第十五話:街道の惨劇
肌を撫でる風の質が、森の中とは違っていた。
開けた街道を吹き抜ける、乾いた土埃の匂い。
三年間ぶりに触れる人間の世界。
わたくしは、うなじで一つに束ねた銀髪が揺れるのを感じながら、リュックを背負い直した。
腰のショートソードが、カチリと皮鎧に当たって小さな音を立てる。
そんな調子で街道を歩いていると、先生から鋭い警告が。
『《前方、街道がカーブした先、距離400!強い敵意と恐怖!二足歩行の魔獣一体!人間、二名!》』
先生が、わたくしの視界よりも遥か先の惨状を捉えていた。
(状況は!)
『《人間の一体は魔力反応、微弱!重傷だ!もう一体は、恐怖で動けず!…チッ、間に合わんぞ!》』
(…いいえ。)
わたくしは、短く思考で答える。
(間に合わせますわ。)
(術式起動—【身体強化】、【軽身】!)
魔力が、鍛え上げられた筋肉を強制的に躍動させる。
同時に、体重が羽のように軽くなる。
ドンッ!
わたくしは、街道の石畳ではなく、最短距離となる森の茂みの中を、音を置き去りにするかのような速度で駆け抜けた。
木々が、緑色の残像となって後方へ飛んでいく。
『《速度、良好!魔獣の行動予測、完了!対象まで、100…50…!》』
………
……
…
簡単な依頼のはずだった。
剣も盾も砕け、左腕はもはや動かせそうにない。
「なんでこんなところにオーガが…」
「グルルル…」
そして、オーガが今、ゆっくりと狙いを定めているのは——。
木の陰で、腰を抜かし、金縛りにあったように動けない、エリーゼ。
エリーゼだけは絶対に守る…!私が考えることはそれだけだった。
「…こっちを、見ろ…化け物…ッ!」
私は、折れた剣を、最後の力を振り絞ってオーガの踵に投げつけた。
「グオ?」
オーガが、煩わしそうに振り返る。
そして、私に対し、距離を詰め、明確な殺意を込めてくる。
「エリーゼ…ッ、早く、逃げて…!お願いだから…ッ!」
その巨大な棍棒を、頭上高く、振りかぶった。
(もう、駄目…!)
その瞬間——
キィンッ!
…一瞬何が起こったのかわからなかった。
いつの間にか、私の目の前に、皮鎧をまとった美しい銀髪の少女が立っていた。
………
……
…
茂みを突き抜け、視界が開けた瞬間。
わたくしは、その惨劇の全てを捉えた。
(【真理解析】!)
[対象:隻眼のオーガ]
[脅威レベル:C]
[弱点:右膝(古傷)、左目(隻眼)、首筋(大動脈)]
[対象:ニーナ]
[状態:重傷(左腕骨折)、意識あり]
[対象:エリーゼ]
[状態:恐怖、無傷]
「…こっちを、見ろ…化け物…ッ!」
「グオ?」
「エリーゼ…ッ、早く、逃げて…!お願いだから…ッ!」
(…間に合う!)
わたくしは、その光景を、冷徹なまでに分析していた。
オーガが棍棒を振り下ろす、その軌道。筋肉の収縮。
『《——今だ!ルナイズ!》』
オーガの棍棒が、ニーナさんの頭蓋を砕かんと、風を切り裂き、振り下ろされたその、瞬間。
(術式起動—【魔導盾】)
(軌道予測に合わせ、最小範囲で受け流す…!)
キィンッ!
甲高い、金属音とも違う、魔力が弾ける音。
オーガの棍棒は、振り下ろされる寸前で、不可視の何かに弾かれ、その軌道がわずかに逸れた。
「…え?」
エリーゼさんが、信じられないものを見る目で、声を漏らす。
ゴッ!
と、鈍い音が響き、棍棒はニーナさんの寸分脇の地面をえぐった。
オーガが、驚きに目を見開く。
「グ…?」
オーガは、自分の渾身の一撃が空振りさせられたことが理解できず、体勢を崩している。
(…まったく、冷や汗をかかせますわ。)
わたくしは、オーガを見据えたまま、思考で先生に悪態をついた。
(先生のナビゲート、ギリギリすぎますのよ。)
『《この大馬鹿者が!貴様がトロいだけだ!》』
脳内で叱咤が飛ぶ。
わたくしは、体勢を立て直そうとするオーガの弱点を、静かに見据えていた。
「グオオ…?」
オーガは、崩れた体勢を立て直そうと、必死に棍棒を地面につきたて、巨体を支えようとしている。
だが、その動きはあまりにも鈍重。
『《体勢が崩れたまま硬直している!絶好の的だ、ルナイズ!》』
先生の叱咤が飛ぶ。
(言われなくとも!)
わたくしは、腰のショートソードを引き抜いた。
狙うは、あの無防備に晒された弱点。
【真理解析】が青白くハイライト表示する、右膝の古傷だ。
(術式起動—【身体強化】、【軽身】)
ドンッ!地面を蹴る。
瞬間的な超加速——
オーガがわたくしの殺気に気づき、慌てて振り払おうとするが、遅い。
わたくしは、最小限の動きでその攻撃の予備動作を見切り、一瞬で懐に潜り込むと、ショートソードを逆手に握り直し、古傷の中心へと、ありったけの体重を乗せて突き刺した。
ズブリ、と。
硬い皮膚を貫通し、その下の古い腱を断ち切る、鈍い手応え。
「グギャアアアアアァァァッ!」
オーガが、これまでの比ではない、凄まじい絶叫を上げた。
巨体が、完全にバランスを失い、膝から崩れ落ちる。
だが、まだだ。
「ガアアア!」
オーガは、片膝をついたまま、半狂乱になって、その巨大な左腕をわたくし目掛けて振り回した。
棍棒すら手放した、ただの薙ぎ払い。
だが、その質量は、当たればわたくしの身体など容易く肉塊に変えるだろう。
(——軌道予測、完了。)
わたくしの左目は、その攻撃がどこに到達するかを、コンマ数秒早く予測していた。
(…)
わたくしは、慌てて後ろへ跳ばない。
ドレスの裾を翻すかのような、音のない体捌き。
【軽身】の術式を併用し、まるで踊るかのように、オーガの腕の内側その死角へと、滑り込む。
オーガの巨腕が、空しく空を切る。
そして、その巨体は、わたくしの接近を許し、がら空きの首筋を、完璧に晒していた。
(終わりですわ。)
わたくしは、【身体強化】の魔力を脚に集中させて跳躍した。
空中で反転し、ショートソードの切っ先を、寸分の狂いもなく、大動脈へと突き立てる。
「グ……ギ……」
オーガの隻眼が、信じられないものを見るかのように、わたくしを見た。
だが、その瞳から光が消えるのに、数秒もかからなかった。
巨体が、地響きを立てて、街道の土埃の中へと倒れ伏す。
「……ふぅ。」
わたくしは、オーガの死体に突き刺さった剣の柄に手をかけ、素早く引き抜いた。
刃についた血を、鋭く振り払って鞘に納める。
あたりに、静寂が戻った。
三年間、森で繰り返してきた狩りの一つ。
ただ、それだけのこと。




