きみの贈りもの
「女子って、なんで女子にもあげるの?」
文貴は瑠花に尋ねたが、瑠花は返事をするのも面倒くさそうだった。
二人は文貴の家のキッチンで、はかりで丁寧に材料の分量をはかっているところだった。
「バレンタインって女子が男子にあげるもんじゃん。なんで女子同士で交換するんだよ」
「女の子は甘いものが好きだからだよ」
瑠花は数字をチェックする。文貴の家のはきちんとしたデジタルスケールで大変見やすい。瑠花の家にあるアナログのものだと、いちいちしゃがんで針がどの数字を指しているかチェックしなければならない。
「女の子にはいろいろ付き合いってのがあるの。あーあ、それだったら、どうしてバレンタインって女子が先にあげるんだろう。ホワイトデーとバレンタインデー逆にすればいいじゃん」
「え? 意味わかんない」
「男子が誰にあげるのか見てから作戦立てたいんだよ。こっちは、美波ちゃんはクラス全員にあげるとか、まりちゃんは女子だけとか、歩ちゃんは仲良しの男子と女子何人かとか、そういうの最初に考えないといけないんだよ」
へたに誰かにあげ損ねたら、クラス替えまでの間、教室の居心地が悪くなる。ここは慎重にいかないといけないのだ。
「僕もホワイトデー先のほうがいいな」
「ん? なんで? くれた子だけにお返しすればいいじゃん。すっごい楽だよ」
「女子ってホワイトデーにうちのお菓子ほしいから寄越すんだよ」
文貴の家は、地元だけでなく遠方からも客が来るほど人気の洋菓子店だ。二人がこうしてのんびり自宅のキッチンで粉をふるっている間にも、隣の店舗ではまるで嵐のように女性たちが押し寄せてお菓子を買って去っているのである。
バレンタイン直前の今は特に忙しい。ケーキ屋にとって、クリスマスの次くらいに忙しいのがバレンタインだという。ただでさえ普段から仕事がたくさんあるのに、十四日までの予約商品を作るのに毎日夜遅くまで文貴の父は作業をしているらしい。
「みんな父さんのケーキ食べたいからチョコ押しつけてくるんだもん。手作りおいしくないし。本当にあげたい子だけにあげたい」
「手作りおいしくないのは、フミくんがおじさんのケーキ食べてるせいだよ。そういうの知ってる? 舌が肥えてるって言うの」
確かに父の作るものはどれもおいしい。それは否定できないでいる文貴だ。外国の有名なお店でずっと修行して、今でもずっとケーキが何より一番大切で、日本中――いや、世界中のお菓子を食べて研究を怠らない。文貴はそんな父親が好きだった。
「別に、喜美ちゃんとか剛くんのも食べてるよ。実験台だもん」
父のケーキは売りきれることも多い。そんな父のもとで修行している見習いパティシエたちのお菓子のほうが最近はよく口にしているかもしれない。子どもならではの意見とか難しいことを頼まれるけれども。
見習いの人たちの作るものは面白い。同じものを作っても、その日によって味がまったく違う。もちろん、ちゃんと基礎はみっちり学んでいるから、焦がしたり変なものが入っているといったあからさまな失敗はない。けれども、スポンジが重かったり軽かったり、バターが強かったり弱かったり、そんなちょっとした差があって不思議なのだ。
それを瑠花に言うと呆れられた。
「だから、そういうとこ! あんまり余所で言っちゃだめだよ。フミくん自慢してるもん」
とっくに粉をふるい終わって、室温に戻したバターをボウルのなかでかき混ぜながら瑠花は肩をいからせた。泡立て器についているバターを、乱暴にボウルの縁を叩いて落とした。
「でも、甘いもの食べると太るんだよ。だからうちの母さん、もう何も食べないもん」
いつも甘いものを片手にしている父だって、時間があるときは町内をランニングしている。でも、何十キロもある粉袋を持ち上げたり、とても重い鉄板を軽々移動させてるんだから、そこまで走らなくても運動になってるのに、とも文貴は思っていた。
「なんでみんな食べたがるのかな。お返しに父さんのお菓子がほしいってさー。余り物でもいいの?」
「杏奈ちゃんのお母さんが言ってたけど、バレンタインでちょっとチョコ送るだけでもらえるからラッキーなんだって」
瑠花はどこでそんな情報を手に入れるのか。文貴は心底不思議だった。女子のネットワークの恐ろしさを齢十歳にして実感してしまった。
でも、杏奈の母親みたいな人が他にもいることはなんとなく知ってる。今年は何をくれるのかとか露骨にリサーチとやらをしてくる人もいるから。
「あー、やだなー。今年は父さんのお菓子あげないよって言っちゃおうかな」
「それがいいよ。フミくんの手作りお返しにすれば」
「おいしいのかな、それ」
「なんだかんだ言って、フミくんだって上手だよ。こうやって手伝ってくれてるしさ」
瑠花がお菓子作りを教えてほしいと言ってきたのは、今からさかのぼること一週間前。今年のバレンタインは手作りチョコに挑戦したいとのことだ。いつもは食べるほうに気合いを入れている彼女にしては珍しいお願いだった。
その少し前に、文貴がようやく家族用のオーブンなら使ってもいいと許され、彼女にはときどき作ったものを渡していた。
しかし、文貴だってまだようやく簡単なお菓子の反復練習ばかり。その出来具合を知っている瑠花がそれでもいいと言うので、二人で基本のクッキーを作ることにしたのだった。
「別に。僕、まだまだ下手だよ」
「そんなことないよ」
「材料がいいだけだよ」
父から許可をとって、文貴は店と同じ材料を使わせてもらっている。プロが商品に使うものとして選んでいるわけだし、初心者小学生の文貴が作ってもそれなりの味にはなる。
「あ、材料か。それはあるかも」
今まではさんざん卑屈な文貴を否定し続けてきた瑠花が、そこだけはあっけらんと笑って肯定する。文貴は自分のボウルに砂糖を入れながら頬をふくらませる。
「瑠花ちゃん、うちの材料が目当てだろ」
「まっさかー。ちゃんとお礼にお煎餅持ってきたじゃん。フミくんちはお菓子いっぱいあるし、しょっぱいものにしたんだよ。偉いでしょ?」
確かに塩気のあるものはありがたい。甘いものばかりだと舌が鈍くなりそうだ。あとで父が試作品を持ってきたあとにでも食べよう、と文貴は紙袋に入った缶箱を横目で見た。
砂糖を加えて練ったバターは、それだけでもおいしそうに見えた。ここに卵を追加したら、濃厚な甘みが好きな人はそれだけで満足できそうだ。
しかし、まだ完成ではない。卵を入れる前に溶かしておいたチョコレートを入れる。黄金色のバターがみるみるうちに茶色に染まっていく。泡立て器で固さを確かめた文貴は、同様の作業をしていた瑠花のボウルの状態を確かめる。
「これで大丈夫?」
「うん、いい感じ」
そう言ってやると、瑠花はほっとしたように微笑んだ。文貴もにこりとすると、卵とバニラエッセンスとナッツを手渡した。それを順番に混ぜていき、最後に薄力粉とベーキングパウダーを加える。こうして作ってみると、実に単純なものだ。しかし、同じようにやっているはずなのに、父が手本で作ってくれたクッキーの方がずっとおいしかった。
「簡単なものほど難しいんだよ」
自分で作ると、その言葉の意味が次第にわかってきた。レシピはもらっていて、材料も同じ。それなのに全然辿りつけない。
文貴はふと、夏休みに訪れたひまわり畑の迷路を思い出した。中央に大きな風車があって、鈍い音をゆっくりと吐き出していた。風車はちょうど太陽を背にしており、地に落ちた羽の影が自分を代わる代わる撫でていって、からかうように太陽が見え隠れしていた。
文貴はまずはその真下に行きたかった。一番大きく見えるだろう位置から見上げたかった。しかし、いくら道を辿っても風車に行き着く道はなかった。参加者を惑わすためかどうか、風車へ至る道はなく、あの周囲はすべてひまわりで囲まれていた。
父はあの風車と似ている。大きくてすぐ見えるような場所にあって、でもいつまで経っても近づけない。冬で暖房が効いていてもまだ寒いと感じるほどの室温なのに、首のあたりがじりっと焼け、蝉の声が一瞬蘇った気がした――あの途方に暮れた夏が。
「フミくん? フーミくん」
気がつくと、瑠花の白い手がひらひらと舞っていた。
「これで寝かせるの?」
瑠花は、既にまとまっていた自分と文貴の生地を木ベラで交互に指す。慌てて文貴は頷いて、ボウルの中身をラップにくるんで、冷蔵庫に入れた。
キッチンタイマーをきりきりと回しながら、文貴は冷蔵庫のなかを気にした。
「名前書いておかなくも大丈夫? どっちがどっちだかわからなくない?」
「ヘーキヘーキ。ちゃんと覚えてるから。それに、見ればわかるよ。フミくんのはちゃんとしてて、私のはちゃんとしてないもん」
なんだよそれ、と文貴が言うと、瑠花はへらへら笑った。瑠花からしたら、自分のはあんまりきれいにまとまってなくて、文貴のほうはこの時点でしっかりしているように見えるのだった。
「同じだよ、僕と瑠花ちゃんくらいなら。一緒に作ってるんだから、そんなにかわらないだろ」
「一緒に作っててもおじさんと全然違うって、こないだ自分で言ってたじゃん」
「父さんはプロだもん。僕が言ってんのは、瑠花ちゃんと僕の話で」
「だーいじょうぶだって」
何が大丈夫なんだか。
「私からしたら、フミくんのほうがずっとうまいんだって」
瑠花が自信満々に言ってのけた根拠が、文貴にはさっぱりわからなかった。
生地を寝かせる時間は一時間。暇だろうからとゲームを用意していたのに、オーブンを温めたり洗い物をしたりと次の作業の準備をしていたら、あっという間にタイマーが鳴った。
生地を均等に伸ばして型で抜く。使うクッキー型も、文貴の父のコレクションから拝借していた。このあたりには売っていない、珍しくて洒落た形もある。万が一他の女子がクッキーを持ってきても大丈夫にちがいない、と瑠花は頷いた。
星、鳥、クローバー、三日月、ティーカップ。かわいらしい形になった生地を楽しそうに並べている瑠花の横で、文貴は緊張していた。オーブンや火には気をつけるようにと何度も注意されている。父ですら今でも時々火傷をするのだ。自分にきちんと扱えるか、文貴はいつも不安だった。
「フミくん、百八十度だよね?」
「うん」
「じゃあ入れちゃうね」
幼馴染の迷いなどまったく考慮せず、瑠花はためらいもなくオーブンを開けて天板を入れた。
「あ!」
「え、だめだった?」
だめじゃないけど、と文貴は赤く照らされたオーブンのなかを見つめる。ケーキだったら膨らむところをずっと見ていたいところだが、クッキーは地味で、焼く最中を見てもそれほどときめかない。
「瑠花ちゃん、オーブンとか怖くない? 百八十度だよ?」
「痛いのはやだけど、気にしてたら使えないよ」
瑠花のそういう大らかな性格が羨ましかった。
「なに、フミくんは怖いの?」
「火傷したらお菓子作り禁止されるから」
だからつい慎重になってしまう。実際、一度腕が熱い天板に触れそうになって大惨事になりかけた。
瑠花は、オーブンのなかのクッキーと文貴を交互に見る。
「思うんだけどね、大縄跳びと一緒じゃない? あれって、怖々やったらうまくいかないじゃん。気にせずパパッとするほうがいいんじゃない?」
フミくんの弱虫。瑠花がそう笑うのは今に始まったことじゃない。幼稚園のときからずっとそうだ。
「弱虫で悪かったね。慎重派なんだよ」
この台詞を返すのも何十回目だろうか。文貴が膨れると、瑠花はのんびりと言う。
「でもさ、お母さんが言ってたんだけど、お菓子って料理と違ってレシピをきっちり守んなきゃいけないんだって。だからフミくんには向いてるんじゃない」
融通がきかないと言われることも少なくない文貴は複雑な思いだった。けれども、それは父譲りのような気がする。少しでも出来上がりに問題があると、文貴にとっては十分おいしいものでも父は容赦なく捨てる。それが職人なんだという。
以前は自覚がなかったけれど、周りの人たちに言われたり実際に自分でお菓子作りを始めてみると、父は偉大だと実感する。お菓子が絡まないときはただのオジサンなのに。
「父さんみたいには、なれないよ」
「どうかなー? フミくんとおじさんって結構似てると思うよ?」
「それ、どういう意味?」
パティシエというとかっこいいが、父は背が高くてクマみたいな外見で、知らない人からは見た目だけで怯えられる。あんまり自分とは似ていないと思っていた。
「フミくんは……プーさんかな」
反論を考える暇もなく、アラームが鳴る。瑠花はオーブンを指した。
「ほら、フミくん」
文貴はためらいがちに開ける。香ばしい匂いが曲線を描きながら飛び出してきた。
「うわー、すっごーい」
瑠花はキラキラとした笑顔を浮かべる。文貴はミトンをしっかり装着した。
いつもはおそるおそる取り出して天板を傾けたりするが、今回は余計なことを一切考えずに、台に乗せる。見事に焼き上がったクッキーたちが、文貴を見つめていた。
天板から外してクッキーを冷ます。その前に、まだ熱いのを二人でつまみ食い。
「おおおおお」
瑠花は大げさに声を出した。
「おいしい? 熱い?」
「ふわぁー、やっぱりフミくんのはちがうわー。うん、すっごくおいしい。おいしいよ、フミくん!」
おいしい。その単純な一言が嬉しかった。あまり自分で作ったものをそう思うことはなかったが、確かに今回のクッキーはやけにおいしく思えた。
ほどよく冷めたらラッピングをして、文貴のクッキー教室は大成功で幕を閉じた。後片付けをしていたらすっかり暗くなってしまって、文貴は瑠花を送り出す。
「バレンタイン、楽しみだね」
「え?」
瑠花は不意をつかれたような声を出した。
「え、って。いつも瑠花ちゃんいっぱい交換してるじゃん。そのために今日も頑張ったんでしょ?」
瑠花は目を一瞬そらす。
「うーん、もういいかな」
文貴はびっくりした。あの瑠花が、いつもチョコレートを両手いっぱいに抱えてホクホク顔の瑠花が、そんなこと言い出すなんて思わなかった。今年に限っていきなりお菓子作りとか言いだすし、なにか悪いものでも食べたのだろうか。
「な、なんで?」
「……だって、私のバレンタイン、もう終わったもん」
「え?」
文貴は絶句した。まだ当日にすらなっていないのに、何を言うのか。
「作るだけ?」
「そうだよ。作って終わり」
何だよそれ、と文貴が呆れていると、瑠花は笑いながら手を振って行ってしまった。瑠花は毎年、たくさんチョコレートをもらってこそのバレンタインと主張していたのに。
文貴は不思議に思いながら、瑠花の背中を見つめていた。彼女の手には、一緒に作ったばかりのクッキーの袋が踊っていた。
バレンタイン当日。文貴はある意味モテていたが、例年よりも収穫は少ない。
「今年のお返し、父さんのお菓子じゃないけどいい?」
その一言で、文貴へのチョコレートは半減した。思いのほか父のお菓子が目当ての女子が多くて、心がくじけそうになる。現実ってそんなものだ。
「おっはよー」
瑠花は教室に着くなり、クラスメート全員に渡す勢いでクッキーを配りはじめた。瑠花から口止めされているので、文貴が手伝ったことは秘密だ。
「おはよ、フミくんもどーぞ」
「なに? 僕はもう食べたじゃん」
「違うんだな、それが」
瑠花は不敵な笑みで袋を開ける。
「足りなそうだったからうちで補充したの。というわけで、先生食べてください」
確かに、一緒に作ったものと若干違う。ひとつ摘まんで頬張るみると、少し硬くて味が薄かった。
瑠花も同じようにして自分の作品を口にする。そして、首をかしげた。
「うーん、やっぱりフミくんと作ったのに比べるとねえ」
「これもご愛敬ってやつじゃない?」
瑠花はニカッと笑った。
「私は、やっぱりフミくんのお菓子が食べたいな」
瑠花がこっそり囁いた。
「ホワイトデーは私が手伝ってあげるね」