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第四十話:前日

出発までの数日間、わたくしたちはそれぞれ旅の準備に費やしました。

わたくしはニーナから剣術の基礎を教わり、新たに習得した魔術の訓練をし、空いた時間には買い込んだ本を読み漁る——そんな、慌ただしくも充実した日々でした。


そして、いよいよ明日は出発の日。

わたくしはアルカディアでの最後の夜を過ごすため、エリーゼさんたちの家にお招きいただきました。


「エリーゼさん。今夜はお招きいただき、ありがとうございます。」

「いえ、私の方からご挨拶のためにお呼びしたのです。どうかお気になさらず。」 


食後の温かいハーブティーが入ったカップを両手で包みながら、エリーゼさんが微笑みました。

ですが、わたくしと向かい合って座る彼女の瞳は、どこか遠くを眺めているように感じられます。


「もう明日には、この街を発ってしまうんですね。…なんだか、とても寂しいです。」

「それは、わたくしだって同じですわ。この街では、エリーゼさんに大変お世話になりましたもの。」

「ふふ、元はと言えば、あの日街道で、私たちのことを助けていただいたところから始まったご縁ですから。私にできることなら、これからも何でも力になりますよ。」


エリーゼさんはそう言って、柔らかく目を細めました。

穏やかな時間が流れる中、わたくしはふと周囲を見渡します。


「そういえば、ニーナは?」

「ニーナなら、明日の旅に向けて自室で準備していますよ。」


そう答えた後、エリーゼさんは少し迷ったような表情を浮かべました。

カップの縁を指でそっとなぞり、小さく深呼吸をしてから、わたくしと真っ直ぐに向き直ります。


「ルナイズさん。改めて…ニーナを連れて行ってくださること、本当にありがとうございます。」

「この前もお話ししましたけれど、わたくしとしても心強い味方ができて助かるのです。お気になさらないでくださいな。」


わたくしが微笑んで返すと、エリーゼさんは、遠い過去を偲ぶようにそっと天を仰ぎます。


「…昔のニーナを知っているので、どうしても、気になってしまって。」

「昔の?」

「ええ。あの子、小さい頃から騎士になる夢にひたむきで、いつも一生懸命だったんです。」


エリーゼさんの声が、少しだけ震えを帯びます。


「だからこそ…自分の授かったスキルが、その夢と致命的に噛み合わなかったときの絶望は、凄まじいものでした。」

「ニーナは、スキルを使わなくても十分な剣の腕があります。そのまま剣技を磨いて頑張ってもよかったと思うんです。あの日のオーガだって、不意打ちさえ無ければ、彼女の腕なら倒せないまでも、二人で逃げ切れたと思います。」


エリーゼさんは、悔しそうに伏し目がちになります。


「スキルが合わなかったというだけで、自ら可能性の道を閉ざしてしまって。気を遣ってくれたご家族さえも拒絶して、この街に逃げてきた。…それでも、完全に夢を諦めきれている訳でもなくて。ずっと、心の中で混乱して、もがいていたのだと思います。」


わたくしは、ティーカップの水面を見つめ、少し目を伏せます。

「わたくしは、まだ子供ですから、よく分かりません。でも、夢というものは、そう簡単に割り切れるものでは無いのでしょうね。」


わたくしは、ゆっくりと顔を上げます。


「夢に激しく突き動かされる人がいれば、諦めた夢がいつまでも付き纏って、緩やかに溺れる人もいる。」


『《フン。可愛げのない意見よ。どこが子供だと言うのだ。》』

(ちょっと、黙ってくださいまし。)


わたくしは、エリーゼさんの瞳を真っ直ぐに見つめ返します。

「わたくしは、…そうですわね。ある意味、夢を無くした旅人です。あてもなくただ世界を視るための旅。大義などありません。」

「そういう意味では、まだ夢の残り火を抱え、ひたむきに向き合うニーナのことは羨ましく思いますし、頼もしく思えます。だから…きっと大丈夫ですわ。」


エリーゼさんは、わたくしの言葉に一瞬きょとんとしたかと思うと、やがて静かに笑いました。


「ふふ…ルナイズさんなら安心できます。ニーナのことは過剰に守ろうとせず、無理に立てようとせず、一人の騎士として扱ってあげてください。たとえ…どんな結果になろうと、私が貴女を恨むことはありませんから。」

「ええ、分かりました。わたくしの旅がほんの少しでも彼女の糧になってくれれば、幸いですわ。」


エリーゼさんは話し終わってスッキリしたのか、心のつかえが取れたような、晴れやかな表情になっています。


「そろそろいい時間ですね。今日は、ニーナの部屋で一緒に寝てもらえますか? 今後一緒に旅するのであれば、こういうことも必要でしょう。ベッドは二人で寝るには少し小さいのですが…」

「わたくしは構いませんが…エリーゼさんはそれでいいのですか? 最後の夜ですし、ニーナと寝たほうが良いのではなくて?」

「ふふ、ニーナったら旅に出ることが決まってから、ずっと私の部屋で寝てたんですよ。私はもう十分ですから。」


エリーゼさんは、本当に面白そうに、そして愛おしそうに語りました。その様子に、わたくしも釣られて笑ってしまいます。

「分かりました。それでは、お言葉に甘えて先に休ませていただきますわ。」


それから、エリーゼさんに部屋まで案内してもらい、廊下で別れました。


***


コンコンコン…

わたくしは、目の前の木製の扉を軽くノックしました。


「ニーナ? 入って大丈夫ですか?」

「…は、はい。どうぞ。」


ガチャリ。

扉を開けると、ニーナの部屋は綺麗に整頓されており、落ち着いた色合いの家具で揃えられています。

だからこそ、部屋の隅に置かれた、平積みの本たちが、ひどく申し訳ない存在感を放っています。


「綺麗なお部屋ですね。それだけに、わたくしの本がそのように置かれてしまって…すみません。」

「気にしないでください、ルナイズ。本当に構いませんから。」


ニーナは少し俯き気味に、腰掛けているベッドをポンポンと叩きます。


「狭いベッドで申し訳無いのですが、こちらへどうぞ。」

「はい、失礼しますわ。」


わたくしたちは、少し窮屈なベッドに、向かい合うようにして寝そべりました。

ランプの灯りが落とされた薄暗い部屋の中で、ニーナは少し照れたように顔を染めています。


「少し、恥ずかしいですね。」

「エリーゼさんとはよく一緒に寝ているのでしょう?」

「エリーゼは、ほら…小さい頃からよく一緒に寝ていましたから。」


ニーナは誤魔化すように、モゴモゴと布団に口元を沈めます。


「なら、慣れですわね。当分、宿は一部屋にして一緒に寝ますか?」


わたくしが冗談めかして笑うと、ニーナはスッと真面目な声色に変わります。


「…当分も何も、二部屋も取りませんよ。節約できるところはしていきましょう。」

ニーナのその堅実な返答に、わたくしは思わず小さく笑ってしまいます。


静かな夜が更けていきます。

しばらく互いの静かな呼吸の音だけが聞こえていましたが、不意に、ニーナがもぞもぞと動きました。


「ルナイズ…」

「どうしました?」


暗闇の中、ニーナの震える声が響きます。


「抱きしめてもらってもいいですか…? 不安なんです。」


それは、いつも凛としている彼女からは想像もつかないほど、弱々しく、小さな声でした。


「ええ、もちろん構いませんわ。」


わたくしは、彼女の背中に、優しく腕を回しました。

トントン、と。ゆっくりと、その背中を叩きます。

彼女の体温と、かすかな震えが伝わってきます。


「大丈夫。ニーナと一緒なら、きっとどこまでもいけますわ。」


わたくしの言葉に、ニーナは小さく頷きます。

やがて、彼女の震えが少しずつ治まり、穏やかな寝息へと変わっていきます。


明日から始まる、新しい旅。

わたくしたちは、その静寂の中で、深い眠りへと落ちていきました。

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