第十三話:黒の森の主
逃げ出したあの日から、約三年。
十二歳だった無力な少女は、十五歳の狩人になっていた。
黒の森、その最奥部。
魔力が淀んだ霧が立ち込める沼地の前で、わたくしは、静かに息を整えていた。
湿った空気が肺を満たすたび、ピリピリとした緊張感が全身を駆け巡る。
『《…ルナイズよ。いよいよ、貴様の卒業試験だ。》』
脳内に響く先生の声は、いつになく真剣だった。
皮肉や冗談の混じらない、師としての厳格な響き。
『《ワガハイが、この三年間、森の生態系の頂点に君臨し、最も危険と判断した主。…理論上は、貴様の今の実力でギリギリ倒せるはずだ!》』
「先生のその『理論上』が、どれほど机上の空論か、身を持って理解しておりますわ。」
わたくしは、乾いた唇で皮肉を返しつつ、腰のショートソードを抜き放った。
手入れの行き届いた刃が、薄暗い森の中で鈍く光る。
しかし、剣を握る手には、拭いきれない脂汗が滲んでいた。
(ギリギリ、ですか。先生がそう仰るなら、それは『一歩間違えれば即死』と同義ですわね。)
わたくしの体内にある魔力は、決して多くない。
三年間の鍛錬で多少は増えたとはいえ、大したことはない量だ。
無駄撃ちは許されない、一手一手が、命のやり取りになる。
目の前で、ボコボコと泡立つ沼地から、ゆっくりと姿を現すそれを、左目で捉える。
(【真理解析】!)
青白い光のモノクルが左目に浮かび上がり、視界に絶望的な情報が羅列される。
[対象:瘴気の主]
[脅威レベル:A-]
[状態:警戒(縄張りへの侵入者を認識)]
[特性:瘴気外皮(魔法耐性:高)、毒の爪、魔眼(石化)]
[弱点(1):眉間(外皮が最も薄い)]
「グルルルル…」
全長3メートルはあろうかという、巨大なトカゲ。
ぬらぬらと湿った黒い鱗は、周囲の瘴気を鎧のようにまとい、その両目は、不気味な紫色に爛々と輝いていた。
ただそこにいるだけで、周囲の空気が重くなるような圧迫感。
わたくしが今まで狩ってきた魔物とは、次元が違う。
『《臆するな!ワガハイの理論では、勝率74%!十分だ!》』
(その確率で十分と申しますか…!4回に1回は、わたくしが肉塊になる計算なのですが…!)
文句を言っている暇はない。
長期戦になれば、少ない魔力が尽きてジリ貧になるのは目に見えている。
勝機は、速攻のみ。
「ガアアアァァァ!」
アビス・リザードが、鼓膜を劈くような咆哮を上げる。
同時に、その紫色の魔眼がカッと見開かれた!
(…!魔眼、石化!)
【真理解析】の解析結果と予測。
視線が合った瞬間、身体が石になる魔眼。
(見ちゃダメ…!)
わたくしは反射的に視線を逸らし、同時に術式を編む。
(術式起動—【身体強化】、【軽身】!)
ドンッ!
地面を蹴る。
【身体強化】による爆発的な脚力と、【軽身】による重力の軽減。
この二つの併用は制御が困難だ。
軽くなった身体を強引に加速させる感覚は、まるで暴れ馬の手綱を握っているような危うさがある。
『《遅い!ワガハイの予測では、コンマ二秒遅れているぞ!》』
「先生は、ご覧になっているだけですものね!」
わたくしは悪態をつきながら、着地の勢いを殺さずに走り出す。
石化の射線から逃れるように、敵の側面へ。
狙うは、唯一判明している弱点、眉間。
だが。
ズズズ…と巨大な体が動く。
その巨体には似つかわしくない異常な速度で、アビス・リザードの首が、わたくしの動きを追う。
(速い…!このままでは、回り込む前に捕まる!)
【真理解析】の予測が、わたくしの移動先に先回りして表示される。
(…ならば!)
わたくしは、魔力を左手の人差し指に集中させた。
(術式起動—【灯火】!)
——パァァァァァッ!
暗い森の瘴気を吹き飛ばすほどの、太陽のような閃光が、ゼロ距離でアビス・リザードの眼前に炸裂した!
「ギャン!?」
いかに強敵とはいえ、暗がりに慣れた目でこれほどの光を受ければ、視界は焼かれるはず。
アビス・リザードが悲鳴を上げ、一瞬動きが止まる。
(今!)
わたくしは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
【身体強化】の出力を上げ、ショートソードを逆手に握り直す。
狙うは一点、眉間!
わたくしは弾丸のように突っ込んだ。
勝利を確信した、その刹那。
——ゾクリ。
背筋に冷たいものが走る。
閃光で、確かに目は眩んでいるはずの魔獣が。
その鼻先を、まるでわたくしの動きを感じ取ったかのように、正確にわたくしの軌道上へと向けたのだ。
「な…!?」
鋭い爪が、わたくしの剣撃よりも速く、わたくしを捕らえようと迫る。
視覚ではない。奴は、嗅覚か、あるいは魔力感知で動いている。
『《愚か者!奴は視覚だけに頼っておらん!》』
先生の叱咤が飛ぶ。
(【真理解析】——軌道予測、回避不能!)
空中にいるわたくしに、避ける術はない。
剣で受ける?いいえ、あの質量の爪を受ければ、剣ごと腕を砕かれる。
(死ぬ…?)
死の恐怖が思考を塗りつぶそうとする。
だが、その奥底で、冷静に解を導き出していた。
(いいえ。まだ、手はある!)
使い勝手が悪く、燃費も最悪で、一年前まではあまり使っていなかった、最後の基礎魔術。
第八章…「魔力障壁の基礎構造」
真正面から受け止める必要はない。
まともに受ければ魔力切れで終わりだ。
必要なのは、防御ではなく、受け流し。
わたくしは、魔力の一部を、その一点に叩き込む。
(術式起動—【魔導盾】!)
わたくしの顔の真ん前に、キィン!と、手のひらほどの大きさのの魔力障壁が瞬間的に展開された。
爪の衝撃を、外へと逸らすための絶妙な傾斜。
ガンッッ!!!
凄まじい衝撃。
アビス・リザードの爪が【魔導盾】に激突し、火花が散る。
だが、爪はわたくしの身体を切り裂くことはなく、近くの地面をえぐった。




