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望郷の日

作者: 晴雪


薄いキラキラとした氷にも似た膜を手で押して中に入り込みますと、そこには素晴らしい世界が広がっておりました。

透明な水が膝下で緩やかに流れ、その中には桃色の金魚や、朱色のメダカ居て、時折尾を揺らしてくるぶしをくすぐってくるのです。

その所作が大変可愛らしいので、思わずしゃがみこみ手で掬おうとすると、彼らはちゃらりと虹色の光を反射させて、散って逃げてしまいます。


目の前には桃色と茶色を足したような、味わい深い苔が生していて、手の平で触るとしっとりと冷たく、少しちぎって口に含めば、かすかな酸味と甘みを残して舌の上で溶けていくのです。

上を見上げれば、桃茶の苔の壁は高い所まで聳え立ち、手の届かないようなてっぺんの方は、淡い桜色の苔で満ちていました。


このような光景は、今まで見たことがありません。


しばらく、地面までも透明な水の流れを足でかき混ぜて遊び、苔に頬を寄せ、何か他に面白い物はないかと探っておりました所、苔の壁の少し左下の方に、人一人が入れるような穴があったのです。

興味をかきたてられてそこに屈めて入ると、膝を抱えて座ればちょうどいい、私の身体に合った按配の穴ぐらでした。

穴の中も苔でふわりとしていて、水の流れに座っている為腰まで濡れましたが、あまり気になりません。

桜のような香りがふわふわ漂って本当に心地が良いので、しばらくそこで目をつむり、ちゃぷちゃぷと奏でる水のオーケストラを聴いておりました。


そこに、


『覚えているか、覚えているか』


とのんびりした声が聞こえてきましたので、咄嗟に


「覚えているよ」


と返しました。


その途端、桃茶の苔と水と金魚達は消え、懐かしい風景の中に立っていたのです。

私は、なんだぁこれは、おばあちゃんの家の近くのススキ林じゃないかと驚きました。

ススキは金色の風を受けて、更に輝く小麦に似た色を返します。

ツイツイと空気を横切っていくのは、見事な朱色の蜻蛉の群れでした。


『お前はよく、ここらで数珠玉の実を取ったろう』


また、のんびりした声が響きました。


「そうだ、私は数珠玉で首飾りやら腕輪をつくっていたよ。それはもう、柘榴石みたいに綺麗だったんだ」


『お前のおばあちゃんが磨いた数珠玉は、いっとうピカピカ光ったろう』


「うん、そうだよ。東京の宝石屋の、いっとう高い柘榴石みたいに光ったよ」


『そうだなあ、そうだなあ』


その途端、金色のススキ原と蜻蛉の群れが消え、私はまた懐かしい風景の中に立っていたのです。

粗末な家の前の、砂利の道でした。

家の前にはトウガラシが植えてあり、したたるような赤を魅せています。

隅に置かれた錆びた赤い三輪車の握り手には、桃色のふさが飾ってありました。

私は、なんだぁこれは、おばあちゃんの家の前じゃないかと、懐かしくて泣きそうになりました。


『お前は、よく一人で上手に遊んでいたなあ』


「うん、そうだ。一人で遊んでいたよ。一人でもとても楽しかったし、おばあちゃんやお母さんとご飯を食べるのも楽しかったよ」


『お前が一人のときに、相手をしていたヤツを知っているかい?』


「知らないよ」


『そうか、そうか。知らないままでいいよ。ところでおいらのことは覚えているだろうね』


声に振り返りますと、白と黒の模様の立派な猫が、ブロック塀の上でねっころがっていました。


「ああ、ああ、ノラじゃないか。まだ生きていたのかい?居なくなった時、随分探したんだよ」


私が嬉しくなって言うと、猫は得意げに銀色に光るヒゲを弾きました。


『おいらの好きな食べ物を、覚えているかな』


「うん、覚えているよ。お前は海苔がいっとう好きだった。上あごに張り付いて苦しいのに、それでも寄越せとせがんでいたじゃあないか」


『顎に張り付く感じが、好きだったのだなあ。海苔が好きな猫は、おいらくらいしか居ないだろうね』


「うん、君以外にはあんまり見かけないよ」


私の言葉に、猫は更に嬉しそうにヒゲを弾きます。

弾かれたヒゲはチリリと青い電気を出しました。


『あの時のお前は、周りが大好きだっただろうね』


「うん、大好きだったよ。皆優しいし、一人で遊んでも楽しかったよ。おばあちゃんの作るご飯は美味しいし、お母さんとお風呂に入るのも楽しかったよ」


『おじいちゃんの膝でご飯を食べるのは、楽しかったかい?』


「そうだ、とても楽しかったよ。膝の上はガチガチグラグラしていて、おじいちゃんの手は黒くて大きくて、血管が浮いていてね、指でなぞるのが楽しかったよ。なんで別々に住んでいたのか、わからなかったけれど」


『そうだなあ、そうだなあ』


ふと、粗末な家や、三輪車や、砂利の道が滲んで見えました。

雨でも降るのかと思ったのですが、どうやら涙で歪んだようなのです。


「ノラ、戻りたいよ」


『そうだなあ』


「お前が生きているなら、おじいちゃんやおばあちゃんも生きているのだろう。それで、お母さんは帰りが遅くても、急いで帰ってきて私を一番に抱き上げてくれるんだろう?そうじゃないのかい?」


『そうだなあ、そうだなあ』


「戻りたいよ、戻りたいんだよ。ノラ、寂しいよ」


『そうだなあ、寂しいなあ』


猫の返事に、私は更に悲しくなってわんわん泣いてしまいました。

砂利の道の奥の、駐車場の近くの栗林や、お隣さんのトタン屋根も滲んだ後にぐにゃぐにゃと歪んでしまいました。

それでも涙は止まらないのです。


「ノラ、ノラ、返事をしておくれ。戻れないのかい」


『覚えているだけで、いいんだよ』


「でも私は、寂しいよ」


『カブトムシの事を覚えているかなあ』


「うん、かあいそうなことをしたよ」


『クワガタもいたっけね』


「そうだよ、本当にかあいそうなことをしたよ。私が殺してしまったんだよ」


『インコの数が減っていたのは知ってるかい?』


「あれはお前の仕業だろう?」


『なあんだ。お前は全部、覚えているじゃあないか。おいらは嬉しいよ。なあ、皆、そうだろう?』


『そうだなあ、そうだなあ』


景色が急に消えたと思ったら、私は桜と水のかぐわしい香りがふわふわしている、桃茶の苔の穴の中にしゃがんでおりました。

腰は水に遣っていて、傍をちゃりりと金魚が泳いでいます。


「ノラ、いってしまったのかい」


懐かしい、恋しい景色と可愛がっていた野良猫の面影をさがして、私は桃茶の苔と、水と魚しかない世界をうろうろと歩きました。


「ノラ、ノラ。おじいちゃんとおばあちゃんも、本当は生きているのだろう?返事をしておくれよ」


ふと、


『覚えているか、覚えているか』


と、のんびりと間延びした猫の声が聞こえて、私は強く


「覚えているよ、覚えているとも。全部だよ。」


と答えました。





『嬉しいなあ、充分だなあ、おいらは嬉しいんだよ』


「ノラ、姿を見せておくれよ。寂しいよ」


『忘れられたら、悲しいなあ』


「忘れるものか。忘れないとも。だから出ておいで、あの時に戻らせておくれよ。何も知らなかった頃に戻りたいよ」


『そうだなあ、そうだなあ。』




ふと桃茶の苔の世界に、再び氷の膜のようなものが見えました。


『いつでも遊びに来ればいいよ』


「寂しいのに、帰らなきゃいけないのかい」


『外へ出て、目を開けるだけのことだ。なあんてことはないんだよ。忘れさえしなければ、大丈夫さ』


私は戻れないことを知って、泣きながら氷の膜から外へ出ました。

桃茶の苔も、透明な水も、金魚もメダカも、猫の声もなくなりました。

あるのはただ、自分の住まう粗末な部屋と、雨に濡れた鉢植えの雫くらいなものでした。



-覚えているか、覚えているか。


私は口ずさみます。


-覚えているよ、覚えているとも、全部だよ。


-それなら良かった、おいらはとても嬉しいよ。


手の中の水晶の欠片を覗き込むと、その中には桃茶の苔と、きらきらしい水の虹明かりが入っています。

その中に、猫とあの時の世界が生きているのだと思うと、私は悲しくて、同時に少し嬉しい気もして、なんだかよくわからなくなりました。

そっと引き出しに水晶を仕舞うと、私は部屋を出て散歩に出かけました。

濡れた頬を乾かすのは、夜風が一番得意な仕事だからです。


細い月が猫の爪のようで、私はもう一度「覚えているよ、全部だよ」と唱えました。


これがこの前の夜の、出来事です。


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