心の弱さ、頼もしさ
私は心の弱い人間だ。
クレハが勘当され、家を追い出されたあの日から、きっと私は心のどこかでそう思っていた。目の前に絶望捜査官という存在自体が歪んでいると気づくチャンスが転がっていながら、それをみすみす見逃した。クレハの代わりに私は天満の本家の跡取りとなり、常に父からの期待を受けて育った。それゆえに、時に厳格すぎる指導を受けることもあった。私は常に父の操り人形であり、父の言うことはほとんど絶対だと信じて疑わなかった。
だがそれは、私自身が絶望に堕ちたことである程度改善されたはずだった。クレハと行動を共にするようになってから、私はたくさんの絶望捜査官に接してきた。誰もかれも、自ら望んでその道を選んだ人ばかりだった。暗雲立ち込めるこの現代を人間が生き抜いていくためには、そもそも人間が絶望を抱えないようにするための仕組みが必要だと、本気で訴える人ばかりだった。たとえそれが、暴力と残酷性の極致であったとしても。そんな人たちを外から見つめ直すことで、改めて今までの自分が間違っていたことを知り、そして犯した罪を償い、心が折れても立ち直ろうと踏ん張っていい世界を作らなければならないと決意した。それなのに。
「ああ……あ……」
ユウゴロウが指を鳴らしたのを合図に現れた絶望捜査官の女性二人。片方は誰か分からなかった。しかしもう片方は、巽ユノその人だった。
おかしい。私が絶望に堕ちるきっかけとなったあの女は、あの時死んだのだ。私を助けに来てくれたクレハに一刀両断されて絶命したはずなのだ。極度の空腹状態で、過酷な拷問を受けていて意識がもうろうとしていたとはいえ、この目ではっきりと見たのだから間違いない。だからこの女は偽物。偽物なのだから、何も恐れる必要はない。そのはずなのに。
「……っ」
ついには腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。どうして。腕が動かない。目の前の名前も知らない女が、巽ユノその人にしか見えない。あの時に死んでいなかったのだ、と頭の中に確かにあったはずの事実が歪められてゆく。視線が定まらない。戦わなければならないのに、身体は今にも動こうとしているのに。精神が、私の弱い精神がそうさせてくれない。
どこを見ていいのか分からない視界には、クレハが映っていた。私はさらに混乱する。クレハも、巽ユノとは違う女性を見て、激しく動揺していた。私のようにへたり込んでこそいなかったものの、手は震え、持っている銃はとても人を撃てる代物には見えなかった。クレハも、その女性に見覚えがあるということか。そして手が止まり、何もできなくなってしまうほどに過去の記憶を思い起こさせる存在なのか。
「(私は……姉さんが失踪していた二十年間、何をしていたのか……知らない)」
聞けなかったし、わざわざ尋ねて聞き出す必要もないと思っていた。クレハは幼い頃に勘当され家を出て、旅をしていた。そしておよそ二十年の月日が流れて、絶望に堕ちた者と絶望を刈る者として再会を果たした。それが事実としてあるだけだ。ただ、何があってあの姉が絶望に堕ちたのか。それは、今隣に使用人のいないクレハ自身を見れば、容易に想像がつく。
「ヤヨイ……」
「……!」
「できない……アタシには、できない……アタシには、この女を、殺せない……」
クレハはいつでも冷静だ。凄惨な状況を見ても動揺を見せないし、怒ることもない。私に対しては前向きな表情を見せようと努力してくれているようだが、逆に言えばそれ以外でクレハが見せるのは「無」。何にも動じないが、何も感じない。それは人生で最も時間経過を遅く感じる時期に、想像を絶するような経験をしてきたからだと、勝手に考えていた。実際それは、大方正しいだろう。
「そうだろう、当たり前だよなあ。お前たちが一番、忘れられねえ女の顔を、ここに再現してやったんだからなあ?」
「……!?」
「なに、こいつらの顔なんざ安いもんだ。今やお前らは国民の敵だ。それがこの顔二つで動揺し崩れるってんなら、使わねえわけにはいかねえよなあ?」
そのためだけに、この二人は顔をいじられた。絶望捜査官という職に就いたばかりに、大きな個性を潰された。自ら望んだか、あるいはユウゴロウに強制されたか。いずれにせよ、はらわたが煮えくり返る。それなのに、この手足は一向に動こうとしない。思うように動いてくれない。戦闘を拒否していた。
こういう時、クレハは心強い私の支えになってくれる。かつて殺すのはおろか、絶望捜査官たちに傷をつけることさえままならなかった私をかばい、常に前に出て導いてくれた。その経験を何度も経て初めて、私は今の自分たちの行いがある程度の犠牲を伴い、血が流れて然るべきものだと思い知った。ここまで悪化してしまったこの国は、もはや平和的な手段では元に戻せない。立ち向かってくる者たちを力でねじ伏せ、自らもそうされる覚悟を持たなければならない。今の私なら、自分の口でそう言える。
「殺っちまえ。無力化したこいつらほど、格好の餌はねえからよ」
「「御意」」
二人が私たちに銃を向け、何のためらいもなく引き金を引く。かつて私が絶望捜査官であった頃、絶望に堕ちた者を見下し殺すための道具であったそれが、今自分に向けられている。あの時諦めた表情をしていた男も。命乞いをしてきた女も。今際の際、一番の笑顔を浮かべ死を受け入れた男も。みなこんな気持ちだったのかと、私は初めて知る。絶対的な力の差がある相手を前にすると、こうなるのかと。
ならばせめて、笑顔でいよう。死後に後悔することのないように。たとえ生まれ変わったとしても、この瞬間の選択を、記憶を思い出さなくていいように。目をつぶり、そして考えうる限りの笑顔を。
「……止まれ」
私の前に、影が立つ。
その少女の姿は小さく、私に覆い被さるには不十分だ。だが堂々たるたたずまいは、私に考え直させるのに十分すぎた。
「……!!」
次の瞬間には、二人の絶望捜査官は腕を撃ち抜かれ、銃を落としていた。