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駄菓子屋のあの娘

作者: 大門瑚花

太陽の熱が、陸の青白い頬を真っ赤に染めていく。額を拭うと、腕にじっとりと汗が付いた。

陸は、駄菓子屋、はま屋に急いでいた。はま屋は、年老いた夫婦が経営している小さな駄菓子屋で、陸の数少ない憩いの場所だ。ここは、陸の家から遠く、山沿いの場所にあるため、小学生はまず居ない。それに、今はもうお目に掛かれないような駄菓子がたくさん売っており、友達の居ない陸にとっては、最高の遊び場だ。

はま屋の赤いベンチの隣に、自転車を止める。ふと、ベンチを見ると、今日は先客が居た。青いノースリーブのワンピースに、ビーチサンダルを履いた、髪の長い少女。歳は、大体陸と、同じくらいだろう。少女に、自分の定位置を取られたような気分になり、陸は少しだけ、悔しさを感じた。

少女は、俯いたまま足をぶらぶらさせていた。その様子は、酷く物憂げで、陸の存在など、気がついていないようだ。陸は、しばらく少女を見つめていたが、少女があまりにも物悲しい雰囲気を醸し出すので、憐れに思い、何か話しかけてやろうと思った。しかし、陸は、極度の人見知りだ。学校に友達が居ないのも、この性格のせいだろう。

とりあえず、駄菓子屋でアイスでも買ってや

ろう。暑いので、きっと少女も喜んでくれる。今の陸には、そんな安易な考えしか思いつかなかった。陸には、人を楽しませられるような特技は無いし、相手の話を聞くのも得意ではない。今、この場で出来る事といったら、それしか無かったのだ。

「おばちゃん、こんにちは。」

「こんにちは、陸くん。今日は何が欲しいのかい?」

"おばちゃん"キエコさんの優しい声。陸は、"おばちゃん"の声を聞くと、何故だか安心する。

「うーん……バニラアイスを、二本ください。」

「あいよ!二本買うなんて珍しいね。誰かと食べるのかい?」

「いや……」

「うふふ。友達同士で食べると、いつもの二倍美味しいからね。楽しんで食べるのよ。」

"友達"という言葉を聞いて、陸は少し顔が熱くなるのを感じた。

おばちゃんはいつも察しが良いな、と、陸は思う。この前、陸が点数の悪いテストを隠していて、母親に大目玉を食らった時も、一瞬でその事を見抜いてしまったし、新学期の初めに、陸のクラスがトイレ掃除に当たっておらず、気分が高揚していた時も、図星だった。この人には、何か特殊な能力でもあるのではないかと思う時がある。

棒アイスを二つ持って、陸は少女の元へ駆ける。少女は、まだベンチでうつむいていた。声を掛けるなら、今がチャンスだ。陸の心臓は、陣太鼓の如く鳴り響く。

「あ、あのさ!」

やっと声をかけられた。ずっと下を向いてばかりだった少女が、ちらりと陸の方を向く。真っ白な肌に長い髪がよくなびく、とても美しい少女だ。

「アイス、一緒に食べない……?」

普段人と話さないせいか、声が震えてしまう。今、少女は突然声をかけた自分をどう思っているのか、気になってしまう。変なヤツ、気持ち悪い男だと思われただろうか。悪い想像ばかりが、陸を苦しめる。

「ご、ごめんよ。急に、その、声かけちゃって……」

有無を言わず、謝罪の言葉だけが口をついて出てくる。陸は、少女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。少女は、無表情で陸を見つめ続ける。もう駄目だ。陸がそう思った時だった。

「ありがとう!やった!あたし、アイス大好き!」

少女の顔が、みるみる笑顔になった。屈託の無い、子供らしい、輝くような笑顔。その笑顔に、陸は少しだけ救われたような気分になった。

少女は、とても幸せそうな表情で、バニラアイスを頬張った。一口、また一口と口に入れる度、嬉しそうに目を細め、白い足をばたつかせる。

「ねえ、あなた、よくここに来るの?」

少女がニコニコ笑いながら尋ねる。近くで見ると、より一層彼女が美しく見える。

「うん。面白いお菓子とか、いっぱいあるし。」

「へえ。ここの場所が好きなの?」

「まあね。嫌なことあったりとかすると、いつの間にか来てるって感じ。」

「いいなー。幸せになれる場所があるって。」

「幸せになれるって程じゃないけど。」

本当は何よりも幸せになれる場所だ。だが、相手が異性であるせいか、少し強がってしまう。このようなことは、陸にとっては初めての体験だ。

「私ね、幸せになれる場所探ししてたの。そしたら、この駄菓子屋さんあって。でも、毎日ずっと一人でつまんなくて、一日中ベンチに座ってた。そしたら、あなたが声かけてくれた。そしたら、なんか嬉しい気持ちになったよ!」

「えへへ。ありがとう。」

感謝されているのが、少しくすぐったく感じる。"ありがとう"なんて言われたのは、いつぶりだろう。自然と、口角が緩んでくる。

「僕も、君にそう言ってもらえて嬉しいよ。」

陸が少女に微笑みかけると、少女も陸に微笑みかける。友人との語り合い。陸が羨んでいたものそのものだ。学校では、陸に話しかける者は誰一人として居ない。小学校に入学してから五年間、本当の友達と言える人物とは、未だ会ったことが無いのだ。一年生の頃、いじめに遭ったのをきっかけに、陸はできるだけ、友達と関わらないようにして過ごしていた。陸にとって友達は、"関わりたくても関われないもの"だったのだ。

「あ、そう言えば、名前聞いてなかったね。私は彩。田辺彩。漢字一文字で、彩。よろしくね!!あなたは?なんて言うの?」

「僕は、陸。森内陸。君と同じ、一文字だよ。」

「陸、っていうんだ!かっこいい名前!」

彩、と名乗る少女は、何回も陸の名前を繰り返し呟いた。その、あどけない姿に、陸は自然と、穏やかな気持ちになった。

「ねぇ、私たち、友達になろうよ!」彩が、陸の手をしっかり握りしめる。「ずっと一人で居るより、二人でいた方が楽しいじゃん!」

"友達"陸はその言葉に、どきり、と、胸が高鳴った。ずっと望んでいた、"友達"の存在。それが、今目の前に居ることが、陸は信じられなかった。

「友達……?」

「そう!友達だよ~。」

「僕が……友達……」

「何言ってんの~。アイス一緒に食べたんだし、もう友達じゃん!」

陸は、自分に友達が居るなど、信じられなかった。ましてや、こんなに美人な少女が。今まで、女子はともかく、同性にもまともに話しかけられなかった自分が、こんなに美人な友達が居て良いのか、陸はまだ信じられなかった。

「その、良いの?僕が、友達で。」

「えー。良いに決まってんじゃん!私、陸と居ると、何だかとっても楽しい!」

「そっか。なら、友達だね……」

彩の明るい声に、陸は照れ臭くなる。顔が熱くなるのは、気温のせいだけではない。

「やったー!これからよろしくね!陸!」

「うん。」

陸は、請け合った。

それからは、陸と彩は、たわいもない話に花を咲かせていた。彩は、陸より一つ下の小学四年生だという。テストの最低点の話や、夏休みはどう過ごしているか、五年生になると勉強はどうなるのかなど、何故か彩と一緒だと、いくら話しても話題は途切れなかった。陸の話に、彩は大いに笑ってくれた。陸は、この時間がずっと続いてくれたら良いと思った。

楽しい時間はあっと言う間に過ぎた。辺りはすっかり夕暮れになっており、ひぐらしの高い声が、アブラゼミのだみ声に混じって聞こえる。はま屋の壁掛け時計を見ると、もう17時を指していた。

「あ、いけない、もうこんな時間だ。」

彩がすっくと立ち上がる。彼女の美しい顔が、一瞬曇ったように見えた。

「もう帰らないとね。」

「うん。陸、家はどこ?」

「三丁目だよ。」

「三丁目かあ。私は五丁目だから、途中まで一緒ね。よかった!」

彩の声が少し落ち着いたように感じた。夕日が、彼女の黒髪を美しく照らす。

「あのね、私、陸と友達になれて、すっごく嬉しかった。ありがとう、陸。だけど、このまま離れちゃうの、ちょっと寂しいな。」

よく見ると、彩が少し涙ぐんでいるのが分かった。陸は、自分が泣かせてしまったと思って、一瞬凍りついたが、気づいたら、彩の頭に、手を置いていた。

「彩、泣かないでよ。僕たちまた会えるでしょ?」

その拙い言葉が、彩に対しての自分が出来る唯一の慰めだった。ぽんぽんと彼女の頭を優しく叩いてやると、顔を上げて、歯を見せながら、笑いかけてくるので、陸も同じように笑いかけた。




その日から、陸は、駄菓子屋に通い、ほぼ毎日彩と会った。陸が行くと、いつもそこには彩の姿があり、二人で駄菓子を買って食べながら、色々な事を語り合う。それが日課になっていた。時には、彩が気に入っているという公園に行ったり、セミやアゲハチョウを捕まえたもした。陸は、彩に出会ってから、今まで灰色だった世界が、一瞬にして虹色になったような気分だった。

気がつくと、八月ももう中旬に差し掛かっていた。そろそろ、夏祭りが開催される時期だ。陸の住む地域では、毎年この時期になると、祭りの宣伝ポスターが、町の至る所に掲示される。陸の周りの小学生たちは、皆夏祭りに行って、かき氷を食べたり、射的をしたり、盆踊りを楽しんだりしていたが、友達の居ない陸は、祭りには行かず、家の二階から見える花火をぼんやりと眺める事しか出来なかった。だが、今は、彩という友達が居る。陸は、勇気を振り絞って、彩を祭りに誘った。

「ねえ、彩。今度の夏祭り、一緒に行かない?」

急に、彩の顔が暗くなった。真昼の太陽のような輝きが、一瞬にして夜の闇に包まれたようだった。陸は、何か彩の癪に触るような事でも言ってしまったのではないかと、不安な気持ちになった。

「ごめん、彩。」

「え?全然大丈夫よ。むしろ、あたしも夏祭り行く人居なかったから、誘ってくれてありがとう!えへへ。陸と夏祭りかあ。どうしよっかなー。浴衣着ていきたいなー!」

陸の声で、彩の顔には、笑顔が戻ったが、先程までのようなまばゆい程の輝きは無かった。まるで、仮面を貼り付けたかのような笑顔だ。

「彩、良いんだよ。嫌なら嫌って言って。」

「ええ!嫌なわけないじゃん。私、陸と夏祭り行きたいよ!」

真っ直ぐな目が、陸を見つめる。その、あまりにも透明な視線に、陸はついに堪忍した。

「ごめん。今のは忘れて。一緒に夏祭り行こう、彩。」

「嬉しい!ありがとう!」

彩の顔にまた、あの太陽のような笑顔が戻って来た。二人で浴衣を着ていこう、陸にはこんな色が似合うよ、などと、はしゃぐ彩は、またいつもの彩だ。しかし、陸は心の奥で、彩は何か隠しているのではと感じた。少し前、陸は彩の足に、青あざが出来ているのを見た。彩は、机の角にぶつけた時に出来たものだと言っていた。その時は気にしなかったが、あざは、彩の腕や、足の違う部位にも出来ている。

「ねえ、彩。」

「ん?どうしたの?」

陸の問に、小首を傾げる彩。その仕草は、美しい中にも、あどけなさを感じさせた。

「その、腕のあざって……」

「ああ、これのこと?私、ドジだから、色んな所にぶつけちゃってね。小さい頃から、身体中あざだらけ。うふふ。面白いよねえ。」

きゃはは、と彩は笑って見せる。陸も合わせて笑ってみるが、陸には、これは何か悪い事が起こっている予感がする。無邪気に遊ぶ彩の背中に、何か黒いものが見えるような気がして、陸はぶんぶんと頭を振った。






夏祭りの日、陸は彩と待ち合わせていたはま屋に急いだ。この日の為に、陸は浴衣を新調した。ねずみ色に、枯山水の模様が入った浴衣は、痩せ型の陸によく似合っていた。

珍しく、陸は彩よりも先にはま屋に着いた。はま屋の周りは、木が多いので、家の近所よりも幾分涼しく感じる。さわさわと木が風に揺れる音と、セミたちの合唱が、陸の心を落ち着かせた。

あれほどぎらぎらと輝いていた太陽が西に沈みかけ、町に夜の帳が降りて来る。それと共に、神社から祭りの音が聞こえて来る。司会をつとめる町内会長の挨拶が、町中に響き渡った。

彩はまだ来ない。はま屋の掛け時計を見ると、約束の時間はとっくに過ぎている。陸は不審に思った。彩は、あんなに祭りに行く事を楽しみにしていたのに、どうしたのだろうか。痺れを切らした陸は、彩の家へ走った。いつも、はま屋から帰る時、途中に彩の住むアパートがあるので、そこまで一緒に帰っていたから道は分かる。祭り会場は、大勢の人で賑わっていたが、陸はそんなものには目くれなかった。ただ、ひたすら真っ直ぐに、彩の家を目指す。

茶色い切妻屋根が見えた。ここが、彩の住むアパートだ。彩は、二階の角部屋、二〇四号室に住んでいる。彩は、彩は今何をしているのか、高鳴る胸を抑えて、二階へ続く階段を登ろうとした時だ。

「ごめんなさい、ごめんなさいお父さん。」

「うるせえな!このクソガキが。」

「ごめんなさい、申しませんから、夏祭りだけは行かせて……」

「黙れ!そこで浴衣脱げよ。」

しわがれた男の声と、必死に許しを乞う少女の声。少女の声には聞き覚えがあった。恐らく、この声は、彩のものだ。

悪い予感が当たった、と陸は思った。彩は、父親から虐待を受けていたのだ。あの青あざは、その時に出来たものだろう。

痛くても、太陽のような笑顔をいつも自分に向けてくれた彩。自分の生きる世界に、沢山の色を付けてくれた彩。そんな彩が、ここで苦しんでいる。陸は、やりきれない思いと同時に、こうして彩に暴力を振るう父親であろう人物に、怒りを覚えた。何とかして、彩をこの地獄から救い出してやろう、陸は決心した。

二〇四号室の中から、彩に対しての罵詈雑言は、ひっきりなしに聞こえて来る。その、あまりにも酷い言葉に、陸も泣き叫びたくなるほどだ。

「この薄汚ねえガキが!俺がちいっと目ぇ離した隙に色気付きやがって!」

「違うの、お父さん。私はただ、友達と……」

「生意気な口聞くんじゃねぇ!てめぇはただ、黙って俺の言う事聞いてりゃ良いんだよ!」

乾いた音が、幾度となく鳴る。父親が、彩を殴る音だ。

「やめて!やめてお父さん!これが終わったら、私、何でもするから!」

「喋るなぁっ!クソガキぃー!」

父親が彩を殴る音が一層激しくなった。それに耐えかねて、陸は、二〇四号室のドアに手を掛けた。鍵を閉めていないドアは、いとも簡単に開いた。その奥に見えた景色に、陸は絶望した。

泣き叫びながら、父に許しを乞う彩。水色の牡丹柄の浴衣に、ピンク色のポシェットを提げている。そして、彩の上に、馬乗りになって殴り続ける父親。余程激しく怒り散らしていたのか、父親の短髪は、乱れていた。

父親が、彩を殴るのをやめ、机の上にあった一升瓶を開け、がぶ飲みする。父親の目線が彩から、離れた。今だ。陸は、床にうつ伏せになって倒れている彩を抱き起こすと、彩を連れて脱兎の如く二〇四号室を出た。祭囃子が、うるさい程聞こえてくる。町は、既に夜の闇に包まれていた。そろそろ、祭りも盛り上がって来る頃だろう。陸は、祭囃子のする方に、彩の手を引いて、神社まで走った。

朱色の鳥居をくぐると、陸と彩はその場にへたり込む。蒸し暑い中全力で走ったせいか、浴衣は汗で濡れ、べとべとして気持ち悪かった。彩は、気崩れた浴衣を直していた。陸は、よろよろと立ち上がると、座り込んでいる彩を抱き起こした。

「彩、大丈夫?けがは、」

「大丈夫よ。それより、陸の方は?お父さんに、殴られたりしてないわよね?」

息を詰まらせながらも、彩は陸の心配をしていた。あれだけ酷い言葉を浴びせられ、父親から暴力を受けていたというのに。

「全然。お父さんの目を盗んで来たから。」

「そう。なら良かったわ。あー安心した。陸が痛い思いしなくて。」

彼女は、にっこりと笑っていたが、陸には作り笑顔だということが容易に分かった。彩の腕や脚には、あざが増えていた。それに加え、今日は頬までもが赤く腫れている。

「彩、ほっぺた冷やそ。殴られて痛いでしょ。」

「大丈夫よ。このくらい平気だって。」

彩はその場で跳ねたり、腕を動かしたりして元気だということを装った。

「大丈夫じゃないよ。そのまま放っておいたら、青くなっちゃうよ。」

「大丈夫だよ。痛くないもん。」

「痛いから言ってんの!」

陸は吐き捨てるように言うと、屋台へと向かった。丁度客の居なかったかき氷屋で、かき氷を一つ買うと、彩の元へ駆け、かき氷を彩の赤く晴れた頬に当てた。

「う、冷たい。」

「冷たいけど少し我慢して。ここで出来るのは、これしか無いけど。」

「もしかして陸、私のほっぺた冷やすために、このかき氷買ったの?」

図星だ。彩もなかなか察しが良い。陸は少しくすぐったくなった。

「まあ、ね。」

「もったいないわよ。いちごのシロップかかってて美味しそうじゃん。陸が食べれば良かったのに。」

「彩が心配だったんだ。」

「だから心配しなくて良いわよ。」

「心配するよ。さっきまであんなに泣き叫んでいたじゃないか。」

陸の言葉に、彩の白い顔が紅潮するのが分かった。自分の泣き声を、陸に聞かれて恥ずかしかったのだろう。

「別に……あれは……」

「ほら。泣いてたんじゃん。」

「そ、それほどでも…………あるか……」

いつもにましてやけに素直な彩が何だか可笑しくて、陸は思わず大声を上げて笑ってしまった。そんな陸を、彩が頬を膨らませて見る。

「ひどーい。人のこと笑うなんて。」

「あははは!何か今日の彩、面白いなって思ってさ。」

「何が面白いのよ。」

「いや、何でもいいでしょ。」

「ちょっとー!何でもって何!」

それからしばらく彩とおちょくり合った。彩は、うるさい、最低だの言っていたが、どことなく生き生きしているように見えた。陸も、ここまで笑ったのはしばらくぶりだった。それからは、彩と出店を回ったり打ち上げ花火を見たりした。

「ねえ陸?花火ってさ、すぐ消えちゃうけど、綺麗ですっごい華やかよね。」

陸は彩の方を見る。その顔は、少し寂しさを宿しているように見えた。

「うん。彩、どうしたの?」

「何か、友達との楽しい時間みたいね。」

「どういうこと?」

「楽しい時間はあっと言う間に過ぎちゃって、友達ともバイバイしなきゃならないじゃない?」

「また会えるじゃん。」

「その間に何かあって会えなくなっちゃったら?」

「物騒なこと言わないでよ。」

「ごめんごめん。例えばの話しよ。例えば、ね。」

彩はまた、花火に目線を戻すが、陸には何か胸騒ぎがした。もし、このまま帰って彩がまたあの暴力を受けたら。そしてそれによって彩が……いや、そんなことは無い。陸は自分に言い聞かせ、一つ咳払いをした。

ひときわ大きな花火が夜空に咲くと、周りの人だかりからどよめきが上がる。金色の、大輪の花。まるで彩のようだ。花火は、ばらばらと音を立てると、まるで何も無かったかのように消え、今度は赤や緑など、色とりどりの花火が連続で打ち上げられる。

この瞬間がずっと続けばいい。そう思える夜だった。





あの夜から、どれだけ経っただろう。夏休みはもう終わり、また学校が始まった。陸は、元のつまらない生活に戻っていた。決まった時間に登校し、授業を受け、給食を食べ、休み時間を過ごし、下校する。これの繰り返しだ。

はま屋に行っても、もう彩の姿は無かった。その様子を見る度、陸はあの夜自分の取った行動を悔いていた。あれは、丁度花火の打ち上げが終わった頃、運悪く彩の父親が現れた。父親は、陸と彩を見つけると、会場から離れた場所に無理矢理連れて行き、彩の浴衣を剥がし下着姿にすると、その場で彩を蹴り続けた。陸が止めに入ると、今度は陸の髪掴み、その場に投げつけ、殴り続けた。助けを求めたいが、恐怖と痛みで声が出ない。

「お父さん!やめて!お父さん!」

彩の必死の叫びが聞こえる。彩は、陸を助けようと父親に飛びかかるも、父親は「うるせえ」と叫び、彩を突き飛ばした。彩は強く地面に叩きつけられた。

再び、父親は陸を殴り続ける。「この、このクソガキ!」荒々しい声。父親の顔を見ると、目が怒りの炎でぎらぎらと燃えている。その目を見た瞬間、陸は自分の意識が遠くなっていくのを感じた。

「お父さん!お願いやめて!」

彩の叫びは父親には届いていないようだ。

「キエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」

父親が一際高く、狂気に満ちた叫び声を上げ、陸の顔に拳を食らわせた。それと同時に、陸も意識を手放した。


それから陸は、気が付くと病院のベッドの上に横たわっていた。無機質な天井に、薄緑色のカーテン。こぽこぽという酸素ボンベの音。自分の顔をぺたぺたと触ると、包帯を巻かれているのがよく分かった。

「陸……?陸、分かる?お母さんよ!」

母親の声が響き渡る。

「おかあ……さん……」

「陸!ああ、良かった……!」

母親は陸をありったけの力で抱き締める。その顔は、涙で濡れそぼり、一晩中陸の傍についていたのか、目の下には濃い隈があった。

「陸、あなた男に殴られて倒れている所を通りかかった人に発見されて、病院に運ばれたのよ。一時はどうなるかと思ったけど、もちなおして良かったわ……」

陸は、一瞬何がどうなったか分からなかったが、どうやらあの後、自分は意識不明になっていたようだ。あの大男に殴られ続けたら、そうなるに決まっている。まだぼうっとした頭で、あの男の顔を思い浮かべながら、陸はため息をひとつついた。

その一週間後、陸は退院し、現在に至るが、あの後、彩がどうなったのかは未だ分からないままだ。もし、あの父親の元へ帰っていたとしたら、今頃どんな仕打ちを受けているのか。考えただけでも身の毛がよだつ思いだ。

陸は、幾度か彩のアパートの前を通ったが、もう二〇四号室の方を見る気にはなれなかった。それどころか、アパートの前を通る時は、耳を塞ぎ目を固く閉じて通るようになっていた。

それから、陸は彩に関することに、一切目を向けないようにして過ごした。移動教室や休み時間の時も、四年生の教室の前は出来るだけ通らないようにし、彩と行った公園や空き地にも近付かなかった。勿論、彩と出会った駄菓子屋、はま屋にもぱったりと行かなくなった。

そうしていくうちに、陸の記憶からは、彩という少女は段々と姿を消して行った。青いワンピースを着た少女の顔は白い光の中に消え、やがて全身が見えなくなった。

陸は、彩のことを完全に忘れた。







季節はもう冬に差し掛かっていた。あれほど青々としていた木々は葉を落とし、龍のように力強くうねった枝が見えていた。

十二月の初めの頃のある日、陸は久しぶりにはま屋に足を運んだ。いつものように、自転車に飛び乗ると、晩秋の冷たい空気が陸の顔と両手を針のように刺した。

勿論、彩に会うためではない。今日は両親が留守で、陸は家に一人のため、何か暇つぶしに面白いお菓子でも買おう。そんな軽い気持ちだった。

はま屋のおばちゃんは、変わりなく陸を笑顔で迎え入れた。陸もそれに笑顔で応える。

今日は珍しく、おばちゃんと話し込んだ。色と味の変わるジュースの珍しい味の話から始まり、陸が算数のテストで百点を取った話、最近家で猫を飼い始めた話など、たわいもない話をした。三十分ほど話し込み、一番話が盛り上がってきたあたりの事だった。

「ねえ陸くん。あの後、彩ちゃん、あの子とはどうなったんだい?」

おばちゃんは満更でも無い様子で笑いかけて来る。彩……その名前に、陸は今年の夏にあった出来事が、記憶の彼方からうっすらと戻ってくるような気がした。

太陽の照りつける暑い夏の日、赤いベンチに座る、髪の長い少女の姿。昆虫を取りに、森へ入った時、ワンピースの裾をひらひらさせながら、息急きかける少女。そして、夏祭りの日、父親に向かって必死に何かを訴える……

「あ……」

陸は一瞬にして少女の姿を思い出した。陸の脳内に、太陽のような笑顔を浮かべる少女の顔が一瞬にして映し出される。

「彩……?彩!」

「ん?どうしたんだい陸くん。」

おばちゃんが不審そうに陸の顔を覗き込む。

「彩……彩が、どうかしたの?」

「どうかしたって……彩ちゃん、お父さんに虐待受けてたみたいでねぇ。夏祭りの日の事件がきっかけで、お父さん逮捕されちゃってね。身寄りが無くなるっていうんで、児童養護施設に入ったらしいね。元々、お父さんは外資系企業で働いてて、とっても優秀な人だったのよ。そこで、美人なお母さんと出会って結婚して、彩ちゃんが生まれて……だけど、お母さんががんで亡くなって以来、お父さん毎晩酒をあおるようになってね。丁度その辺から、彩ちゃんに対する虐待が始まったってわけ。全く、酷い話しよね。」

おばちゃんの話を聞いて、陸は急に、彩の身元が心配になった。心臓が早鐘をつくのが分かった。




その日の夜から、陸は彩の行方が心配で仕方が無かった。基本的に陸は、周りの人間に無関心だったので、ここまで彩の消息が気になるのが自分でも不思議に思うくらいだった。

一旦彩の事を考え始めると、その日一日中彩が頭から離れなかった。そのため、授業中も上の空、窓の外を眺めている事が多くなり、家に帰っては、以前彩と買った駄菓子の付録や、お互い住所を教えてやり取りした手紙を読み返したりしていた。

記憶の中の彩の姿を追う日々を続け、気が付けば冬休みに入り、俗世間はクリスマスムード一色となっていた。親からは、クリスマスプレゼントは何が欲しいか聞かれたが、陸はただ一言、「いらない」とだけ答えた。

クリスマスイブの朝、いつも通り父親から新聞を取ってくるよう頼まれた陸は、郵便受けを勢い良く開けた。中には今日の新聞と、薄い紫色の封筒が入っていた。宛名には妙に既視感のある丸い字で、『森内陸 様』と書いてあった。

陸宛てに郵便物が届く事など滅多にない。ましてや、手書きで。不審に思った陸は、封筒の後ろの差出人を確認した。


『大澤町玉が丘四丁目1-13-5千条総合病院630号室 田辺 彩』



紛れもなく、この手紙は彩からの手紙だ。陸は、また彩と繋がれた喜びに包まれると同時に、住所の欄に書いてあった"千条総合病院"

という文字に不安を感じた。この様子からいくと、彩は今、入院しているという事になる。彩に一体、何があったのだろう。事故にでも巻き込まれたのだろうか、はたまた、何かの病気なのだろうか。

陸は、その場で封筒を開けると、中の薄いピンク色の便箋を取り出して読み始めた。



『陸へ。

とつぜん手紙なんか書いてごめんね。でも、病院のベッドでぼーっとしてたら陸のことばっか考えちゃって。

私は今、病気で入院しています。児童ようごしせつに行ってから、ぐあいのわるい日が続いて、おかしいなーって思ってたら、わるい病気だったみたい。ほんとびっくりしたなあ。

病気のちりょうは、つらくて苦しいけど、また元気になれるように毎日がんばるよ。元気になったらまた陸とはま屋に行きたいし、昆虫さがしもしたい!あと、公園でも遊びたいし、夏祭りも!ああもう、陸としたいこと多すぎて書ききれないっ!私、絶対に元気になるから、来年またいっぱい遊ぼう!


彩より』



愛嬌のある文面と丸っこい字が、とても彩らしく、陸は思わず微笑んだ。と同時に、この愛らしい手紙から、何か悪い予感を感じ取った。もしも今日のうちに、彩が消えてしまったら。もう二度と会うことが出来なくなってしまったら……

陸は居ても立ってもいられなくなった。新聞を父親に届けると、陸は封筒を引っつかみ、自転車に飛び乗った。千条総合病院は、隣町にある大病院で、少し前に陸の祖母が入院していたということもあり、場所は分かる。記憶を手繰り寄せ、陸は自転車のスピードを上げた。

どうか、どうかこの予感が嘘であって欲しい。今あるこの不安が、杞憂に終わるように……陸は自転車をペダルを踏みながら必死に祈っていた。祈れば祈るほど、呼吸が苦しくなる。陸は一刻も早く、彩に会って大丈夫だという事を確かめたいと思った。

駐輪場に自転車を停めると、彩の病棟まで全速力で走る。途中車椅子に乗った老爺の怒鳴り声が耳を刺したが、陸はそんなことには目もくれずに、彩の入院している630号室を探し回った。

無我夢中で探し回り、やっと彩の入院している病棟を見つけた。六階の血液内科と心臓血管外科だ。エレベーターを降りると、つんとした消毒液の匂いが鼻をついた。

630号室は、ナースステーションのすぐ向かい側にあり、その扉は固く閉ざされていた。病室の前では、横結びの女性と、二十代前半であろうショートヘアの女性がしくしくと泣いていた。その様を見て、陸はすぐに何が起きているか理解した。病室の中からは、医師や看護師の声と、心電図のアラームがひっきりなしに聞こえる。

自分が一番恐れていた事態が、目の前で起こっていることに、陸は絶望した。あれだけ元気だった彩が。どんなに苦しくても、太陽のような笑顔を向けてくれた彩はもうここには居ない。それだけでも、陸にとっては信じ難い事だった。

「かわいそう。彩ちゃん、まだ10歳なのに……」

「加賀谷さん、取り乱してはだめよ。まだ彩ちゃんは亡くなったわけじゃないわ。」

「でも、こんなの酷すぎます……」

わっ、と泣き崩れるショートヘア女性を、横結びの女性が抱き締める。恐らく、彩の児童養護施設の職員だろう。加賀谷、と呼ばれた女性があまりにも泣くので、陸はいたたまれなくなった。

「あの、もし良かったら、ハンカチ、使いませんか?」陸は、持っていたキャラクターもののハンカチを、加賀屋に差し出した。

「あら、ありがとう。君、優しい子ね。」

加賀谷が涙混じりの声でにっこりと笑いかける。その目は泣き腫らしていた。

「僕、彩ちゃんの……友達の、森内陸といいます。こんにちは。」

陸は軽く自己紹介をすると、自分が初対面の人間とも、会話が出来るようになっていることに気がついた。この場になって、自分は彩の影響で少しだけ変わることができたと初めて分かった気がした。

「あら、あなた彩ちゃんのお友達?陸くん。あなたのことは、彩ちゃんからよく聞いていたわ。彩ちゃん、あなたのことになると、いつも嬉しそうに喋っていたわ。『陸はね、すっごく優しくて面白いし、一緒に居てほんとたのしー!』ってね。入院中も、あなたのことを話さない日は無かったわ。」

加賀谷はそう言うと、ハンカチ目に当てて、また泣き始めた。横結びの女性が、彼女の背中をさする。

「彩ちゃん、そうね……施設に来て一ヶ月くらいかしら。突然高熱が続いて、前からあった内出血も酷くなってきてね。どうもこれはおかしいって思って病院に行ったら、急性骨髄性白血病だって分かってね。見つかった時には、もう手の施しようが無かったみたいなの。そしたら、まさか……」

横結びの女性が、加賀谷の肩に顔を埋め泣き出した。陸はしばらくその様子を見ていたが、徐々に自分の目に涙が溜まっていくのを感じた。

彩。太陽のように眩しく、雪のように真っ白な少女。黒雲が立ち込めていた陸の心を、一瞬にして晴れにしてくれた。"ともだち"

普段あまり笑わない陸も、彩と居ると自然と笑顔になれた。陸にとっての光であり、そして人生で初めて"愛した女"

それなのに、自分は、彩の苦しみに気づいてやれなかった。虐待をされていたのは勿論、体調が悪いのにも、一切目をやれなかった。あの夏祭りの日以来、陸がわざと会っていなかったのにも関わらず、陸を思い続けてくれた彩。あの時、彩に会えていれば、痛みを聞いてやれば……後悔の念が陸を飲みこんだ。

陸は、全ての想いを吐き出すように、その場に崩れ落ちて泣き叫んだ。




その夜、陸は夢を見た。

陸は、彩と夏祭りに行くために、はま屋のベンチで横になり、彩を待っていた。

「陸!」遠くの方から、彩の声が聞こえる。

「早く!早く夏祭り行こうよ!ほら、もう始まるよ!」

紛れも無い、彩の声だった。陸は彩の姿を見ようと、勢いよく起き上がった。

「彩……?彩…………!」

彩の姿は見えない。しかし声は、陸のすぐ近くで聞こえる。

「ほら!陸!早く早くー!」

「彩……!彩…………!」

彩の名前を繰り返し呼ぶ陸の声は、迫る夕闇に飲み込まれてゆく。それと同時に、陸の意識は白い闇に消えていった。





仕事納めの日だと言うのに、大人たちは皆表情が暗い。皆いつもの覇気は無く、特に施設の子供たちは、まだ幼い仲間の死を受け入れられないのだろう。彩の遺体と対面した瞬間、大声で泣き出す者が多かった。

純白の棺の中で、彩は水色のドレスを着て、花束に囲まれて安らかに眠っていた。その顔には化粧が施されており、彩の美しい顔立ちをより一層引き立たせていた。

「彩ちゃん、本当に可愛い。お人形さんみたいね。」

涙でぐしゃぐしゃの顔を拭きながら、三つ編みの少女がつぶやく。陸も棺の中の彩を見た時、思わず見とれた。その容姿は、はま屋で初めて会った時のきらきら輝く彩そのものだった。

彩の葬儀は静かに、そして厳かに執り行われた。住職が読経をしている間、陸は彩の遺影をずっと見続けた。そこには陸の記憶にも少し幼い彩が、まばゆいほどの笑顔を浮かべて映っていた。あの虐待親父も、娘のこんな写真を残していたのだなと思い、陸は苦笑した。そして、焼香の順番が自分に回ってくると、陸は誰よりも長い時間合掌していた。

最後の対面となり、棺が空けられると子供たちは皆、彩の遺体にすがりついて泣いていた。陸も本当はそうしたい気持ちが強かったが、ぐっと堪えた。

「頑張ったね。辛かったでしょう。」陸のすぐ前の女性が彩の顔を撫でていた。

「本当にきれいな子。」ポニーテールの少女の涙混じりの声。

皆口々に、彩との思い出を話している。彩が初めて施設に来た時の話や、彩に似顔絵を書いてもらったという話、施設でケーキ作りをした時の話など、参列者達の話題は尽きない。話を聞いていても分かるが、彩はどんな時も周りを太陽のように照らしていたのだなと陸は思った。

やがて彩の棺は閉められ、霊柩車に乗せられる時がやってきた。五分刈りの少年が、一際大きな泣き声を上げる。その声の方を見ると遠くに、みすぼらしい格好をした中年の男が見えた。黒髪の短髪に無精髭。陸はこの男に見覚えがあった。あの時、陸と彩に暴行を加え、重傷を負わせたあの父親だ。その姿は弱々しく、その場で溶けて無くなってしまいそうだった。よく見ると、彩の父親は、陸の方を見て手招きをしている。それに気付いて陸は、彩の父親の元へ駆け寄って行った。

「俺ぁ、あんさんに謝らねぇといけねぇな。」

彩の父親は、陸の顔を見ると静かな声でそう言った。紺色のニット帽と、黄土色のジャンパーが、彩の父親をより弱々しく見せた。

「謝るって……」

「あんさんの前で、随分ひでぇ事をしちまったって訳さ。それに、俺ぁあんさんを病院送りにしちまった。本当申し訳ねぇ事したって思うとる。」

「そんな……もう大丈夫ですよ。」

「いいや。あんさんは大丈夫でも、俺が大丈夫じゃねぇから言ってるんだ。」

そう話す彩の父親の目には、透明な涙が光っていた。あの暴力的な男から出てくる清らかな雫に、陸は思わず息を飲んだ。

「俺には時間が無えんだ。俺、肝臓悪くしてな。今はムショの病院に入ってる。だけんど、彩が死んだっちゅう知らせが来てもう俺、気が動転しちまってよぉ。看守と看護師の目ぇ盗んで、彩の葬式来たんだ。まぁ言っちまえば、脱獄したっちゅう事になる。」

"脱獄"の二文字を耳にして、陸は戦慄したが、すぐにこの父親の気持ちが分かった。彼は、自分が生きているうちに、彩の顔を見たかったのだと思う。恐らく彼も、もう長くはない。

「だからよ。もう少ししたら、俺はまた、ムショに連れて行かれる。重病の脱獄犯だよ。ふはは。笑ってくれ。俺、多分、夕方のニュースになるぞ。違ぇ意味で、有名になんなこりゃ。」

彩の父親は、泣きながらうわ言のように呟き、ふらふらとどこかへ歩いて行った。多分、彼はこの先刑務所に連れ戻され、近いうちにその生涯を終えるのだと思うと、陸の目にも、自然と涙が溢れてきた。

降り続いた雨は、やがて雪となり地面を濡らし始める。その宝石のような結晶は、まるで彩の柔肌のように白く、また彩の笑顔のようにきらきらと輝いていた。それが合図であるように、霊柩車の汽笛が鈍色の空に響く。

真夏の太陽のような少女の最期は、真冬の雪に包まれたものになった。






そんな事から、何十年経ったことだろう。

陸は高校も大学も卒業し、今は二人の子供の立派な父親となった。

陸は、毎年この地域の夏祭りの主催者をしているのだという。元々、この地域は夏祭りは無かったのだが、陸の熱い思いと、地域の人々の力で、毎年開催されるようになった。

祭りは年々規模を拡大し、今では市内の行事で一番盛り上がるのだとか。

盆踊りのお囃子が響き渡る会場を見て、陸は言う。

「この祭りは、彩のために毎年開いてるんですよ。今も彩は、浴衣を着てはしゃいでると思いますよ。」

夜空には一際大きな花火が咲く。その向こうで、彩は大輪の花にも負けない笑顔で笑っていた。













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