勇者の死闘
始めて喫する敗北の味はむせかえるくらいに鉄臭かった。
しょっぱいだとか、ほろ苦いだとかもっとそういう詩的なものを想像していたのだが、現実はいつだって現実的だ。
死を目前に迎えても口内からは血液が含有する鉄分の味しかしないし、怪我した場所は傷の酷さに応じて痛い。
吐いても吐いても喉の奥からは景気よく血液が湧き出てきた。
さながら堀り当てたばかりの井戸水のようである。
ただ井戸水と違うのはその埋蔵量だ。
このまま出血をを続けていたらあと五分と持たないだろう。
なけなしの回復術式で応急処置を施すが、マナ欠の今は少しだけ流血の速度が弱まる程度で、ほとんど焼け石に水だった。
もはや、これ以上打つ手はない。
物陰から敵が近くにいないことを確認すると、アイリスはヘたり込んで敗因について考えた。
──やはり油断していたんだと思う。
たとえ相手がいかなる豪の者だろうと、
仮に相手がどれほど卑怯な手段を講じようと、
そのすべてを真っ正面から斬り伏せるだけ自信があった──そう慢心していたのだ。
百戦無敗の剣術が、
勇者という名の肩書きが、
周囲からの賞賛の声が、
自分をここまで傲慢にさせた。
それがこのザマである。
頭上の尖塔からカラスの鳴く声がした。
あたりを包む炎がバチリと大きな音を立てた。
それから、こつこつと鷹揚な足音が聞こえてきた。
奴、のお出ましである。
いよいよトドメを刺すつもりなのだろう。
数歩先で足音が停止する。
燃え盛る炎が奴の素顔を照らし、裏切り者の正体をつまびらかにする。
そして、アイリスは対面した。
影から仲間を暗殺し、今まさに自分を手にかけんとする真犯人と。
だいたい十秒くらいだった。
たっぷり拝顔すると、アイリスはまたうなだれて、それから自嘲気味に笑った。
──してやられた、と。
勇者の聖痕をその身に刻んだアイリスは文字通り鉄壁の防御障壁を持っている。
一般人や雑魚モンスターが束になったところで、たとえ上級魔術を滝のように浴びせたところで傷一つつかない程度には強力な加護である。
これを打ち破ることができるのは非常に限られており、
すなわち魔王の邪痕か、転生者の紋章を宿す者のどちらかだけだ。
──勇者を倒せるのは魔王か転生者のみ。
これは神が定めた世界のルールであり、絶対不変の法則だ。
つまり今目の前にいるのは勇者とはまた別の選ばれし者ということになる。
「……それで、君はどちらなんだい?」
問いかけるも、しかし返事はなく、代わりに奴は左手をかざした。
無詠唱で術式が展開される。
その数、なんと六式。
天性のセンスと相当な努力を要する、とんでもない高等技術だ。
これほどまでの実力を隠しておきながら、しかしそれに驕ることなく慎重に知略謀略を巡らせ、ここまで自分を追いつめた。
道理で勝てないわけだ。
敵ながら天晴れである。
「でもね、僕も抵抗くらいはさせてもらうよ」
痩せても枯れても勇者の身。
世界の期待と未来の希望がこの双肩に乗っている。
このままやられてしまっては信じてくれた人々に顔向けができない。
だから一矢くらいは報いてやるし、あわよくば刺し違えてやるつもりだ。
アイリスは今にも尽き果てんとする己が魂に最後の火をつけると、立ち上がって聖剣を握りしめた。
「さあ、僕を殺してみろ!!」