プロローグ
「……ここは」
少女は一人、つぶやく。いつもなら周囲の状況把握にはそう時間を要しない、聡い彼女だが、今回ばかりは戸惑っていた。
先ほど、雪深い東京の街を訪れ、人類が滅んでしまったのを見届けた。その後一度彼女たちの世界に戻り、改めて別の世界へ渡ろうとしたところまではよかった。が、いざ移動してみると、隣に相棒がいない。相棒とは、また別の世界からやってきた、イユという名前の少女のことだ。
「イユの気配は感じられない……別々の世界に、飛んだか」
そう認識して、初めての事態に驚き戸惑っていた、ということもある。これまで並行世界に向かう時はいつも二人セットで、移動した瞬間は隣どうしにいた。それがおらず、辺りを見渡してもいない時点で、何か予想していなかった事態が起きていることは彼女にはすぐに分かった。とはいえ、並行世界に移動する装置を作ったのもまた彼女だから、予想していたバグであるとも言える。
「あまりすぐに帰ると装置に負担がかかるから、できればやりたくないところだが……」
並行世界への移動を可能にする装置は、移動する人間の存在そのものを『魂』と定義し、その半分を元の世界に残した状態で、移動先へ残りの半分を移すというものだ。だから行った先の世界で負傷することはあっても、死にはしない。だが現状、残す側と移す側の『魂』を分ける作業に装置のシステムの大部分を割いている。また分けたばかりは『魂』が不安定になることもあって、維持するために時間をしばらく要する。
「……バグを起こしたということは、予期せぬ世界に飛んだという可能性もあるか」
さらにまだ装置は開発途上ということもあって、近い選択肢を選んだ世界との間でしか移動はできない。近い選択肢、と言っても解釈は人によるが、少なくとも例えば、過去に起きたある戦争で特定の国がどの立場で戦ったか、という選択肢の違いは、その後の世界の未来に大きな影響を及ぼす。国や世界の歴史の話をした時に噛み合わないような世界とは、今のところ移動ができない仕様になっている。もちろん、これから様々な並行世界を旅し、それぞれに流れる思いを知り未来へとつないでいくことを続ける限りは、その仕様も改良しなければならない。
「……あまり楽観視できるような世界ではないな」
彼女の視界に映る景色は、みなどこか薄暗かった。空は曇天とは少し毛色の違う鈍色だし、立ち並ぶ建物が作る影も年季が入ってのそれとは到底思えなかった。そしてすれ違う人は、誰しもが何かに怯えているような表情を浮かべていた。それも、見慣れないだろう服装をした彼女を見て、というわけではなさそうだった。普段なら近くの店にでも入って、少しでもやってきた世界の状況を知ろうと聞き込みをするところだったが、それさえはばかられた。偶然近くにあった、個人商店の肉屋の店主の顔がひどくやつれていて、話しかけてくれるなとさえ思える雰囲気を醸し出していたからだ。
「ここまで未来の見通せない世界は、さすがに初めてだ……」
いくつかの並行世界を見てきた彼女が、そうぼやく。もちろん未来とは、そう簡単に見通せるものではない。彼女自身も、これまでの世界で未来をはっきりとその目で見てきたとか、未来を見通せる力があるとか、そういうわけではない。例えば世界の平和を脅かす敵が倒されたなら、みんなが笑顔で明日を迎えられるだろう。その程度の見通しだ。しかし今彼女がいる世界に関しては、そんな簡単な未来さえ見えなかった。
「……ここは、長くなりそうだな」
その瞬間。銃声が響いた。一発ではなく、何発も立て続けに。それを合図に、あちこちから発砲の音が響く。一瞬の間に銃撃戦が始まった。
「絶望塗れのバカがのさばってんじゃねえ! さっさと銃を捨てやがれ!」
「ふざけんじゃねえ、丸腰で戦えってのか!」
「戦うんじゃねえ、死ぬんだよここで!」
彼女は一般人で、格闘技のような生身で戦えるような術は身につけていない。ゆえに飛び道具による争いが始まった時には、真っ先に逃げることを考えなければならない。最初の銃声がとどろいた瞬間に彼女はそのことを認識し、建物の陰に逃げ込んだ。そして背後に誰もいないことを確認してから騒ぎの方をのぞくと、銃を構えた男数人の集団がにらみ合っていた。片方は何日着ているかも分からないような、よれよれの服。もう片方はその昔あったという世界大戦でよく見られたような軍服。彼女の世界の法を通して見れば、銃を所持した強盗か何かが警察官に抵抗している様子だ。しかしその一般人らしき男たちが、犯罪を犯す、あるいは犯したような人間であるとは到底思えなかった。もちろん見た目で判断することは往々にして危険を伴うが、そのリスクを計算に入れてもなお、彼女の知る法では説明できないことが起こっていると言えた。
「あれは警察官による治安維持か? それとも軍人による罪なき人の虐殺か……?」
「虐殺や、あれは」
「……っ!?」
全く気づかなかった。彼女の背後にはいつの間にか、同じ軍服を着た男が立っていた。さっき背後を確かめた時のあれは幻覚だったのかと疑う。何も感じなかった自分自身に悪寒がした。
「……おっと、そんな身構えんでええやんか。確かにあのあんちゃんらは悪い連中やけども、俺を同類と思ってもろたら困るんよな」
「……どうやら、話ができるタイプの軍人のようだな」
「それ世界中の大多数の軍人に失礼やからやめときな? 俺相手やからええけども」
「……私をどうする気だ」
「どうもせんよ。ただ、ここにおったら危ないでって話」
「やはりあの男たちは、一般人を狙っているのか」
「そうそう。お姉ちゃんもうかつに顔出したら撃たれるで」
「……私は何もしていないぞ」
「何もしてなくても撃たれ殺されすんのが、この街なんやな。悲しいことに」
「……じゃあどうすればいいんだ」
「逃げる。一般人のお姉ちゃんができるのは、それ一択や」
そう言うと優男らしい彼は、彼女の手を引いて走り出す。ひとまず騒乱から遠ざかり、建物の中に入る算段のようだった。男はこの街に詳しいのか、すぐにその作戦は成功し、二人はより安全な場所へたどり着くことができた。
「お姉ちゃん、これ持っとき」
「『これ』って……拳銃をそう簡単に、一般人に渡していいのか?」
「構へんよ。むしろ女子供は銃の一丁や二丁持っとかんと、なぶり殺されるだけやで」
「……物騒な街だな」
「物騒なんはこの街だけやないで。……そろそろ日本全体が、物騒になってきてる」
「……ほう」
「これも何かの縁やし、自己紹介しとこか。そっちからどうぞ」
「……庵郷凛紗。歳は二十というところだ」
「俺は神目リョウヤ。お姉ちゃんとは仲良くやれそうや、な?」
「……今のところ、私はあまりいい印象を持てていないのだが」
「ま、それもしゃあないか。でもこの街に来たからには、一人でやっていくのは不可能やで。お姉ちゃんがどっから来たかは知らんけど」
「私はこことは別の世界から来た。有り体に言えば、並行世界というやつだ」
「はあ。それでちょっと独特な雰囲気出とったんや」
「案外すんなりと受け入れるんだな」
神目という名のその男は、彼女が不思議そうに聞き返すとニヤリと笑ってみせた。その真意は、すぐに分かった。
「ま、俺らの住んでるこの世界も、『絶望捜査官』……なんつう、ファンタジーも大概にせえってな感じの職業があるからな」
この時、過酷な宿命を背負った二人の女はまだ、再会も果たしていなかった。闇に堕ちた姉と出会い、通じたことで受けた苛烈な拷問の末、自身も絶望に包まれた、天満の名を持つ女。育った世界も別なこの絶望捜査官と少女の二人と、姉妹が出会うのはしばらく後のことになる――