1食目 柔らかな黄金色の調べ
春風が心地よく頬をなでていくうららかな陽だまりの午後。
雑多な繁華街の看板を眺めながら歩く燿一は困っていた。
仕事に追われる毎日の中で、仕事に一区切りのついた空腹を紛らわせるこの時間が唯一の安寧のひと時ではあったのだが、食べたいものが決めきれずに困っていたのである。
繁華街を飾るのはどれも真新しい有名チェーン店の看板ばかりで、燿一の心を擽る店は見つからなかった。
「この通りのチェーン店は通いすぎて飽きたんだよな。今日は一本裏行ってみっか」
繁華街のメインストリートと並行するように一つ区画を横に逸れると、居酒屋などが多数並ぶ雑居な細道がある。
通りを歩きながらふとある看板が目に留まる。
古めかしい木に大きく墨で「よさく」と彫られた看板である。古き良き日本家屋を思わせる外観のやや大きめの居酒屋だった。
立て看板に大き目のチョーク文字で書かれた本日のランチメニューは「みぞれ鶏」「かつ丼」「鯖味噌煮」の3つのようだ。どのメニューも均一の金額が提示されていた。
「ふむ。シンプルだけどこういう店も悪くないな。」
燿一はこの店で食べることに決めた。
暖簾をくぐり横開きの硝子戸を開けると、吹き抜けのホールから昼飯時を過ぎた午後とは思えない賑わった客の声が溢れていた。
「いらっしゃいませ!1名様ですか?お座敷とカウンターどちらになさいますか?」
「ああ、カウンターで」
「こちらへどうぞ。1名様ご案内でぇっす!」
「「「いらっしゃいませー!」」」
威勢の良い挨拶に囲まれながら、店の名前が書かれた水色の法被を着た店員に、ホールを通り抜けた先のカウンターへと案内される。
太めの楡の木で作られた頑丈なカウンターテーブルに、楡の木で作られた足が高く背面が低めの居酒屋によくあるカウンター椅子に腰掛ける。1座席毎に、立て看板と同じ品が筆で手書きされた和紙のメニューが置いてあった。
程なく、お冷やとあつあつのお絞りを運んで来た店員が爽やかな笑顔で注文を取る。
「本日のランチはこちらの3品になります。お決まりでしたらお伺いいたします」
「ああ、んじゃ、カツ丼おねがいします」
「かしこまりました」
溌剌とした店員の弾ける笑顔に好感が持てる。ポニーテールが法被とよく似合って実に良い。
暖かなおしぼりで手を拭きながら店内を見回す。
カウンターを1座席毎に四角い和風のペンダントライトが、優しくカウンターテーブルを照らしている。
カウンターの奥の棚には、日本各地の名産の焼酎や日本酒の瓶が並べられ、その上には夜のお品書きが1品ごとに吊り下げられていた。なかなかに昭和のレトロな趣のある店内だ。
テーブル席には、OLやサラリーマンから年配の御婦人など、様々な客が食事や会話を楽しんでいるようだ。
(――仕事は大丈夫なのか会社員達よ。いや、俺も人のことは言えないけどさ)
どの客からも和やかに食事を楽しむ雰囲気が感じられ、店の料理への期待度が上がる。
「カツ丼お待たせいたしました」
先程のポニーテールの店員が、トレーに載せた食事を運んできた。
漆の丼ぶりに溢れんばかりに載せられたタレの染み込んだ卵に包まれたボリュームあるカツ丼に、柴漬けと沢庵が添えられた漬物の小鉢と、なめこと青菜がたっぷり入った赤出汁の味噌汁がついている。
想像以上のボリュームに燿一は自然と笑みが溢れていた。
店の名前と連絡先が書かれた箸袋から割り箸を取り出し、親指ではさみながら手を合わせる。
「いただきます」
習慣化された日本人の性である。祈るような姿勢で食事の挨拶をとり、割り箸を割ってカツに箸を差し入れる。
よく煮込まれたカツは一口サイズに切られ、醤油ベースのタレの香りに食欲が刺激される。
タレの染み込んだご飯とともにカツを一切れ持ち上げ、貪るように口に運ぶ。
――嗚呼、至福よ。
咀嚼する度に広がる甘辛いタレの香りと肉汁の饗宴に暫し酔いしれる。カツの油気をリセットするかのように柴漬けの酸味が口を爽やかにする。
味噌汁は濃すぎず、青菜のシャキシャキとした食感がなめこを包み、出汁の香りを引き立てる。
沢庵もさっぱりとした味わいで、次のカツ丼の一口への楽しみを演出する。
口いっぱいに頬張り、隅々までカツ丼を味わう。成程、この味ならばこの時間でも盛況であるのも納得である。
***
ふと、脳裏に忘れていた思い出が蘇る。
それは燿一が14の頃、母が死に、父と弟と3人で生きていくのに必死だった時代であった。無骨で口下手な父が、月に1度は必ず作ってくれていたのがカツ丼であった。
「おや、燿一くん、今日はアノ日かい?」
「ああ、豚肉厚切りいつもどおり4枚よろしく」
「はいよ。ちょっと待ちなさいね」
弟と二人で商店街の馴染みの肉屋で豚肉を買うのが当時の俺の仕事だった。買ったばかりの肉を持ち、祖母の家に向かう。今日は老齢の祖母の家で祖母と父が合作で作るカツ丼の日だ。
料理下手な父が唯一まともに食えたのがカツ丼だけであったとも言えるが・・・。燿一は祖母と父が作るカツ丼が好きであった。
「祖母ちゃん、肉買ってきたよ」
「燿一と俊治かい?よく来てくなすったねえ、おあがりんさい」
買ってきた肉の袋を台所で待っていた祖母に渡す。すぐ隣の居間の円卓の横に腰掛け、祖母が肉を処理する背中を眺める。
たっぷりと油の入った大きめの天ぷら鍋へガスコンロの火がつけられる。手際よく筋を切っていき、溶き卵をかき混ぜる心地よい音が居間へと響く。小麦粉をかるく塗し、つけすぎた小麦粉を叩く小さな音。溶き卵にくぐらせ、パン粉を満遍なく塗していく。
菜箸を天ぷら鍋に差し入れて温度を測る。程よい温度になったようで、パン粉がたっぷりついた肉を優しく天ぷら鍋へ投入していく。
カツが揚げられる心地よい音に耳を済ましていると程なく商店での手伝いを終えた父が帰ってくる。
「おかえり。そろそろ洋輔の出番だからちょうど良かったわ」
「ん、そうか」
手際よく揚げ上がったカツをバットへ並べながら祖母は言う。洗面台で手洗い嗽を済ませた父が台所へ立つ。小さめのフライパンで何故か1人前ずつ作るのが父流であった。
繊維に沿って薄切りにした玉ねぎをフライパンに敷き、揚げたてのカツを一口サイズに切り分け、玉ねぎの上に乗せる。玉ねぎが埋もれる程に酒を注ぎ、だしの素を振りかけて火をつける。沸騰してきたフライパンに醤油、砂糖、みりんを豪快に回し入れ、更に煮立たせる。最後に溶き卵を回し入れて蓋をして少し蒸して完成だ。
「いただきます」
「ん、毎月の楽しみだけれどやっぱり洋輔が作ってくれるカツ丼は美味しいわねえ」
「ん」
少々しょっぱい物ではあったが、反抗期を迎え始めていた燿一にとって、祖母と父が二人で作った唯一の料理を囲むその無言の食卓がかけがえのない思い出であったのだ。
***
あの頃の懐かしさを感じながら掻き込むように夢中で口に運ぶと、気づけば丼ぶりは半分以下へと減っていた。
赤い丼ぶりの底に金箔文字で「ありがとうございます」と見える。客をもてなす気持ちが伺える演出に、思い出と共に心も満たされていく。
あと2~3口で終わってしまう。だがこの少量のご飯にもあの芳香なタレが染み込みんだ卵が絡まり、最後の1口までゆっくり味わいたいと思える程に満足行く味であった。
腹も心も満たされた燿一は、名残惜しそうにお冷を飲み干し立ち上がり、レジへと向かう。
「ごちそうさま。すごく美味しかったです」
「ありがとうございます。お客様にご満足頂けることが私達にとっては何よりも嬉しいです。またのご来店をお待ちしております。
お客様のおかえりでぇっす!」
「「「ありがとうございました~!」」」
なかなかに洗練された店員達である。会計を済まし、仕事の続きへと戻って行く。
次に来るときはきっと、同僚を引き連れて来るであろう。活力が漲る美味しい食事であったのだから。