3.呼ぶ資格
晴れた青空の終わりは、沈んでゆく太陽が残した赤いカーテンの消滅によって告げられる。夜空に横たわる紺碧と、ぽつりと浮かぶ丸い白い月がでてくると、空の天気は一気にあいまいなものになる。
静かなる夜の始まりに、ブレイハ伯爵家の長女が住まう部屋につながるバルコニーでは、部屋の主が手すりによりかかって歌を口ずさんでいた。
その歌は故郷を思う哀愁に満ち溢れた歌で、どこか物悲しくも温かみのある歌だった。
彼女の歌声は透明感のある美しいもので、音程もリズムも聞いていて心地よいものだった。
「さすがに歌では間延びしませんね」
答えを期待せずにレオはそうつぶやいたが、その歌声はぷっつりと途切れて、歌い手は小さく笑いながら言った。
「歌まで間延びしたらぁ、人間、だめになりそぉ」
「大丈夫ですよ。すでに片足突っ込んでます」
まったくフォローになっていない突っ込みを入れられて、彼女は困ったようにレオのほうを振り向いた。それと同時に長いドレスの裾がゆれ、彼女の耳飾りが大きく揺れた。
「ひどいわねえ……でもまあ、歌は好きよぉ」
「水呼びじゃなくてよかったですね」
水呼びは、歌を鍵として水を呼ぶことができる人だ。つまり歌を歌ってしまうと無条件に水を呼んでしまうので、その力が判明した段階で、親が子供にむやみに歌わないようにと教育する。焔呼びほどは危険ではないが、子供がコントロールを失うと、家の中で一日中雨が降り続けたりする。そのため親は初めて子供に歌わせるときはたいてい屋外を選ぶのだ。
「本当にね。おかげで歌えるわぁ」
レオは言葉にしたことはなかったが、自分の主がもっとも伯爵令嬢らしい瞬間は、歌を歌っているときだと思っていた。歌を歌っている時だけは、気品のある女性に見えた。ぼんやりとした表情で忘れられがちな整った顔も、生来の美しさをきちんと発揮できるからだろう。
「初めてお会いした時も、歌ってましたね」
「ああ……懐かしいわねぇ。最初はあなたも、猫の皮をかぶっていたのにねぇ」
レオがブレイハ家に来てからもう三年の月日が経つ。リリアナもまた、それを思い出したからなのか、彼女はレオが初めて来た日に歌っていた歌を歌い出した。
その歌は春の訪れを喜ぶ歌だった。
彼女がその曲を選んだのは、新しい人間が来るとわかっていたかららしい。つまり彼女なりの歓迎の歌だったのだ。
しかしあの頃のレオは、そんな彼女の好意を受け止められるほど大人でもなければ、家族を殺された憎しみを隠せるほど冷静でもなかった。
初めてあった彼女があまりにものほほんとしているから、レオは本気で殺意を覚えたのだ。この女の今すぐ殺したい、そう思ったのだった。
あの時の強く激しい感情は、今でも忘れられない。
彼女を殺したい気持ちと、そうしてしまったら復讐が果たせなくなると止める理性とがレオの中に同時に存在し、身を焦がしそうだった。屋敷中を燃やし尽くしてしまうのではないかというほどの怒りに駆られたレオだったが、そんな殺意など気づかないのか、気にも留めなかったのか、このお嬢様は全く持って動じていなかった。
あの時のレオは無表情に徹していたとはいえ、憎しみを隠しきれていたとは思えないから、リリアナでなければ、追い出されていたかもしれなかった。しかし彼女があまりにも純粋に、にこにこと笑顔でレオの名前や歳を聞いてくるものだから、レオは日を追うにつれて毒気を抜かれ、今に至る。
最初の出会いの時、レオのどこを気に入ったのか、リリアナの一言によって、レオは彼女の従者となることが決まってからこの三年間、ずっと彼女の傍で彼女を見続けてきた。
彼女はそうしてしばし歌っていたが、歌い終わると、ふと彼女も何か思い出したのか、唐突に言った。
「そういえば、一度も呼んでくれないわねえ……名前」
「え?」
「それとも忘れてるのかしらぁ?」
彼女の言葉は、レオの中に眠っていた一つの記憶を揺り起こす。レオが決して彼女の名前を口にしないのは、彼女の言葉があったからだった。
「好きになったら、呼んで……そうおっしゃってましたね」
最初はレオも名前を呼んでいたのだ。それはほかの使用人が彼女の名前、「リリアナ」に「様」をつけて呼んでいたからだった。
しかし彼女はその呼び方が不自然だからやめろといい、口調もあまりにも距離を感じるから変えろと命じたのだった。一見矛盾した命令で、レオは戸惑った覚えがある。名前を呼ぶ、という行為は親しみのある行動なのにそれをやめさせ、一方で主従関係を明確にする堅苦しい言葉遣いもまたやめさせた。
後からよく聞いてみると、名前を呼ばせたくなかったのは、リリアナという名前よりもアイラという名前で呼んでほしかったからのようだった。彼女の名前はリリアナ・アイラ・ブレイハであり、彼女はこの屋敷の誰も呼んでいない「アイラ」の方の名前を気に入っているようだったのだ。
「あらぁ、覚えていたのねえ。ということは、まだまだなのねぇ。口調は、治ったのにぃ……」
今になってみると、レオは今、自分がどうして彼女の名前を口にしないのか不思議なほどだった。
しかし同時に、その一線を越えてしまったら、自分の復讐という生きがいにも等しいそれを、果たすことができなくなるかもしれないという不安がそこにあった。
「いつか、呼びますよ」
彼女が他の使用人にその名前を呼ばせないのは、彼女が心を許していないからだ。逆に言えば、レオにそれを許したということは、彼女は一定以上の信頼をレオに置いているということになる。
だからこそ、レオは彼女をその名前で呼んであげたい、と思ったことがないわけではない。彼女が望むことを自分ならできるのだから。しかし、レオはその一方を踏み出せなかった。彼女をこれ以上、近い距離に置くことが純粋に怖いのだ。
「……嫁ぐまでには、よろしくねぇ」
自分さえ黙っていれば、彼女の平穏な生活は守られる。
復讐はいっそ彼女が嫁いでしまってからでも、遅くはない。
しかし、恐ろしいことに、彼女が嫁ぐという事実を面白くないと思っている自分がいる。彼女が嫁げなくなればいい。そう願っているのは、かすかに残った復讐心なのか、それとも独占欲のようなものなのか、レオにはまだ判断がついていなかった。
少なくとも、彼女が嫁ぐよりも前に復讐を終わらせることはレオの決意していることではあるので、そういう意味では復讐より前しか、彼女の名前を呼ぶチャンスはない。
しかし復讐をする前に、彼女に嘘をついたこの状態で彼女の名前を呼ぶのは、レオにはどうしてもできなかった。
「さあ、どうでしょう」
すべてが終わったら、レオはその名前を呼べるだろうか。
しかしその瞬間、彼女が名前を呼ぶことを許してくれるのかどうか、それが最も大きな問題だった。