2.怒りを知る
ブレイハ伯爵家の屋敷の一室で、使用人たちが休憩をとっていた。伯爵家の人間に出した料理のうち余ったものや、残った食材で作られた賄は、使用人にとって数少ない娯楽の一つだ。
レオは自分の前にある白身魚のムニエルを食べながら、使用人たちの雑談に耳を傾けていた。くだらない雑談も多いが、時には有益な情報を得られることもある。
がやがやとした室内の中で、レオはふと、リリアナ様という単語を耳にして、そちらに意識を傾けた。
「そういえば、聞いてよ。リリアナ様にあの話をしたんだけど、全然面白くなかったの」
「あの話?」
「リリアナ様がどう呼ばれているか、本人に教えて差し上げたのよ」
レオの持っていた食器が鳴った。手元が狂って、白身魚を切っていたナイフが皿に強く当たってしまったのだ。レオの近くにいた使用人は少し驚いたようにこちらを見たので、レオは笑ってごまかした。
しかし、その間もレオは意識を侍女たちの会話から離さなかった。
「あなた、本人に向かって愚鈍姫って呼ばれてますよ、って言ったの?」
「いいえ。でも、とある学者が、リリアナ様のことを「ら・ぷはんせす・るふどっどぅ」といったそうですよ、と言ったの。意味は知らないんですが……と言い添えてね」
「それでどうしたの?」
「リリアナ様に意味はなんなのかしら、と聞かれたから、辞書で調べてみたらわかるかもしれませんね、と言ったの。そうしたら、リリアナ様は辞書でお調べになって、そして……」
「そして?」
「笑ったのよ。私にぴったりだわって」
「ええ! つまらないの!」
「そうよね。ちょっとぐらいショックを受けたっていいじゃない。本当、プライドのかけらもないんだから」
侍女たちは平然と笑いながらその会話をしていて、周りの使用人も誰もその会話を止めようとしなかった。むしろ、その会話を聞いて笑っているものもいるぐらいだ。
それがレオにはとても許しがたいことに思えて、ナイフを持つ手が震えているのが分かった。
「でもほら、あまり悪口を言うと……」
「何?」
「レオに咎められるわよ」
「近くにいる?」
「あそこにいるわ。聞こえてないとは思うけど」
会話はすべて筒抜けだが、レオがこの手の会話に対して、批判的であることは承知しているらしい。この屋敷でリリアナの味方と言えるのが、復讐を誓ったレオだけとは、なんとも皮肉な話である。最初はそういう立ち位置を確保することによって、ブレイハ家に溶け込むことを目的としていたのだが、感情までリリアナの味方になりつつあるようだ。
自分がここまでの怒りを覚えることになろうとは、ここに来たばかりの時は思いもしなかった変化だった。
「聞こえてたら、文句を言いに来るに違いないわ」
レオは平静を装って食事を続けていたが、すでに食事の味はわからなくなっていた。この場から一刻も早く去りたくて、レオはできるだけ急いで食事を口に運んだ。
そうして食べ終わると、食器を洗浄場まで運び、今日の洗浄担当にすべて渡した。
使用人の食事の時間は伯爵家の人間が食べ終わった後なため、この時間帯ならリリアナは庭でのんびりと日向ぼっこをしている時間だろう。
なぜか無性にリリアナと話したくなったレオは、彼女がいるであろう庭に出ることにした。
ブレイハ伯爵家の屋敷は、屋敷の周りを庭がぐるりと囲む作りになっている。東西南北でテーマの違う庭園が広がっているのだが、リリアナは東側の庭園にいることがほとんどだった。理由はわからないが、東側の庭園にある大きな木の下で座り、読書をしたり、流れゆく雲を見つめるのが彼女のお気に入りなのだ。
レオが庭園に向かうと、予想通りの場所に彼女はいた。
しかし、今日はいつもとは違って、彼女は一人ではなかった。そばにいるのはドミニク・ブレイハ、彼女の兄だ。
ドミニクは紛れもなく唯一の後継者だったが、今の正妻がまだ妾だった時の子供だった。逆にリリアナは正妻の娘だったのだが、その性格と母が早逝したことにより、立場が逆転してしまった。
今は優位に立っているとはいえ、一時でも愚鈍姫と呼ばれる妹に負けたことが許せない兄は、ひどく妹を毛嫌いしていた。そして彼女の傍についているレオも嫌われている。ドミニクは人格者とは言い難い上に、次期伯爵家の跡取りということもあり、レオの事件にも絡んでいることはわかっている。そのため、彼の前では、憎しみを顔に出さぬよう努力を強いられる。
ドミニクが一人でいたならば、絶対に近寄っていくことはないが、今はリリアナが彼の傍にいる。ドミニクがリリアナに絡んでいる時は、リリアナにとって悪い話をしていると相場は決まっている。レオは、そっと二人に気づかれぬよう近づき、二人の会話が聞こえる距離まで来た。
「お前に結婚相手が見つかるとはなあ!」
「結婚……? あらまあ……本当ですねぇ……えーっと……どちら様?」
「バルツァー伯爵だ」
バルツァー伯爵は、好色の爺と評判の伯爵だ。リリアナとは二回りほど年が違うはずである。そんな相手に嫁がせようとするとは、ドミニクはリリアナをよほど疎んじているようだ。
リリアナもさすがにその男の名前は知っていたのか、かすかに眉をひそめた。しかしその表情はあまりにもささいだったため、ドミニクはいらいらとした様子で尋ねた。
「まさか知らないわけじゃないよな?」
「存じてますよぉ。わかりました。でも、一か月、婚約までに時間をいただけますかぁ?」
「一か月?」
「はい……花嫁修行が始まるまでぇ、一か月だらだらしたいんですよぉ」
ドミニクはリリアナの言葉を吟味したが、どう考えても彼女にそれ以上の理由はないと確信し、笑みを浮かべて言った。
「一か月ぐらいは良いだろう。その代わり、そのあとはきっちり嫁ぐ準備をしてもらうからな」
「花嫁修業は、面倒ですねぇ」
リリアナが特に慌てる様子もなく、平然と嫁ぐ様子であるのが、ドミニクを苛立たせたらしい。それはそうだろう。自分の異母妹をどうにか蹴落としてやったと思ったら、本人が全く動じた様子がないのだから。
「そうだ、愚鈍なお前が知らないといけないから、教えてやろう。お前はバルツァー伯爵の三人目の妻だ。お前のような愚鈍姫を正妻として迎えたい酔狂はいないからな」
ドミニクの悪意を理解はしたが、それは全く何のダメージを与えはしなかった。リリアナが愚鈍姫たる所以である。
「三人もいるなんて、賑やかそうですねぇ」
のほほんとそんなことを言うと、ドミニクは妹が思ったような反応をしないことに苛立ち、座っていた妹の腕を乱暴に掴んで立たせた。
「妻になるということは、あの男にこういうことをされるってことだ!」
そして妹の体を近くにあった木に押し付けると、その勢いで彼女の服に手をかけた。
その光景を見た瞬間、レオの頭に血が上ったのを感じた。
それと同時に、リリアナとドミニクの頭上にあった数枚の葉が、一瞬で灰となった。レオの怒りが焔となって表れたのは明白だ。
「服を直すのが大変なので、止めていただけますか」
もう少しで服の背中にあるボタンが完全に飛ぶという時に、レオはどうにかドミニクの腕をつかんだ。レオは無表情ではあったが、怒りから鋭くドミニクを睨んでおり、その腕を掴む手はドミニクの腕に痕を残しそうなほど強く握っていた。
「離せ、使用人が!」
ドミニクはそれを振り払うが、自分の妹を傷付けることは諦めたように見えた。
「ふん。こいつが嫁に行けばお前もクビだ。せいぜい路頭に迷え。紹介状は書かないからな!」
通常ならば使用人にとって最上級の脅し文句だったが、レオは全く動じなかった。リリアナが嫁にいくよりも前に、レオはどのみちこの伯爵家から去ることになる。そしておそらく、リリアナが嫁ぐこともない。動じる理由がないのだ。
レオがあまりにも淡々としていたため、主従そろって思い通りにならないとわかったドミニクは、足元にあった椅子を蹴り倒したあと、肩を怒らせて屋敷へと戻っていった。
「ありがとう。さすがに、兄に襲われるのは勘弁だわぁ」
いくら愚鈍姫と呼ばれていても、さすがに先ほどの状況は理解できていたのだとレオは安心してほっと一息をついた。
「仕立て屋を呼ぶのは面倒ですからね」
それでも礼を言われた気恥ずかしさと、ドミニクに行動に対する怒りから、刺々しく言葉を返す。
「発散してもいいわよぉ。焔呼びって、それでと多少、解消されるんでしょう?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
レオはそういうと、まるで頭上に何かを放り投げるかのように腕をすくい上げた。
その動きに合わせて、空中に焔が舞い踊る。彼の頭上に浮かんだ焔は、ひらひらと小さな火に変わって降ってきた。彼女はそれに思わずといった様子で手を伸ばしたが、その火は彼女の手に触れるまでに消え去った。
彼はこの国ではさして珍しくはない呼び人と呼ばれる人種で、もっと正確に言えば焔呼びと呼ばれる人だった。ほかに風、水などがあり、この国の主流は風であるため、呼び人自体が珍しくないといえど、焔呼びはあまり数が多くない。
その三つには呼びだすための鍵となるものが必要なのだが、焔を呼ぶには強い感情が必要とされていた。逆に、強い感情を揺り起こされたときでなければ、その力は発揮できず、また未熟なものは強い感情を抱いたときに無意識に焔を呼んでしまうこともあった。
「焔使いなら、こんなことはないんでしょうね」
レオは過去に何度か、怒りに任せて焔を呼び出したことがある。それはレオの命を救いもしたが、誰かを傷つける危うい力であるとレオに刻み込むきっかけにもなった。
そんな場に立ち合わせたことのあるお嬢様は、レオの感情の揺れを見て、発散を勧めてくれるようになったのだった。
「まあ、でもいいじゃない。戦いに出るわけでもないし」
焔使いとは、焔呼びの格上であり、感情の起伏にあまり左右されずに炎を扱える人間のことである。焔使い、水使い、風使い、とそれぞれ呼ばれるが、これは非常に数が少なく、その才能が時にいさかいごとを引き起こすこともあるため、その力を隠している人もいるほどだ。
「それにしても、あなたまで嫌われてるわねぇ」
ドミニクの対応を見る限り、純粋にレオへの嫌悪というよりは、自分の妹の従者への嫌悪というほうが正しい。
つまりレオは完全に巻き込まれているわけである。
しかし、ブレイハ伯爵によく似たドミニクもまた恨みの対象であったため、彼らがどう思おうと気にならなかった。正確に言えば、あの二人と話すときは体の中にある強大な憎悪を抑え込まなければならず、それに必死になればなるほど、向こうから向けられる感情に気を配る余裕はなくなる。今だって、屋敷を火事にしかねないほど感情が大きく揺れ動いていた。
それよりもむしろ、レオは次に自分の主が続けて言った言葉に大きな衝撃を受けたのだ。
「紹介状は私が書いてあげるわぁ。だから安心してねえ」
「紹介状……? ついて来いとはおっしゃらないんですか?」
とっさに聞き返したレオに、彼女はしばし固まって、それから首をこてんと傾げて問いかけた。
「ついて来てって言ってほしいの?」
その問いにレオは答えられなかった。その問いの答えは自明だったが、それを認めることは自らの中に存在する相反する感情を二つとも認めなければならない。
「いつも文句ばっかりだから、いい機会だと思っているのかと思ったのよぉ」
リリアナはそう言って小さく笑った。
「でも、ありがとねえ。ちょっとでもためらってくれて、嬉しいわぁ」
目の前にいる彼女はなぜか切なげな表情を浮かべてこちらを見つめていた。愚鈍姫と呼ばれていても、レオの行動に表れているあからさまな棘には気づいていたのだろう。
「でも、迷っちゃだめよ。チャンスは二度とやってこないんだから」
思わぬその言葉にレオはぎくりとして彼女のほうを見た。
その瞬間、彼女の体がかすかに震えていることに気付いた。無意識のうちに彼女は、ドミニクに掴まれた腕をさすっている。
それはレオの意識の外にあった。
ただ気付いた時には、レオは自分が来ていた上着を脱いで震える彼女にかけてやっていた。彼女が寒さから震えているわけではないことは百も承知だったが、レオは上着の上から彼女の背中をさすっていた。
自分の無意識の行動に驚いたが、レオは後には引けなかった。自分を見上げる大きな瞳の中には、おどろくほど穏やかな顔をした自分がいる。
それがとても不思議なことだった。
最初のころは、いつ彼女の白い首を掻き切るか、そんなことばかりを考えていたのだから。
「湯につかって、よく温めてください。きっと流れていきますから」
何が、とは言わなかった。しかし彼女は触れられた場所をまださすり続けている。
「優しいわねぇ……」
優しいといわれても、本当に優しい人間にはなれそうにもない。しかしレオは彼女を傷つけることができないのだとすでに気付いてしまっていた。
彼女が悪いのだ。レオはそう思った。
のんきで愚鈍姫などと呼ばれているお嬢様は、彼女を傷つける気でいたレオの牙をすっかり抜いてしまったのだった。それが彼女にとって幸運なのか不運なのかわからない。
レオが復讐を決行した後、彼女の生活は大きく変わってしまう。当初の予定では彼女は最初に手にかける予定だったが、今のレオは彼女の髪の毛一本ですら傷つけたくはないと思ってしまっていた。
「家の中に戻ろうかしら……」
「そうですね」
「ねえ、レオ」
そういえば、彼女は一度たりとも自分の名前を馬鹿みたいに間延びさせたことがない。そんなどうでもいいことに、レオはいまさら気付いていた。
「なんですか?」
「たまには私を振り回してもいいのよぉ? やりたいことを、やればいいわぁ」
どうして今日の彼女はこんなことばかり言うのかまったく見当がつかなかった。どうしてこうもレオの心を揺さぶるようなことばかりいうのか。
「では、一緒に勉強しましょう。そんな気分なので」
それでもレオは表情を崩さずに、いつもと同じ調子でそう言った。
「それは……あんまりいい案じゃないわぁ」
「振り回してもいいんでしょう?」
彼女は目に見えていやそうな顔をした。
今にも前言撤回と叫びだしそうな彼女の顔に、レオは思わず頬を緩ませたのだった。