私と小便器
トイレへ行き、小便器の前に立ってチャックを降ろすといつも、私の脳裏にはこんな疑念が浮かぶ。
『目に見えているものが真実とは限らない。ここは、トイレではないかもしれない。ここは本当にトイレなのか?』
『これは何者かが私に見せている幻なのではないか?』
『ここは実はトイレではない、もっと別な場所のではないか?』
この時、私は用を足すことを躊躇う。そしてとどまる。
もしもこれが本当に幻だとしたら、ここがトイレではなく、例えば、
例えば道のど真ん中だったら、例えばナトリウムを挟んだ新聞紙の上だったら、例えば女の子の前だったら、例えば墓場だったら、
だったら、どんなに大変な事態か。
……想像してもらいたい。
道や墓場のど真ん中で堂々と用を足し、小さく身震いする男の姿を。そして、もしもそれが自分だったら。
……想像できただろうか。
これは実に恐ろしいことである。うっかり放ってしまえば私はゴートゥージェイルだ。そこには格子と服のダブルしましまライフが待っている。それは回避すべき未来だ。私は望まない。避けなければならない。
私は慎重に辺りを見渡してチャックを元に戻してから、便器を離れて鏡の前へ移動する。
それから、鏡を覗いて少し体を動かしてみる。鏡が私についてこれなかったら私の勝利だ。何も起きなければ不戦勝ということになる。たぶん。
体を動かす。手を振る。変顔。ジャンケン。その他諸々。なりふり構わず多種多様で予測不可能な動きを次々と繰り出し、鏡の向こうの幻と戦う。私は必死の形相で像と格闘するのだ。
結果は不戦勝。何も起きなかった。恐らく、これは幻ではないのだ。恐らく。
そうして便器の前に戻ると、またあの疑念が私を襲う。
『私は負けたのではないか?』
『やはりここはトイレではないのではないか?』
疑念を少しでも晴らすために私は壁など周りを少しぺたぺた触ってみたりする。
汚い。だが、これは大事な作業だ。現実がそこにあることをきちんと確かめるための。そう。これはここにある。壁はここだ。便器はここだ。確かにここにある。ここにあるはずだ。ここにあるはずだ。
しかし、触覚も疑わずにはいられない。(触覚についての思考は省かせていただく)(触るということの魅力は、バラバラにして綺麗に並べて吟味することさえ野暮、いや、禁忌――とさえ感じてしまうほど神聖なものだからだ)
信じてもいいのか? 自分の感覚を信じてもいいのか? 私は不安になる。不安に食われてしまいそうなほど、焦燥と心許なさを感じる。縮こまる私は惨めだ。
嗚呼、惨めなジョニー。
……原点に戻ろう。
まず、私に幻を見せて誰が得をするのだろうか?
……私が損をすることは間違いない。
では私が損をして得をする人物……。
わからない。
だが、私が損をしてそのナニガシかが得をすると言うのは気に入らない。私を生け贄に、踏み台にしてそのナニガシが手に入れるものとは何なのか?
そうやっていくつかの考えごとをこなすと、私は最後にはあきらめてしまう。
そして、出来るだけ感情を込めてこう言い、用を足すのだ。
「君に、幸あれ」
そうやって用を足すと、私は何事もなかったかのように廊下に、普段の生活に、戻ってゆくのだ。
そして、チャックが全開のままであることに気づくのは、帰りの電車の中だったりするのだ。