リリーエリカとハルジオン⑤
神殿の待合室は大勢の子どもを連れた者達で、ごった返していた。待合室の至るところで子ども達の騒ぐ声と子ども達を宥め落ち着かせようとする大人達の声が聞こえ、待合室の中を駆け回る子どもと子どもを後から追いかけて怪我がないように見守る大人達や、椅子によじ登る子ども達と椅子から落ちないように傍に着いて見守る大人達がいて、ドタバタと慌ただしく、とても騒々しかった。
孤児院の職員は来客達の邪魔にならない場所はないかと待合室を見渡し、ハルジオンを待合室の窓際の椅子に座らせると何も言わずに立ち去っていった。ハルジオンがただの子どもならば、職員はハルジオンに付き添っていたか、誰それが来るからここで待つようにとの声をかけただろう。だがハルジオンは歩けない上に人の言葉もわからないフリをしていたから、職員はハルジオンには付き添いも声掛けも不要だと判断したのだろうことがハルジオンにはわかっていた。
騒々しい待合室に一人、捨て置かれたハルジオンは待合室を出ていく職員を目で追いかけるのを装いながら、サッと視線を巡らせ、いつもの監視者がいるかどうかを確かめた。だが待合室には監視者はいない。窓にも視線をやるが、そこにも監視者の姿は見当たらなかった。ハルジオンは監視がいないなんて珍しいこともあるものだと一瞬思うも、暫くして、それもそうかと思い直し、小さくため息をついた。
神殿の関係者以外が神殿の待合室に入るには、受付でお布施を納めた後に名前と神殿に来た目的を告げなければならない。お布施はともかくとして、監視者達が名前を残すような間抜けたことはしないだろう。それに神殿の待合室にある窓は大きいが、そこから見える場所には監視者が身を隠せるのに適した木々も建物もない。それらを考慮した監視者は神殿の出入り口で待ち伏せするのを選んだのだろうとハルジオンは思った。
どうせ彼らは今頃、ハルジオンがここに連れてこられた理由も何かしらの方法で知り得ていることだろう。そしてハルジオンが喜んだ以上に彼らの雇い主はそれを喜んでいるに違いない。何故なら彼らの雇い主の目的はハルジオンがあの家に戻らないようにすることなのだ。その方法に生死は問わないらしく、最初彼らはハルジオンを暗殺しようと付け狙っていたのだ。
ハルジオンの亡き母が機転を利かせたことで彼らは甘んじて監視者になっているが、長期に渡る監視に彼らの雇い主は苛立ち、焦れているはずだ。でもハルジオンが国外に出ていってマウントラル国の者で無くなってしまえば、彼らの雇い主の憂いは取り払われる。ハルジオンは彼らの雇い主は今回のハルジオンの養子縁組の話に手出しはしてこないだろうと思ったので、監視者を目で探すのを一旦は止めて、ドドンゴ神官がやってくるのを待つことにした。
ハルジオンが自身を神様の愛し子だと偽っていたのは、ハルジオンの命を狙う者が差し向けた追っ手から逃れるためだった。このマウントラル国では神様の愛し子を殺すことは、普通の殺人罪よりも罪が重いと昔から法律で決められていて、何らかの事情で神様の愛し子が育てられない場合は、神殿が保護するようにと定められていたため、長い逃亡生活の末に病に倒れ、自分の余命がないことを悟った母親が、ハルジオンにこれからは人の話す言葉がわからず、歩けない者のように装えと念押しして、ハルジオンを神様の愛し子だと偽って神殿に保護を頼み、そのまま息を引き取った。
ハルジオンが神様の愛し子として孤児院に入って以降、追っ手が命を狙ってくることはなくなったが、監視の目は常にあったので、その後もハルジオンは常に気を抜けない生活を強いられて、心が休まる日はなかった。それに何よりも辛かったのはハルジオンが人の言葉を理解できないと信じて、孤児院や神殿の人間がハルジオンの世話をしながら、ハルジオンを貶め、辱めるような心無い言葉をぶつけてくることだった。
ハルジオンは子どもだったが、孤児院や神殿の大人達の普段の会話から、彼らが金策に走り回り疲弊していることは知っていた。だから本来なら女神ハハの慈愛の精神を実践したいはずの彼らが、心の余裕を無くしてしまい、人々に慈愛の感情を持てないことを時折、悔い悲しんでいることも何となくだが察することも出来ていた。
でも、だからといって食事や入浴や排泄等の身の回りの世話をするのが面倒だからという理由で、孤児達が空腹で腹が鳴ったり、衣服を汚したり、排泄をするのが恥ずべきことであるかのように顔をしかめ、言葉で責め辱める彼らを許すことは出来なかった。ハルジオンの心は他の孤児達や神様の愛し子達と同じようにズタズタに傷ついていき、どうしてこんなことを言われなければならないのかと悔しさと情けなさで腹が立って仕方なかった。
一体、ここにいる自分や子ども達が何をしたというのだろうか?どうしてこんな辱めを受けてまで生きないといけないのだろうか?孤児になったのも神様の愛し子に生まれたのも子ども達のせいではないと言うのに。これが女神ハハが課した運命だと言うのなら、こんな恥辱を子どもに与える者が信仰する神なんて、ろくな神ではないし、そんな神を崇める国なんて無くなってしまえばいい!
ハルジオンはそもそも自分が命を狙われる原因となった女神ハハを好いてはいなかったが、自分をこんな状況に追いやったマウントラル国全体を嫌うようになっていたので、一刻も早く養子縁組が決まればいいと思っていた。
待合室に連れてこられて、どれくらいの時間が経っただろうか?一向に現れないドドンゴ神官に苛立ちながら、相変わらず賑やかな待合室にハルジオンはうんざりしていた。喉の乾きを覚えて視線をやれば、神殿の下女や下男達が待合室に訪れる来客達にひっきりなしに水分補給のお茶を給仕して回っていたが、孤児で神様の愛し子を装っている自分の元にはやってこようとはしないようだったので、ハルジオンはガッカリしつつも、いつものことだったので出来るだけ喉が渇かないようにしようと思い、唇を噛み締めた。
どうやら今日は神殿で初等学び舎に入る前の事前健康診断が行われるようで、待合室にやってきた子連れが神殿の者に順番に呼ばれて入れ替わりに出入りしていく様子を眺めていたハルジオンは、それにしても貴族の子どもというのは、どの子も痩せた孤児達とは違った体つきをしていて、煩くて行儀が悪い子ばかりなのだな……と呆れ果てた。
もしも金髪碧眼にさえ生まれてこなければ、自分もああなっていたのだろうか?とハルジオンは窓に視線をやった。そこに映るハルジオンの姿は華奢で、待合室にいる子達とは似ても似つかない程、貧弱な体をしている。この体つきのおかげで、ハルジオンの出自を知られぬように本当の年齢を母が誤魔化して申請したことに、孤児院や神殿の者達は今だ誰も気がついていない。
それに加え、今朝は孤児院の職員がハルジオンの体を磨き上げたことで、いつもは絡まったまま放置されていた長い金髪は流れる金糸のような輝きを放っているし、ずっと部屋に押し込められている手足は日焼けすることもなく白いままなので、おしめ交換の手間を省くために男女兼用で作られる紺色のワンピースを着れば、周囲の者達には母親に似た顔で生まれたハルジオンは少女にしか見えないだろう。
これでは金髪碧眼でなかったとしても、あの家の当主が溺愛した母に似た顔に生まれついたハルジオンをあの家の正妻はそのままにはしておかなかったに違いない。それに待合室にいる子達をよく見れば、ハルジオンに年が近い子も数名いるようだが、彼らの傍若無人ぶりは他にいる小さな子ども達をさらに悪化させたように酷い有様だったから、彼らのようにならなくて良かったとさえ思えた。
そんな中だった。突然、待合室の喧騒が一瞬、途切れた。
子ども達の大声も走り回る足音もピタリと止まり、待合室に静寂が広がる。大人と子どもらしき複数の足音が聞こえたかと思ったら、衣擦れの音がする。また子連れの来客が待合室に入ってきて、空いている席についたのだろう。やがて喧騒は戻ってきたが、そこに誰かの羨望を含んだため息まじりの称賛の声があちこちから聞こえだした。
ハルジオンは何事かと思ったが、自分は人の言葉がわからないふりをしている身。誰が見ているかわからない状況で、称賛の元となる何かを探すわけにはいかない。そこで窓に映っていないかと再び、窓に意識を集中させたハルジオンは、窓際に映る子どもの姿を見つけた途端、我を忘れて後ろに振り向き、そちらを見てしまった。
『やっと会えた』
どうして、そう思ったのだろう?ハルジオン自身にも訳がわからない。だけどハルジオンは初対面のリリーエリカを見て、そう思ってしまった。




