はじまり
「‥‥‥‥‥‥レ」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
「‥‥‥‥‥‥ゼレ!」
「‥‥‥っわ」
左耳の鼓膜が破れるかと思った。
思わず耳を塞ぐが、すぐに腕を捕まれ、無理矢理左に向かされる。
渋々顔を上げれば、呆れたような表情をした茶髪の青年の顔があった。良いとはいえない目付きが、不安げに見下ろしている。
「‥‥‥ったく、立って寝るとカ、器用ナことするな」
そう言って掴んでいた腕を離す。
青年は赤いーー隊服を着、腰には黒光りする鞘をさしていた。
「‥‥‥ゼレ」
返事を返し損ねていると、もう一度、名を呼ばれた。
ゼレは改めて、青年の顔を見上げる。琥珀色の瞳に、黒髪の少年の顔が映っていた。
弱々しい表情の、覇気のない顔。
「‥‥‥大丈夫カ」
その一言で、ゼレはぼんやりとしていた意識が覚醒した。
ああ、そうだ。自分は。
僕は、さっきまで。
「‥‥‥次、57番」
馬小屋のような荷台から、鎖の音が複数聞こえる。
じゃらり。
じゃらり。
荷台を囲むように、白い鎧の騎士と赤の鎧の騎士が整列していた。皆、荷台から出てくるナニカを凝視し、警戒している。
ゼレと青年は、かれらから少し離れた位置に立っていた。
ふたりの傍には、別の荷馬車がふたつ用意されていた。これらからも、鎖の音が聞こえてくる。
白い騎士のうち、鎧のない白の隊服を来た男性が荷台に近寄る。手にはボードが握られ、ぺら、と一枚紙が捲られた。
「‥‥‥直行っすね」
無機質な声。
騎士の輪から、ナニカが出てくる。
両手首を手錠で固定されたそれは、人間とは言い難い形状をしていた。皮膚は緑に覆われ、所々、鱗のような模様がある。髪は長く、表情が読み取れない。ぼろぼろの布を纏っているせいか、性別すらも不明だ。
騎士に連行されるように、ゆっくりと、ゼレたちの傍の荷馬車のうちのひとつに向かってくる。
「‥‥‥買い手、いたんだな」
「‥‥‥うん」
ぼそりと青年は呟く。ゼレは反射的に頷いた。
ゼレは眉を潜め、荷台に乗せられるそれを見つめていた。
その後も、次々と人間とは言い難いそれは荷台に乗せられていった。四つ足のもの、腕が六つあるもの、牙や爪が鋭いものなど、様々な形態が、皆ぼろぼろの布と鎖に繋がれていた。
牙や爪が鋭いものは、別の荷馬車に詰められた。
荷馬車が重たくなるにつれ、ゼレの表情は更に弱々しくなっていった。
ああ、駄目だ。こんなことじゃ。
そう自分に言い聞かせるが、あまり効果はない。
乗せられていくかれらは皆一様に、
かえりたい。
たすけてくれ。
だれか。
と、囁いていた。
ゼレはその度に耳を塞いだ。だが、かれらの表情が、ゼレの同情と畏怖を誘った。
「‥‥‥えーと、これ、最後っすか」
番号を読み上げていた男性が、隣の騎士に確認をとる。騎士が頷いたのを確認し、それじゃ、と先を促した。
と、
ゼレの隣ーー荷馬車の荷台が、大きく揺れた。荷台は中が見えないよう壁の隔たりがあり、何が起きたか、ゼレと青年は大きく目を見開いた。
その荷台は、「直行」行きの荷馬車だ。
その瞬間、荷台の後方が大きく裂けた。
壁が脆い音とともに崩壊していく。
鎖の音。呻き声。逃げろ。逃げろ。音。音。
「逃がすな!!」
騎士の誰かが叫んだ。
真っ先に動いたのは、ゼレの隣にいた青年だった。
腰から鞘を抜き、右手で固定。荷台の後方に急ぐ。
まず目に入ったのは、先ほどの57番と呼ばれた、緑の肌をしたそれだった。手首の枷は壊され、模様のように見えた鱗のが逆立ち、両腕を覆っている。
恐らくかれが原因か。
青年はそう判断し、地を蹴った。
かれの背後には『直行』行きの鎖に繋がれたものたちが、いそいそと蠢いていた。かれらを庇うように緑の皮膚が青年を迎え撃つ。
「どい、て‥‥‥!」
「誰がっ」
瞬間的に言葉を返す。
どうやらかれは女性のようだ。
だが、それは行為を中断する材料にはならない。
青年は迫る勢いにのせ、鞘を降り下ろす。逆立つ鱗ーー片腕がそれを防ぐ。もう片方の腕が青年の顔めがけて突き出される。首を捻り回避。青年は体制を崩す、が、重力に従い、そのまま膝をおる。
まず、動きを殺す。
低い体制を保ち、青年は緑の脹ら脛目掛けて鞘を薙いだ。
予想外の衝撃に女性は一瞬宙に浮く。見逃さない。
「っらぁっ!」
青年は薙いだ腕を戻す要領で、彼女の腰を鞘で強打した。
「か、は」
乾いた声が女性から漏れだす。
そのまま、力なく地面に伏した。
ふぅ、と青年は息をつく。鞘を腰に戻し、右手首を擦る。
「トウマ‥‥!」
背後からの声に顔を向ければ、下がり眉の黒髪の少年が駆け寄ってくるのが見えた。
そんな心配そうにするなって。
青年ーートウマは苦笑し、彼に応えるために右手を上げた。
瞬間。
伏していた女性が四肢をつかい地を蹴る。
スキだらけな背目掛けて、鋭利な腕を降り下ろすーー
「トウマ!!」
「あーー」
振り替えるが、もう、遅い。
眼前に迫る尖った鱗の数々に、トウマは思わず体に力を入れた。
が、
鱗はトウマを抉ることなく、目の前で、再び地に崩れ落ちた。
緑の皮膚が視界から消える代わりに、白の隊服を来た男性が、にこりとこちらを見据えていた。
「んやー、危なかったっすね」
男性は軽く左手を振る。
トウマは再度深く息を吐き、荒くなった呼吸を落ち着かせた。そして、申し訳なさそうに頭を下げた。
「す、すみマセん」
「油断したっすか」
「は、はい」
駄目駄目ー、と男性はおちゃらけた口調で、倒れ伏した女性を見下ろし、笑う。
女性の頭の部分に回り込み、踵を首筋にあてる。
「腕はいいっすけど、こういう輩は」
こうしないと。
男性の踵が動いた、瞬間。
女性の長い髪ごと、その頭が宙を舞った。
遅れて、ごと、と鈍い音とともに、頭が落ちる。
一瞬だった。
一瞬で、女性は二度と動かない体になった。
トウマは頭のない女性ーー死体を見つめたまま、硬直する。無意識に、左手が鞘を握っていた。
落ち着かせた筈の呼吸が荒くなる、気がした。
実際、ただ呆然と見下ろしているだけだったが。
そんな彼の様子を、男性は満足げに見ていた。うん、と微笑んだのち、背後を振り替える。
そこには、荷台から出てこれないでいたものたちが、恐怖の眼差しで男性を見上げていた。震えているのか、鎖の音は絶えない。
にんまり。
男性は脅すように踵を鳴らし、笑顔を深く、深く浮かべた。
「さぁみなさーん」
ぱん、と手を打つ。
「頑張って、生き延びてくださいっすねー」
天気、快晴。
人間の国は、今日も活力に満ちていた。
世界は、ひとつの帝国によって支配されていた。
帝国『アルクノーク』
帝国は世界に散る四つの大陸全てを掌握し、支配し、慈しんだ。ありとあらゆる財力、武力、資源を確保した帝国は、成長期を終え、緩やかな平穏が続いていた。
平穏で平和な世界。
それが帝国の理想であった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
その理想を叶えるため、守るため、帝国は巨大な組織をつくりだした。
帝国騎士団。
武力をもって敵を撃ち、武力をもって民を守る。
シンプルな理念を掲げた騎士団は、帝国に本部をおき、帝国の支配下にある東西南北全てに騎士を派遣した。
平穏を破る、敵を撃つ。
守るための力を持つかれらは市民の憧れであり、誇り誇りでもあった。皆騎士を称え、騎士を目指し、騎士を支えた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ん、ん」
ゼレは、騎士に憧れる、ただの少年でありたかった。
小鳥の囀り。
風の音。
高く転がる声。
低い声。
凛とした、女性。
騒音。
暑い。
暑い。
助けて。
何で。
待って。
帰れ。
帰れ。
帰る。
帰る?
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥どこ、に」
「‥‥‥なーに寝惚けてんすかー?」
「!!!」
ごっ
鈍い痛みが額を襲う。
痛い、が、後に残らない痛みだ。
ゼレはぼんやりとした意識のまま、半身を起こした。そしてようやく、自分が倒れていたということを自覚した。
そうだ。
僕は、また。
自分がおかれている状況を理解する。
ゼレは、部屋の隅にある寝台で横になっていたのだ。寝ていた、とは判断しにくい。意識をなくしていたーーのだろう。
見覚えのある寝台、布団。
ここは、ゼレに与えられた部屋だ。
「いつまでぼーっとしてるんすか」
ふと、頭上から降ってきた声に顔をあげる。
濃い茶の巻き毛の、細目の男性が笑って見下ろしていた。
男性はーー細身で少年のように笑うがーーゼレの額に拳をあて、からからと笑う。
「なんならもう一発‥‥‥」
「‥‥や 、や、結構です!」
ゼレは慌てて拳を振り払った。
急いで寝台から飛び降りる。どうやら私服に着替えさせられていたようだ。慌てたまま、部屋を見渡す。
簡素な机と本棚、その隣のクローゼットを開け、白の、ゼレが好む色の隊服を手に取った。背後では、のんびりしなと言わんばかりの笑顔が華やいでいる。
その笑顔が、昨日の、ゼレが意識を失う原因を作った男性と同じものだとは到底思えない。が、同一人物であることをゼレは知っていた。
知り合って二年経つけど、相変わらずよくわからない人だ。
ゼレは着替えつつ、振り返った。
「あ、の」
「んー?」
「ど、どれくらい、きぜ‥‥寝てましたか、僕」
「半日」
はは、と男性は笑う。
よく笑う男だった。
「ちなみに今、朝っす」
「日付変わっちゃったんですか!?」
ゼレは顔が青ざめていくのを実感した。
「どどうしよ‥‥‥報告書、まだ」
「大丈夫っすよ」
「へ?」
「君の相方さん、でいいっすかね。彼がこっちにも報告書提出してくれてたっすよ」
「え、トウマが」
はぁ、とゼレは肩を落とした。
また頼ってしまった。
トウマには頭が上がらない、というか、申し訳ない。
有難いかつ複雑な心境になりつつ、ゼレはクローゼットを閉じた。机の小さな鏡を覗く。
黒髪、灰色がかった瞳が不安げに揺れる。
白の隊服の胸あたりにあるエンブレムを、ゼレはゆっくり握り締めた。同時にゆっくりと深呼吸をする。
「‥‥‥準備、できたっすか?」
背後からの声に、ゼレは深々と頷いた。
アルクノーク帝国騎士団。
ひとりの騎士団長を中心に、数多くの騎士を束ねるそれは、帝都を本拠地としている。白を基調とした巨大な騎士団本部は、平和を愛する国民の希望そのものだった。
騎士は各々の隊を結成し、任務をこなす。
そのなかでも、限られた八つの隊では優秀な騎士を束ね、高い実力をもつ者のみが入隊できる仕様になっていた。
通称【聖騎士】
そのうちのひとつ。
【ハクノール隊】に、ゼレは所属している。
とん、とん
ゼレは緊張からか、ゆっくりと扉をノックした。次いで、震える声で名乗りをあげる。
「‥‥‥ゼレ・ハクノール、です」
「ウッド・ロキアンっす」
男性ーーウッドは変わらぬ口調で告げる。
すぐに中から女性の声が聞こえてきた。一度呼吸を整え、ゼレは扉を開けた。
「失礼します」
視界の先には、書類が詰まれた執務机とーーそこに座る、ゼレと同じ隊服(派手な装飾が為されているが)を来た男性が座っていた。
彼はゼレとウッドを視界にいれると、人好きな笑みを浮かべた。
「お、来たな」
男性は目を細め、嬉しそうに大きく笑った。
短い黒髪に、活発な雰囲気から、まだ子供なのではないかと思わせるようなオーラを発している。
ゼレは目の前の笑みに圧倒されながらも、小さく会釈をした。
ダスク・ハクノール。
【ハクノール隊】を率いる隊長である。
「なーんか大変だったみてぇだな」
「えと‥‥‥すみません、とんだ失態を‥‥‥」
ゼレは思わず床に視線を落とす。
本来なら何かしらの罰があってもおかしくないはずだ。
敵のーー敵の目の前で気絶していまうなど、騎士として失格だ。
こんなことで、僕は‥‥‥。
ゼレの瞳に薄い水の膜ができる。
自分が情けない。
「んなこと気にすんな!」
ネガティブな考えに頭が支配されていると、前方から真逆の、快活な声が降ってきた。
目線だけを前方に向ける。
「そんだけお前が優しいってことだ」
「怖がりでもあるっすけどね」
背後ではウッドがやれやれと首を振っていた。
まぁ、とダスクは続ける。
「お前みたいな奴も必要なんだぜ。騎士には」
「‥‥‥‥‥‥は、い」
ゼレは別の意味で泣きたくなった。
こほん、と、ダスクの左隣に立つ女性が咳払いを溢した。
銀の髪をひとつに纏めた彼女は、同じく銀の瞳をふたりに向ける。すらりとしたスタイルと知的な雰囲気から、騎士団の美女としても有名である。
「‥‥‥報告書は受け取りました」
ゼレは彼女の一言にハッとした。
女性は全てを見通すかのような視線をゼレに送る。
「体調に、異変は」
「あ、ありません、と思います‥‥‥」
「ですか。では大事をとって、今日一日、貴方に休暇を与えます」
「はいっ‥‥‥‥‥‥て、ぇ?」
休暇?
何故?僕が?
目線を自隊の隊長に向ければ、ダスクは大きく頷き返した。
「おー、シーナの言う通りだ」
「本来なら午後からの訓練に参加、及び小隊長補佐としての職務があるのですが…」
女性ーーシーナはちら、とウッドを見る。
小隊長。
隊を支える分隊の長。ウッドは小隊長として、ゼレはウッドの補佐として【ハクノール隊】に所属している。
常の任務は小隊長の補佐ーー雑用や訓練の補助なのだが、今日はその必要がない、ということなのだろうか。
「その代わり、お使いに行ってきて欲しいんすよ」
ウッドはゼレの肩を叩く。
「お使い」
「そうだ。俺らを代表としてな」
「…え、え!?だ、代表、って、た、隊長補佐、それは」
「焦りすぎです」
昨日失態をおかしたばかりなのに。
ゼレはシーナに説明を求めた。
「これを」
すると、シーナは白の封筒をゼレに手渡した。掌に収まるサイズの小さな封筒だ。
「手紙、ですか」
「はい」
「何方に」
「ラーラ様に」
「ラーラ様に…………っ、え、は?」