残された花園
私が昔使えていた女性の話です。
奥様は旦那様ととても大きな洋館に住んでいました。その白亜の洋館には、旦那様が海外から取り寄せたという、大輪のダリアが咲き誇る広大な花農園が広がっていました。 戦前、お二人がまだ若く、光そのもののような日々を送られていた頃、庭一面に広がる鮮やかな紅や純白のダリアは、まるで奥様の華やかな美しさを映し出す鏡のようでした。 けれど、長い戦争がすべてを変えてしまいました。「これを撒けば、次の季節もきっと大輪を咲かせてくれるわ」 終戦を迎えてから数ヶ月が経った頃。 奥様は毎朝、泥にまみれ、白い手を傷だらけにしながら、ダリアの根元にせっせと肥料を撒き、硬くなった土を小さなシャベルで耕しておいででした。 食糧にするための芋を植えるよう勧める周囲の声を拒み、戦中からずっと、奥様はただ旦那様が愛した花々だけを守り続けてきたのです。配給の貴重な油やわずかな蓄えを、闇市で仕入れた異国の肥料へと変えてまで。 少女の頃からお仕えしてきた私は、その痛々しいほどの手入れの姿を、ただ見守るしかありませんでした。「ねえ、見て。今年も綺麗に咲いてくれたわ。あの人が帰ってきたら、一番にこの花を見せてあげるの」 手入れを終え、居間の大きなステンドグラスの出窓から庭を見つめる奥様の横顔は、日に日に現実の肉体を失っていくかのように神々しく、そしてどこか儚く透き通っていました。 皮肉なことに、男たちが戦場で次々と命を落としていく間も、奥様の異常なまでの執念に応えるように、庭のダリアは残酷なほど美しく、狂おしいほどに咲き誇っていました。 その瑞々しい大輪は、旦那様の無事を信じる祈りであると同時に、奥様をご自身を辛うじてこの世に繋ぎ止めるための、細い糸のようでもありました。 あの日、あの重い鉄製の門扉が、軋んだ音を立てて開くまでは。 生きて帰られた旦那様はかつての優雅な紳士の面影をどこにも残していらっしゃいませんでした。五体満足ではあっても、その魂は南方のどこか泥深い戦地に置いてこられたようでした。 それからというもの、ある日は何かに怯えるように部屋の隅で一日中虚空を見つめ、またある日は、突然獣のような声を上げて暴れ狂う。「入っては駄目」 ガラスが砕け散る激しい音が響くたび、奥様は私を部屋から遠ざけました。 翌朝、奥様のブラウスの襟元から痛々しい青あざが覗いていても、奥様はただ「あの人はまだ、遠い場所にいるだけよ」と、ひび割れた唇で微笑むだけでした。 医者は「時間の問題だ」と匙を投げました。奥様はめげずに旦那様の世話を続け、狂乱する旦那様を抱きしめ続けましたが、お二人は昔と見る影もなくやつれていきました。
そして何より、あの花園が、急速に死を迎えつつありました。 奥様が肥料を撒くことも、土を耕すこともできなくなった庭では、あれほど狂い咲いていたダリアがにわかに生気を失っていきました。青かった葉は病んだように黄色く変色し、茎は自らの頭の重みに耐えかねて、ぽっきりと不自然に折れ曲がっていきました。 旦那様が帰ってきてから、半月ほど経ったある月夜のことです。 私が廊下の灯りを消して回っていると、薄暗い居間の出窓に、ぽつんと佇む奥様の影が見えました。 月光に照らされたそのお姿は、頬が削げ、かつての面影がないほどやつれ果てていました。窓の向こうの庭では、かつて闇市で高価な肥料を買い求めてまで生かし続けたダリアたちが、黒ずんだ花弁を泥の上にボトボトと落としています。 どんなに水をやり、どんなに肥料を注ぎ、どんなに手を尽くして、無理に生き長らえさせようとしても、この世の美しさには、そして人間の心には、限界がある。 庭の骸のような花々を見つめる奥様の横顔は、悲しいほどにそれを物語っていました。すべてを諦めたような、不気味なほど静かな美しさがそこにありました。 翌朝、洋館に仕えるすべての使用人が一斉に呼び出されました。「今まで、本当にありがとう」 奥様は、私の手元に異例の額の退職金が入った封筒を握らせました。「もうお暇をあげるわ。これからは、あの人と二人きりで、誰の目も気にせずに過ごしたいの」 それは、凛とした、けれど一切の反論を許さない拒絶の微笑みでした。 手入れを失い、完全に枯れ果てた花園の向こうで、白亜の洋館はまるで巨大な棺桶のように静まり返っていました。私は胸を騒がせながらも、その日のうちに、生まれ育ったお屋敷を追い出されるように去るしかありませんでした。
数日後、風の噂で聞いたのは、一筋の煙のような無理心中の報せでした。 お二人が重なり合って倒れていたのは、あのダリアの農園だったといいます。 私は今でも目を閉じるとあの庭を思い出します。
戦争は戦場だけでなく、奥様が命がけで生かそうとした美しい花園の幸福まで、すべてを空の向こうへと連れ去ってしまったのです。




