第四十四話:■■の■■
入り口は身を屈めなければ通れないほど狭かったのですが、幻影の岩肌を抜けた先は、意外なほど広い空間になっていました。
ひんやりとした湿った空気が、頬を撫でていきます。
『《特にガスなどの問題もないようだが、明かりは一旦やめておけ。解析は構わん。》』
(了解ですわ。——【真理解析】)
完全な暗闇だった洞窟内の情報が視覚化され、脳内にマッピングされていきます。
どうやら分かれ道はなく、地下へと続く緩やかな一本道のようでした。
『《貴様は移動に集中しろ。警戒はワガハイが請け負う。現状分かっていることは、この奥に部屋らしき空間があることと…そこに「誰か」いることだ。》』
(誰か? 詳細は分かりませんの?)
『《分からん。人…ではあると思うが。罠の可能性もある、慎重に行け。》』
(承知しました。)
(念の為…術式起動—【影幕】)
わたくしの身体を、薄い闇の膜がすっぽりと包み込みます。
『《いい判断だ。この暗さならば有効であろう。ゆくぞ。》』
音を立てず、岩の道を慎重に進んで行きます。
やがて、先生の言った通り、少し開けた部屋のような空間に出ました。
真っ暗で全容は掴めませんが、人為的にくり抜かれたような整った構造をしています。
(ここは…)
わたくしがさらに内部を解析しようと意識を向けた、まさにその瞬間でした。
パァッ、と。
唐突に、部屋の中に魔術的な明かりが灯りました。
「おや…こんなところに来客とは珍しい。」
暗闇に慣れていた目が眩みます。
そして、部屋の奥に置かれた粗末な机の前に座る人影が、正確にわたくしが隠れている場所を見据えて、そう問いかけてきました。
(【影幕】を使っているのに、気付かれた…!?)
背筋に冷たいものが走りました。
『《早まるな! 一旦様子を…!》』
先生が脳内で鋭く制止します。
「警戒しなくても結構ですよ。…素晴らしい隠密魔法ですが、私には視えています。今、争う気はこちらにはありません」
男は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ向き直りました。
整えられた髭、学者を思わせる身なり。
——間違いありません。あの街道の森で遭遇した、古代の装置を仕掛けていた謎の男です。
男は、余裕の笑みを浮かべて言いました。
「話をしませんか? ——アルクライドのお嬢様。」
ドクンッ——!
自分の心臓が跳ねるほどの衝撃を受けました。
『《逃げるぞ! ルナイズ!! 奴は底が知れん!》』
先生の警告がガンガンと脳内を叩きます。
(……。)
頭では、先生の言う通りすぐに踵を返して逃げるべきだと分かっています。
ですが…。
(…いえ。ちょうどいいですわ。話を聞きましょう。)
(わたくしは、大丈夫ですから。)
わたくしは自ら術式を解除し、闇の中からその姿を現しました。
そして、堂々と一歩前へ出ます。
「ようこそ、私の研究室へ。どうぞこちらに。」
謎の男は、まるで晩餐会に招き入れる紳士のように、机の向かいにある椅子を引き、手招きしました。
わたくしは無言のままその誘いに乗り、警戒を解かぬまま椅子に腰を下ろします。
「さすが、度胸も一級品ですね。さて、何から話しましょうか…」
男は心底楽しそうに笑っています。
「貴方の目的は…なんですの?」
わたくしは、鋭い視線を男に突き刺しました。
「目的…目的ですか。簡単に言えば、復讐ですね。」
「ふく…しゅう。」
「ええ。セレスティナ様は…」
「その名前は、捨てましたの。」
わたくしは冷たく言い放ち、男の言葉を遮りました。
「…ルナイズと呼んでいただけますか?」
『《ルナイズ! いい加減にしろ、何をやっている! 話を聞くにしても、自分から情報を与えすぎだ!》』
先生が激怒しています。
(…ごめんなさい、先生。でも、これだけは譲れませんわ。)
男は少し驚いたように目を見開きましたが、すぐに恭しく頷きました。
「承知しました。ルナイズ様、ですね。…ではルナイズ様。貴女は、ご自身を不当に扱ったアルクライド家に対して、何もしないのですか?」
「…わたくしは、あの方々のために使う暇など持ち合わせておりません。」
「なるほど、それは高尚なことですね。…私としては、あの複雑な古代の装置をいとも簡単に解除し、私のゴーレムを傷つけるほどの凄まじい実力を持つ貴女様には、ぜひとも味方になっていただきたかったのですが…」
ダンッ!
わたくしはテーブルを叩き、勢いよく立ち上がりました。
「なんで、貴方はわたくしのことを、そこまで知っているのですか!?」
わたくしの激昂に対し、男は不敵に笑うだけでした。
「さぁ、なんででしょうね。私から一つ言えることは…私は、貴女様と戦いたくないということです。」
「…あのゴーレムは、明確に殺しに来ているようでしたが?」
「おや、その節は申し訳ありませんでした。貴女の実力を測りたかったのですが…少々張り切りすぎたようです。それでも、貴女には足りない相手だったようですがね。」
男の飄々とした態度は、わたくしの苛立ちをどこ吹く風と受け流していました。
「…ふざけないでくださいまし。貴方、わたくしをどうしたいのです?」
「先ほど言ったでしょう。味方になっていただきたいと。」
男は少しだけ目を伏せ、机の上で静かに指を組みました。
その瞬間、彼が纏っていた飄々とした空気が、スッと冷たく、ひどく暗く重いものに変わりました。
「この王国は腐りきっている。自分たちの権力や体裁のためならば、たとえ才ある者であっても、あるいは愛すべき弱者であっても、平気で『捨て駒』にし、生贄として切り捨てる。」
(生贄…?)
「ええ。貴女も、そうして理不尽に捨てられた側の一人だ。…だからこそ、私がこの国を壊すための手助けをしてほしい。」
淡々と語る男の言葉の奥には、狂気にも似た憎悪が渦巻いているのが分かりました。
「お断りしますわ。先ほども言いましたが…わたくしには、そんな暇はありませんの。やりたいことがたくさんありますから。」
男は驚いたようにこちらを見つめ、耐えきれなかったのか失笑しました。
「…ふふふ。ええ、本当に。その決して己を歪めない気高い瞳は、よく似ている。」
「…?」
わたくしが首を傾げると、男はハッとしたように目を瞬かせ、すぐに冷たい笑みを浮かべました。
「ただの独り言ですよ。…さて、名残惜しいですが、そろそろ時間ですね。」
「ちょっと待ってください、わたくしはまだなにも…」
男は首を横に振り、拒絶の意思を示します。
「これ以上、私からお話しすることは何もありません。」
男は立ち上がると、懐から銀の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けて時間を確認しました。
「実はここにも、見られると厄介なモノが色々とありまして。申し訳ないのですが、あと数分でこの空洞ごと爆破させていただきます。」
「…はい?」
わたくしは、自分の耳を疑いました。
『《やはり罠であったか! 馬鹿ルナイズ!! 逃げるぞ!》』
脳内で先生が怒鳴ります。
ですが、男はわたくしに向かって、まるで夜会のエスコートをするかのように優雅に手を差し出してきたのです。
「巻き込まれる前に一緒に外へ出ましょう。出口までエスコートしますよ、ルナイズ様。」
わたくしは怪訝に思い、問いかけます。
「…貴方は一体何を考えていますの?」
「さぁ、案外何も考えていないのかもしれませんね。もしかしたら私についていくのは罠かもしれませんよ。」
少しだけ悩みましたが、なんとなく大丈夫、そんな気がしました。
わたくしは、男に向かって手を伸ばします。
「わかりました。今だけ信頼します。」
『《馬鹿者! なにをやっておる!》』
(先生、多分…大丈夫ですわ。ダメだったら…その時は、わたくしがなんとかします。)
男は微笑み、わたくしの手を取りました。




