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黒き海

作者: 雨後晴

その日買った帽子を深く被った。私は人を人と思えないらしい。帽子は思っていたよりずっと視界を塞いでくれる。

海に行きたいと思い立った私は市電に乗った。深い森をくぐるように改札を抜け車内に入った。出発を待っている私はまた帽子を深く被り直す。嬉々としていた女子高生らが会話を止め、私を見ていた。私は帽子を買って良かったと思った。

強い西日を背に受けながら、目的地に着くのを待った。私は長すぎる生という時間に疲弊していた。別の誰かに憑依されたように、私の足は海に赴いた。

駅から海に到着するまでの間に、多くの生の回想をした。掻い摘んで思い出すのは、砂浜から綺麗な貝殻を見つけるのに似ている。美しい光彩を放つ貝殻は粒程で、そのほとんどは砂、もしくは割れた貝殻である。

私はこれまでの生に酩酊した。そして自分を悲劇の主人公に仕立てあげるまでになった。

海に着くと磯の香りがした。点在している海藻や漂流物、濡れた枝などがあった。太陽は既に沈みかけ、遠くに見えるのは痣のような濃紺と、絹を振り下ろしたような淡いオレンジであった。

空が、海が、時間の中に生きている。岩場に腰掛けて、夏の終わりに花火をする若者たちの方向から香る火薬の匂いと、生に疲弊した私の深奥からくる声にならぬ叫びが呼吸を浅くする。

かれこれ何時間ここにいたのだろう。その時、私の前を婦人が横切った。彼女は犬を連れていた。犬は私の靴の爪先に鼻を押し当て、忙しく私をチラと見ながら尻尾を振っている。

婦人は「すみません」と訝しげに笑った。

私の微笑みは口元に何かを貼り付けたようだった。

婦人は足早に去っていった。

私は引き続き黒い海を眺めた。火薬の香りがまだ遠くからする。打ち上げられた花火は夜に融けた。

私は立ち上がった。腹が空いたのである。帰りの電車でも帽子に付着した火薬の匂いがする。私は帽子を外した。

<了>

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