不憫なジャミラン
梅雨が終わった7月中旬のある日、ジャミランは馬車の中でふてくされていた。というのも、ジャミランは今年の夏も例年通りに友人達に誘われて、彼らの別荘を順繰りに泊まりに行って皆で遊ぶ約束をしていたというのにジャミランの両親は、その約束を断り、ジャミランに今夏は領地に行くように命じたからだ。
「何がジャミランは兄なのだから、最後の夏になるかもしれない不憫な妹の傍にいてあげなさい……だ!そんなに気の毒に思うなら、いつもの夏のように父上達が見舞いに行けばいいものを!約束を断ったことで僕の交友関係に支障が出たら、父上はどう責任を取ってくれるんだ!」
馬車の窓枠に肘をつき、その手に顎を乗せ、苛立たしげに言うジャミランを見て、向かい側に座っていた、ジャミランの護衛騎士のアントラーが口を開いた。
「出来ることなら旦那様と奥様だって、リリーエリカ様と一緒に最後までいたかったと私は思いますよ。私は一年前にオルフィ侯爵家に護衛騎士として雇われる前までは、地方の騎士団に所属していましたが、そこでも旦那様方がリリーエリカ様の魂を取り戻す方法を求めて何年も東奔西走しておられるという噂を耳にしていましたからね」
ある理由によって、オルフィ侯爵家は信仰心が厚いこの国の民にとって特別な貴族家であった。だからどんな田舎者だろうともオルフィ侯爵の名前を知らない者など皆無に近かったし、そして特別だからこそオルフィ侯爵の動向は常に皆の注目を引いていて、夫妻が娘の為に駆けずり回っているという噂も地方にまで伝わっていたのである。
アントラーに同意されたかったジャミランは、両親に理解を示そうとしているアントラーの言葉に眉をひそめた。アントラーは睨みつけるジャミランに構わず言葉を続けた。
「ここに勤めてから詳しい話を知ったのですが、リリーエリカ様の10歳の誕生日までに、リリーエリカ様の魂が神様の国から戻らなければ……リリーエリカ様が人の言葉を理解し、尚且ご自身も話せるようにならなければ、リリーエリカ様はオルフィ侯爵家の籍から除籍されて神殿に入れられることが決まっているのですよね。……それなら尚の事、旦那様方は今年の夏を娘と一緒に過ごしたかったはずですよ。だって今年はリリーエリカ様が10歳になられる年なのですから」
アントラーの両親が亡くなったのはアントラーの妹が生まれて直ぐのことだった。夫婦揃って流行り病で亡くなったのだが、彼らは最期の瞬間まで幼いアントラーや妹のことを心配していた。それを思い出したアントラーは、自分が仕える侯爵夫妻の心情に大いに共感したのだった。
「でも旦那様方はギリギリまで望みを捨てきれずに最後の賭けに出ることを決意された。だからこそジャミラン様にリリーエリカ様の傍にいてほしいと前もって何度も頼まれていたではないですか。それなのにそれを無視して、ご友人方と勝手に約束を入れたのはジャミラン様だ。……交友関係で支障が出るとしたら、それはご自分のせいだ」
毎年の夏の楽しみを邪魔された不憫なジャミランを慰めるどころか、自分が両親の言葉を無視したことを指摘してくるアントラーの棘を含んだ物言いが面白くなかったジャミランは機嫌がさらに悪くなり、悪態をついた。
「……フン!どうせアレは誰が傍にいてもわからないのだから、いつまでも領地に住まわせていないで、とっとと排斥して遠くの神殿にでも入れてしまえばいい!」
ジャミランの悪態を聞いたアントラーは険しい表情となった。
「何と酷い言い様を……。リリーエリカ様が赤子の頃に会ったきり、今まで会っていないと聞いていますが、それでも自分の妹であることに変わりはないというのに、どうして、そんなに冷たい物言いが出来るのですか?たった一人の妹をアレ呼ばわりし、排斥して神殿に入れろだなんて。……あの両親の子とは思えない非情さに反吐がでそうだが、あいつらと僅かに血が繋がっていると思えば、らしいと言えばらしいがな。……っと、失礼。こちらの話です。とにかく、ジャミラン様。そのような心無い言動は二度と口になされますな」
口うるさいが剣の腕は一流であるアントラーのことをジャミランは密かに慕っているのだが、自分の味方だと思っていたアントラーにまで咎められてしまったことでジャミランは拗ねてしまい、反省するどころか、すっかりとむくれ上がってしまった。
「フン!アントラーは煩いな!ここから出てけ!………あっ!」
ジャミランが余計な口を滑らせてしまったと思ったときには、既に時は遅しであった。ジャミランの言葉を聞いたアントラーは馬車の中の紐を引き、馬車を引く御者に馬車を止めさせると、さっさと馬車の扉を開けてしまった。
「ああ、良かった。お一人で乗るとやっと言ってくださいましたね。本来、護衛騎士は馬車の中まで同乗しません。ジャミラン様の無茶な命令で今まで仕方なくジャミラン様と同乗していましたが、私自身は職務を全うできないのが気詰まりだったので、そう言っていただけて、とても助かりました。流石はジャミラン様。秋からは学院に通う身ですし、いつまでも小さな子どものような駄々をこねてはいけないと気づかれたのですね。ああ、ジャミラン様がご自身で自覚されて本当に良かった。それでは私は今後は、ずっと御者席に移っていますので、ごゆるりと旅を楽しんでくださいませ」
無情にもジャミランのアントラーを引き留めようとした手を無視して、アントラーは素早く扉を閉じて前の御者席に移っていってしまった。正確な時間をジャミランは把握していないが、今日の宿までたどり着くのに後、数時間はかかると先の昼休憩のときにアントラーは言っていたのをジャミランは思い出した。
馬車に長時間乗ると酔ってしまうジャミランは、午後の時間も午前と同じようにアントラーに頼み込んで馬車に同乗してもらい、会話することで乗り越えようと考えていたのだが、自分の口が災いして一人ぼっちで馬車に揺られることとなってしまったので、思いっきりしかめっ面となった。
「……フン、だ!僕はなんて不憫なんだろう。僕は本当のことを言っただけなのに、あんな言い方は酷いよ。何さ、父上も母上もアントラーも、皆リリーエリカばかり気遣ってさ!リリーエリカはズルいよ!あ〜あ、早くリリーエリカが10歳にならないかなぁ。そしたら遠くの神殿に引き取ってもらえるのになぁ」
アントラーは御者席に移ってしまったから、ジャミランの悪態を止める者は誰一人いない。だから王都の屋敷で両親やアントラーと暮らし、将来は父親の跡を継ぎ、侯爵になることが約束されているジャミランと、夏の短い間しか両親に会えず、しかもリリーエリカが家族と離れて領地の屋敷で暮らさなければならない原因が改善しない限り、ジャミランの言う通りに10歳になったら神殿に引き取られてしまうリリーエリカでは、どちらがより不憫なのかを指摘する者も誰一人として馬車の中にはいなかった。
ずっと馬車に揺られるだけの退屈な時間をジャミランは、思いつく限りの悪口を言うことで酔うのを紛らわせることにしたのだが、結局何時間も悪口を言うほどジャミランはリリーエリカと関わったことがなかったから、途端に悪口のネタにつきてしまい、結局は乗り物酔いになって午後を最悪の状態で過ごすことになってしまった。
前日に乗り物酔いで散々な目に遭ったジャミランは、その次の日には、前日に何もなかったかのように振る舞ってアントラーに同乗するよう命じたが、アントラーは馬車を降りる前に言った昨日の言葉を繰り返し言って同乗を辞退し、その後も領地に着くまでジャミランとの同乗を辞退し続けた。
ジャミランは自分の乗り物酔いを防止するためとはいえ、自分の気に入っているアントラー以外の使用人と同乗するつもりはなかった。また、他の使用人達も乗り物酔いになって体調を崩したジャミランの世話をする羽目になるのが避けられたとしても、いけ好かない我儘なお坊ちゃんと同乗して、要らぬ怒りをうっかり買ったり、自分の心をすり減らしたくなかったから、誰もジャミランと同乗をしようとは思わなかった。
その為、ジャミランは領地に着くまでの間、ずっと乗り物酔いで苦しむこととなった。ただでさえ行きたくなかったのに、気に入っていたアントラーには冷たくされ、連日の乗り物酔いで体調が悪くなったジャミランは、更に腹の虫が収まらなくなり、日を追うごとに怒りをどこかにぶつけたくてたまらなくなった。
なので領地の屋敷について早々、領地の屋敷を管理しているだろう老人に手を引かれ、出迎えに来た諸悪の根源である自分の妹を初めて見たジャミランは、妹が自分を歓迎するどころか誰なのかがわかっていない様子なのにムカつき、無性に苛立っていたのもあって、衝動的に屋敷の玄関の傍にいたカエルを掴み、妹に向かって投げつけたのだった。
後々、その時の自分の行為を何度も後悔することになるなんて考えもせずに……。
※リリーエリカとジャミランの年齢を変更しました。