪原の袖を握った。

「上からだ、逆らえないのはわかるだろ?」

「関係ない」

「……わからない奴だな、あんた。ここであんたが始末をつけないなら、私が始末をつける。そう言ってるんだよ」

「……調子に乗るなよ」

雪原が不快そうに言葉を吐き捨てると明らかに室温が下がった。室内、廊下に散ったゴミの水分が凝結してギシギシと音を立てたあと、パキパキと割れ始めた。

「特別扱いされて浮かれてんのか?」

加えた煙草が呼気に応じて先を赤く明滅させる。凍り始めていた空間は三ヶ峯の言葉に溶かされるように熱を帯び、凝結した部分が今度は水滴として床を濡らしていく。

「私も馬鹿じゃない。きちんとあんたの為に下準備くらいしているさ。選べよ」

ここで死ぬか、そいつを──。言葉を待たずに煙草の熱は奪われ、凍りつく。

「……もったいねぇなぁ」

「これ以上踏み込むな」

夏姫を庇うように雪原は片腕を後ろへ伸ばし、もう片腕を三ヶ峯へと伸ばす。凍りついた煙草を口から離すと、床に捨て慣れた動作で踏み潰した。

「そうかい、わかったよ」

踏み潰した煙草がチリチリと煙が上がり始め、室温が上がっていく。

「雪君……」

「大丈夫、今度こそ僕が守るから」

足元から立ち上る火の粉が室内を赤く染め、夏姫の白い肌を照らす。明かりは強く、目が乾いていくのを雪原は感じていた。

「触れるし知性や記憶があるってのは、話には聞いてたけどやべぇな。あんた、自分のやってること理解してんのか」

「……うるさい」

「話になんねぇな。仕方ない、私がやろう」

言葉を終えると共に廊下から熱風が吹き込んでくる。

その熱波は明らかに冬の風ではなく、コートを着た雪原を焼いていく。だが、雪原が腕を横に凪ぐだけで熱波は見えない壁に遮られた。

「夏姉、俺の後ろから動かないで」

「……うん」

「今まで見過ごされて来たんだ。潮時だと諦めろ」

足元から逆巻く火の粉は火の渦となり三ヶ峯を覆い隠した後に、紅い炎が象るように顕現する。

──蒼炎狐。

完全燃焼する炎が青くなるように、非実在存在を完全に焼滅させる事で蒼い炎へと変貌する。それは確実に彼女を消滅させる為の術であり、雪原も過去に一度見た事があるだけの切り札と呼べるものであった。三ヶ峯は新しい煙草を咥えると蒼炎狐の体で火を付けると白い煙を吐く。

「早くしろ。守りたいんだろ」

表情の読めない三ヶ峯は雪原の背後を見据えて動かない。

「──あぁ、そうだ。俺は夏姉を、夏姫綾音を守る為に此処にいるんだ」

熱波から自身を守る不可視の冷気は音を立てながら凝固して砕けた。砕けた破片は室内を満たし、蒼炎狐の炎が破片に反射され室内が煌めく。その煌めきを収束させた雪原の隣には、煌めきを内包した水晶が顕現した。

「雪細工だったか。そうか、元がいたんだな」

雪原の隣には淡く煌めく人形の水晶体が佇んでいた。背格好、髪の長さや輪郭から、それは雪原の後ろにいる彼女と相似している。

「夏姉、ちょっとごめんね」

後ろ手に彼女の髪をすくい上げ一本だけ切ると、それを水晶体に同化させた。和装に見える水晶体はギチギチと音を立てながらも淀みない動作で袂から閉じた扇子を取り出す。

「あんたとは本気でやってみたかったんだ。守りきってみろよ」

蒼炎狐が大きく空気を吸い込んだ。突発的な負圧に耐えられず、背後の窓が割れ空気が流れ込む。それと同時に小さな衝撃が雪原の背にぶつかった。陽炎の立ち上る蒼炎狐の口腔から音もなく吐き出された炎の塊は、広くない室内を容易に飲み込み視界を赤く染める。炎が吐出されるよりも早く動いていた雪細工は雪原の前に立っており、扇子を開くと下へ扇いだ。床に叩きつけられた冷気は迫る炎を吹き飛ばし、隅に追いやられた炎を凍らせる。

「あんだよ、前に見たのは手抜きかよ」

口角を歪ませた三ヶ峯は加えていた煙草を床に捨てると躊躇うことなく踏み潰した。タイミングを合わせるように蒼炎狐が二回り大きくなり、体から滴り落ちる炎が床を焼いては宙に浮く。後ろの窓から流れ込む空気が焦げ臭さを緩和した。蒼炎狐に備える雪細工を視界に収めつつ、雪原は窓際に置いていたアタッシュケースを回収し再度夏姫の壁となる。アタッシュケースを持ったまま開き、中から数枚の札を取り出すと床に落とした。

「仕事道具を私用で使うとか横領だぞ」

「本気でやるんだろう」

「あぁ、そうだ。手段なんて選ばなくていい」

嬉しそうに吐き捨てた三ヶ峯も懐から煙草の箱を取り出した。煙草を咥え火を付けると濃い煙を吐く。煙は消えることなく、蒼炎狐の熱気に巻き込まれ天井付近に滞留した。

「──オンバザラヤキシャ、ウン」

「──フッテイソンシタランヂ」

互いの真言と陀羅尼が交差し、力を持つ言葉に共鳴した札と煙草は真価を発揮する。天井に滞留した煙は雨のように滴り落ち、室内を包み込んだ。手に持つ札を天井へ放ると障壁を作り雨から夏姫を守る。陣地を形成した二人は一歩前に出た。雪細工は軋みながらも扇子を口元へ優雅に運び、蒼炎狐は四肢に力を込めて体を低く落とし攻める準備を整える。示し合わせた合図などない。三ヶ峯が更に一歩踏み出す事で睨み合う均衡は崩れ去った。蒼炎狐が四肢の力を開放し飛び出すのに合わせ、雪細工は重力を感じさせない加速で迎え撃つ。扇子は蒼炎狐の右前足を断ち切ると切断面を凍らせ、灼熱の牙は右腕を噛み砕き破断面を溶かした。

「──ウンタキウンジャク」

「──ノウボボギャバテイ」

雪原も一歩踏み出す。操り人形が糸を引かれるような慣性を無視した立体機動を体現する雪細工の右腕は既に再生しており、その姿を捉えている蒼炎狐も再生している腕を鞭のように振るい、雪細工を天井へと打ち付けた。その隙に駆け出した雪原は三ヶ峯の眼前へと大きく踏み込み体を沈め、鳩尾を狙い掌底を繰り出す。咥え煙草の紫煙が三ヶ峯の動きに追従して円を描き、低い体制になっている雪原の頭めがけて膝を打つ。相殺するように肘を合わせ、打ち合った勢いを削がずに左足を起点に回ると足払いを放つが、三ヶ峯は一歩分後ろに飛んでやり過ごす。態勢を立て直していない隙を見逃すことはなく、蒼炎狐が雪原の肩に飛び掛かると牙を立てた。

「──タレイロキャハラチビシュダヤ」

呪術を織り込まれたコートは蒼炎狐の牙を無効化する。抑え込まれた雪原を無視した雪細工は、ヒビの入った体のまま、天井から三ヶ峯を強襲する。目の端で捉えていた三ヶ峯は振り下ろされる扇子に対して、咥えていた煙草を中指と人差し指で掴むと上に持ち上げた。

「──オンクロダノウウンジャク」

たったそれだけの動作、力なく持ち上げられた煙草の先端で扇子を受け止める。雪細工に視線を投げていた三ヶ峯の死角で蒼炎狐が弱体化しているのを感じ取り振り返ると、雪原はコートを介して蒼炎狐を殴り飛ばしていた。

「便利なコートだな」

「俺の札より上等な煙草だ」

「たけーぞ、特注品だ」

雪細工が距離を取ると持ち上げていた煙草を改めて咥え直す。

「ただ欲を言えば味が悪い。後味が悪い」

三ヶ峯の視線を追うと、札で守っていたはずの夏姫が床に倒れ込んでいた。

「雪姉っ!!」

雪原は無意識に叫んでいた。叫んだはずの声がどこか遠い。周囲の情報が遮断されていき、夏姫の元へ行くという意思以外の動作は誰かが動かしているような他人事のように感じられた。

三ヶ峯が煙草を吐き捨てると踏み潰した。同時に蒼炎狐は消え、滞留していた煙の雨も風に溶けていった。がしゃりと雪細工が砕ける音が戦いの終わりを告げていた。


駆け寄った雪原は息を飲む。倒れている夏姫の両足が消えていた。処理が遅れる脳は思考をまとめられない。何故足が消えているのか、札が作用していなかったのか。いや、そんな事より──。

「夏姉、大丈夫? 聞こえる?」

「……うん」

小さな体を抱き上げ、表情を確認する。力こそ無いが普段と変わらずの表情を彼女は浮かべていた。

蒼炎狐が消えたせいで、壊れた窓から星明りと共に流れ込んだ空気が室温を下げていく。だが雪原は室温が暖かく感じるほどの冷や汗を流していた。床のゴミがチリチリと僅かに燃える以外室内に明かりはない。

「何で呼ばなかったんだよ……」

「だって雪君が守ってくれるって。邪魔しちゃ駄目だなって……」

「邪魔なんて、そんな……。そんなこと思う訳ないだろ」

「もぅ、また泣きそうになって。もう帰るの?」

「帰らないよ……」

的外れな彼女の言葉は気温以上に温度差を感じさせ、こんな状態でも気丈な彼女に雪原は堪えられずに一筋の涙を流していた。それは彼女が信じてくれた自分を裏切る結果になった事に対する不甲斐なさであった。

「ほんと? 明日は仕事じゃないの?」

「うん、休みなんだ……」

「やったぁ、じゃあまだ一緒にいられるね」

「うん、いられるよ」

抱き上げた彼女をそのまま抱きしめる。本当であれば冷たいはずの彼女が暖かい。もう彼女の足は戻らない、それ以前に彼女の体が持たないことを雪原は理解しており嗚咽が漏れた。自身の横に頭を寄せて泣く雪原に、夏姫は力のこもらない手を持ち上げて優しく撫でる。

「やっぱり泣き虫さんだね」

小さく笑う彼女はオレンジのマフラーで口元を隠した。

「雪君、暖かいね」

「うん、暖かいよ」

「あは、幸せだなぁ」

彼女は猫のように雪原の首筋に顔をすり付ける。慰めるようなくすぐったさに雪原は顔を離す。

「また泣いてる。いっつも泣きそうな顔できて、泣いて帰るよね」

「……ごめん」

「私と会うの、つらい?」

「そんな訳ないだろ、俺は……」

「俺は?」

泣き顔の雪原と対象に夏姫は柔らかい笑顔を浮かべていた。歯切れの悪い言葉を促す彼女は瞳に星明かりを映し出し、仄蒼い湖面には情けない顔をした雪原を反射する。蒼い光を内包する湖面に溺れるように視線を外すことが出来ない。

「俺は、その……」

「雪君が俺って言うのなんか変な感じだね」

「あぁ、夏姉と話してると昔の癖で僕って……」

「変な感じだけど、男の子っぽくて格好いいと思うな」

丸かった湖面を細く変えた彼女は意地悪そうに微笑む。

「それで俺は、なに?」

「俺は……」

これが最後の機会に違いない。

今も彼女は消えていく一方で、もう幾ばくもなく消滅する。気持ちの整理もとうについていた。足りなかったのは覚悟だけ。その足りない覚悟は取り返しのない状況にいたって漸く喉元まであがってきた。

「……俺は昔から、今も……夏姉が好きなんだ。だから」

覚悟を決めた言葉とは思えない弱い言葉が口からこぼれ落ちた。滴る言葉は未練を隠さずに糸を引く。

「だから消えないでよ……」

「……んふ」

オレンジのマフラーに隠された口元から嬉しそうな息が漏れた。

「頑張った甲斐があったなぁ。ずるくてごめんね?」

「夏姉?」

「でも雪君も悪いんだからね、いつまでも私のこと待たせるんだから」

頭に置かれていた手は滑り落ち、細い両腕を雪原の首に回すと力無く抱き寄せる。マフラーを挟んだ耳元で夏姫は小さな口を動かした。

「ねぇ、雪君。私も雪君のこと昔も今も大好きだよ。だから今日は本当に幸せだったの。好きな人にプレゼントもらって、守ってもらって、格好いいところ見せてもらって、こうやって抱き合えて」

冷たいはずの彼女の鼻先が耳を撫でるように触れ、耳に熱を感じた。

「だからごめんね。私は雪君に忘れられたくないの。これからも大事にしてもらいたいの。私は幸せなままで、雪君の特別にいつまでも居座りたいの」

「……雪姉、わざと」

札の外に出たのかを聞こうとして言葉を飲み込む。それを今聞いたところで何かが変わるわけでもない。ただ気恥ずかしそうな笑い声が耳元で聞こえた。

「私のこと忘れないよね?」

「こんな事しなくたって……」

「駄目だなぁ、女の子はいつも不安なんだから。雪君に忘れられないために頑張ったんだよ」

声が次第にか細くなる。言葉を聞き逃さないために雪原は彼女だけに意識を集中する。

「もし忘れたら夢にでちゃうからね」

「……うん」

ぺしぺしと頭を叩かれ、腕の力を弱めた彼女から少し離れた。その隙間を埋めるようにマフラー越しに柔らかい感触が触れ、マフラーだけが腕に横たわっていた。消えた彼女の最後の表情が網膜に焼き付き、マフラーの感触が彼女を幻視させる。記憶を寄る辺とした存在しない彼女が暖かい。後ろでカチリと機械音がした。

「なぁ、これからどうすんだ。素直に戻る気か?」

無粋な言葉を投げかける三ヶ峯をよそにマフラーを握りしめ、思い出の中へ消えた彼女の特等席に腰をかけ、壊された窓から夜空を見上げる。

「私は指示なら従うが、指示がなければ好きにするつもりだ」

彼女が消えても夜空は何も変わらない。いや、いつの間にか空は曇っており星明かりは届かない。あぁ、星空の好きだった彼女が居なくなったのだ。きっともう、ここで星空を見ることはないだろうと雪原は漠然と理解する。

「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ねって言葉もあるが、どう思う」

「何が言いたいんだ」

「煙草の後味が悪い。口直しが欲しいんだよ」

「罪滅ぼしか」

「現状に罪の意識はないな。それでも仕事の内容によって煙草の味は変わる。特注品がここまでまずいのは初めてだ」

「……俺にも吸わせろ」

三ヶ峯は雪原に歩み寄り煙草を一本取り出すとライターと共に差し出した。めったに煙草を吸わない雪原に煙草の味なんてわからない。ただ今は気持ちを切り替えるきっかけが欲しかった。喪失感を埋めるように深く息を吸い、肺を煙で満たしていく。くすんだ煙は雪原の感情を曇らせた。彼女の消えた夜空も同じ気持ちなんだろうと、煙を吐き出す。

「頭がクラクラする」

「強いからな」

「……まずいな」

気持ちを落ち着かせるように呟くと、もう一度煙草に口を付ける。だが深く吸うことはなく、咥えてふかすだけに留めた。煙草で曇った思考は晴れることはない。雪原はくすんだ瞳で三ヶ峯を見上げた。

「遅かれ早かれ、こうなるのはわかっていた。この結果に対して怒りはない。ただただ自分の不甲斐なさが腹立たしい」

「幸せだって言ってただろ。その腹立たしさは違うところに向ければいい」

「……本当に煙草の味が変わるのか」

「変わるね。気分よく仕事をした後の一服は格別だ」

「そうか、話に乗ろう」

「くくっ、あんたは私に似てるよ」

すでに吸いきった煙草を吐き捨てて踏みつぶしながら、新しい煙草を口にして予備のライターを取り出して火をつけた。

「近いうちに連絡する。もう一本やるよ」

三ヶ峯は押しつけるように煙草を渡すと部屋から出ていった。

「夏姉……」

ぽつりと呟いた言葉が胸を締め付けた。

もうここに来ることはない、彼女はここにいない。彼女の居場所は僕の中にある。忘れると彼女は夢にでるらしい。忘れるのも悪くない。

「愛してるよ、雪姉」

たったこれだけを言えずに何年が経ったのか。我ながら情けない。吸いきった煙草を捨て、もう一本を咥えて煙草をふかす。何気なく見上げていた曇り空の切れ間から覗いた猫目石は白い涙を零していた。


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