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閑話:イリス

「はぁ…はぁ…っ…!」


早朝の冷たく張り詰めた空気が、酷使した肺を刺すように満たしていく。

まだ日の昇りきらない薄暗い中庭には、私の荒い息遣いと、木剣が空を切る音だけが虚しく響いていた。


この早朝の鍛錬は、十歳の洗礼の儀を受ける前——

私がこのアルクライド公爵家の養子として引き取られた頃から、誰に言われるでもなく続けてきた日課だ。

誰よりも強く、美しくあり続けるために。

この家に、私の居場所を繋ぎ止めるために。


「ふぅ…くっ…、今日は、ここまで…ですね。」


私は震える手で木剣を下ろした。

剣先から、制御しきれずに漏れ出していた黄金の光の粒子が、儚く霧散していく。


聖光剣ルミナスブレイド】——

聖なる光を剣に付与エンチャントして戦う、アルクライド家の悲願とも言える至高のスキル。

その響きも、神々しい見た目も、圧倒的な破壊力も、かつての私の理想そのものだった。


だが——現実は、あまりにも残酷だ。


制御が、できない。


一度発動すると、まるで底の抜けた器のように、無尽蔵に剣へと魔力が吸われていく。

指先から、腕から、全身の生命力、魔力が強制的に引きずり出されるような、内側を削られる不快感と脱力感。

出力を絞ろうと意識すればするほど、奔流のような魔力に呑まれ、剣を振るうどころか立っていることさえままならなくなる。


「…また、失敗。」


文献を読み漁り、魔力制御の基礎を何百回と繰り返しても、何一つ変わらなかった。

藁にもすがる思いで、【大賢者グランドセージ】であるお祖母様を頼ろうともした。

けれど、なぜかお祖母様の屋敷の門は固く閉ざされ、取り次ぎの侍女に冷たく追い返されるだけで、会うことすら叶わなかった。


…いいえ、本当は分かっている。

なぜお祖母様に拒絶されたのか。

私の犯した唯一にして最大の過ち、セレスティナお姉様のことだ。


「くっ!」

ぶんっ!

私は苛立ちをぶつけるように木剣を振るい、脳裏にこびりついた記憶を打ち払おうとした。


あの日々を、思い出す。

最初は、確かに胸のすくような思いだった。

お姉様が、泥にまみれ、私を見上げる。

その優越感が、私の傷ついた自尊心を癒やしてくれたのは事実だ。


けれど、それは長くは続かなかった。

日に日に弱っていくお姉様。

食事すら満足に与えられず、痩せ細っていく姿を見て、私の胸の中にあった暗い喜びは、次第に「恐怖」へと変わっていった。


(本当は…幽閉なんて、すぐに辞めさせたかった。そもそも…私は幽閉なんてお願いしてなかった。)


お姉様があの日々の仕打ちを謝ってくれれば…私を見下していたことを認めてくれれば、それで終わらせるための口実にするつもりだった。

『お姉様も反省しています』と両親に告げ、私の慈悲という形で手打ちにしたかった。


けれどお姉様は、決して謝らなかった。


『あなたのなさっていることは、公爵家の人間として、あまりに…』


あの時、私を見据えたお姉様の静かな瞳。

そこに、私が望んだ屈服や媚びは微塵もなかった。

あったのは、道を踏み外した妹を憐れむような…いいえ、心から案じるような、毅然とした姉の姿だけ。

それが、どうしようもなく私を惨めな気持ちにさせた。

どんなに惨めな姿になっても、その瞳にある気高い光だけは消えなかった。


このままでは、お姉様が死んでしまう。

私は、お姉様が謝るのを待てず、両親に訴えたことがある。

お姉様が幽閉されてから、半年が過ぎた頃の夕食の席だった。


『お父様、お母様。…その、セレスティナお姉様のことですが。』

『…ん?なんだ、食事中に汚らわしい名を出すな。』

お父様は、ナイフを止めることなく不機嫌そうに答えた。


『いえ、その…お姉様は十分に反省されたと思います。それに、これ以上あのような環境に置いては、命に関わります。そろそろ、出して差し上げても…』


私は、精一杯の「妹としての情け」を見せたつもりだった。

もう十分でしょう?

私の気も済みましたから、という体裁で。


けれど、お母様の反応は、私の想像を絶するものだった。


カチャン、と。

お母様は、グラスを少し強めに置いた。ただそれだけで、ダイニングの空気が凍りついた。


『…イリス。あなた、何を言っていますの?』

お母様の瞳には、娘の提案を聞き入れる優しさなど微塵もなかった。あるのは、不良品を見定めるような、冷たく、底知れない瞳。


『あの「出来損ない」を生かしておいているだけでも、アルクライド家の慈悲ですのよ?』


『っ…!私はただ…!』


『イリス。』

お父様が、低い声で私の言葉を遮った。

『お前は余計なことを考えず、【聖光剣ルミナスブレイド】を磨くことだけを考えろ。』


『————!』


心臓が、止まるかと思った。

その時、私は理解してしまったのだ。

この人達にとって、子供とは愛する対象ではなく、家の権威を飾るための道具でしかないのだと。

私が虚偽の告げ口をしなくても、この人たちは、お姉様を幽閉したのだと。

…もしそうだとしても、私の罪が消えることはないけれど。


『…申し訳ございません、お父様、お母様。私の考えが浅はかでございました。』


震える手でカトラリーを握りしめ、私は頭を下げた。


「…お父様もお母様も、私のことなんて見ていない。」


以前、制御の訓練中に倒れた私に、お母様はこう言ったのだ。

『しっかりなさいイリス。貴女が倒れては、公爵家の恥ですわ。』と。

心配されたのは私ではなく、家の方だった。

私が失敗すれば、私もまたお姉様のように「無かったこと」にされるのだろうか。


「だけど…私に、今更なんの償いができるというの。お姉様は、私のせいで…」


——亡くなった。

両親からは、それだけを聞かされた。

流行り病だったという。

最期の姿は見せてもらえなかった。

私が見たのは、無機質な棺桶が、何の感慨もなくただ淡々と燃やされる光景だけ。


両親は涙一つ流さず、むしろ厄介払いできたことに安堵しているようだった。

役に立たないスキルをもつ娘の死など、彼らにとっては単なる「汚点の処分」でしかなかったのだ。

その冷徹さに、私は初めて、自分が何を追い落としたのか、そして自分がどんな薄氷の上に立っているのかを理解して震えた。


セレスティナお姉様がいなくなってから…私の日常は一変した。

期待される私のカリキュラムは倍近くに増え、大人たちとの社交も山のように積み重なった。

私が必死で食らいついているそれらを、セレスティナお姉様は七歳の頃から涼しい顔で、完璧にこなしていたという。


今だから、分かる。

お姉様が私に向けていたあの眼差しや態度は、決して施しや憐れみなどでは無かったのだと。

養子に来る前の家での扱いのせいで、私が全てを疑心暗鬼に捉え、勝手に歪んでいただけだったのだと。

「出来損ない」だったのはお姉様のスキルではなく、歪んだ劣等感で善意を悪意に変換していた、私の心の方だったのだと。


(…動きなさい、私の体。)


どんなに忙しくても、体が悲鳴を上げても、この鍛錬だけは辞めない。

これは向上心などではない。

自分自身でもよくわからない、多分子供じみた意地だ。


呼吸を整え、片付けを済ませて自室へと戻る。

重い足取りで廊下を歩きながら、私は思う。


スキルの制御も、のしかかる重圧も、消えない孤独も。

きっと、うまくいかない全てのことは、あの日お姉様を追い詰めた、愚かな私への罰なのだ。

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