第十一話:最初の「命」
翌朝。
わたくしは、外からの光で目を覚ました。
『《…フン。ようやく起きたか、ルナイズ。》』
脳内に、先生の厳格な声が響く。
「…おはようございます、先生。」
わたくしは、まだ掠れる声でそう返事をした。
昨日、自ら名乗ったルナイズという名前を、まだ少し気恥ずかしく思いながら。
『《挨拶はいい。さっさと日課を済ませろ、ルナイズ。》』
「はい!」
わたくしは、火を熾し直し、そして、昨日作った石の器を持って、拠点を出た。
先生によるナビゲートは、もはや絶対の信頼があった。
『《右、ゴブリンの巡回。距離100。やり過ごせ。》』
『《左、水場への最短ルート。障害物に注意しろ。》』
昨日、あれほど恐怖と疲労に満ちていた水汲みの道程は、先生の完璧なナビゲートのもと、緊張はすれども危険はなく、まるで作業のように淡々と終わった。
拠点に戻り、かまどで白湯を沸かし、月雫の実と共に朝食を済ませる。
温かい白湯が胃に染み渡り、糖分が脳に回る。痩せこけた身体に、力が戻っていくのが分かった。
『《貴様の身体は、まともな糖分と水分、そして暖を得て、ようやく回復のサイクルに入った!…だがな、ルナイズ。》』
先生の声が、一段と低くなる。
『《月雫の実だけでは、貴様のその痩せこけた筋肉も、魔力も、これ以上は回復せん。貴様が人間に戻るために、決定的に欠けているものがある。》』
「…獣肉、ですわね。」
わたくしは、自らの細い腕を見つめながら、答えた。
『《その通り!》』
先生は、高らかに宣言した。
『《レッスン参だ!——狩りを開始する!》』
「はい!」
わたくしは、立ち上がった。
「ですが、先生。わたくしには、ゴブリンから逃げるのが精一杯。ウサギ一匹、追いかけることもできません。」
『《この大馬鹿者が!》』
先生の叱咤が飛ぶ。
『《誰が、貴様のその貧弱な足で追いかけろと言った!貴様の武器は、その痩せた手足ではないだろう!》』
「…わたくしの、武器…」
先生は、まるで講義でもするように、厳かに続けた。
『《いいか、ルナイズ。戦いとは、力と力がぶつかり合うだけではない。知性が知性を上回った時、最小限のコストで、最大の勝利を得ることができる。それこそが、貴様の戦い方だ!》』
『《貴様には、最高の目と、大地を操る手があるだろうが!》』
「…罠、ですわね」
『《フン。ようやく、ワガハイの思考に追いついたか!》』
先生が、楽しそうに笑った。
『《そうだ!この森の獣どもは、知性で我らに劣る!奴らの習性と弱点を解析で暴き、罠に嵌めるのだ!》』
『《まず、獲物を選定する。》』
先生の講義が始まった。
『《貴様の今の体力と、かまどの大きさ、そして【土工】で消費する魔力を考えれば、狙うは大型の角ウサギか、あるいは森ネズミだ》』
(角ウサギ…図鑑で見たことがありますわ。通常のウサギより二回りは大きいですが、肉は美味で、警戒心は低い、と。)
『《そうだ。そして、奴らは決まった獣道しか通らん。》』
先生の【真理解析】が、洞穴の周囲一帯の地形データと魔物の痕跡をスキャンしていく。
『《…よし。拠点より北東、約200。例の月雫の実の群生地へ向かう、絶好の獣道を発見した。》』
「はい!」
わたくしは、残った魔力を意識し、再び拠点を出た。
先生のナビゲートに従い、風下に回り込みながら、その獣道へとたどり着く。
そこは、茂みに隠れ、確かに小動物が頻繁に通ったであろう、地面が踏み固められた細い道だった。
『《ここだ。ここに、落とし穴を掘る。》』
「承知いたしました。」
【真理解析】が、地面の構造を可視化する。
[対象:地面]
[構造:腐葉土(表層)、粘土質(中層)、岩盤(深層)]
[弱点:粘土層(術式【土工】による変性耐性 → 低い)]
わたくしは、獣道に手を触れ、意識を集中させた。
(術式起動—【土工】!)
『《魔力を集中させ、円形に抜くイメージだ!消費魔力を最小限に抑えろ!》』
(はい!)
ズズズ…と、まるで巨大なスプーンでくり抜くかのように、獣道の真ん中の土が、静かに沈み、穴の奥へと圧縮されていく。
「…はぁっ…はぁっ…!」
(…でき、ました…)
そこには、滑らかな円形の落とし穴が完成していた。
底は粘土質の状態をいじって、簡単には抜け出せないようにしてある。
『《…フン。穴だけ掘って、満足か?》』
先生の皮肉が飛ぶ。
『《これでは、ただの穴だ。獲物が避けて通るだけだろうが。》』
「…いいえ、先生。」
わたくしは、荒い息を整えながら、首を横に振った。
周囲から、細く、折れにくい枝を集め、穴の上に格子状に渡す。
その上に、獣道と同じ種類の葉と腐葉土を、まるでパズルのピースをはめるかのように、完璧に撒いていく。
風の流れ、葉の向き、土の匂い。
【真理解析】を使い、周囲の状態と、わたくしが作った偽装との差異を、コンマ単位で修正していく。
『《…ほう。》』
先生が、感嘆の息を漏らしたのが分かった。
十数分後。
そこには、先ほどと寸分違わぬ獣道が、元通りに存在していた。
わたくしでさえ、どこに穴があるか、一見しただけでは分からないほどの、完璧な偽装だった。
『《…ハッ!》』
先生が、心の底から楽しそうに笑った。
『《素晴らしいぞ、ルナイズ!これぞ知性の罠だ!…よし、拠点に戻るぞ。あとは、ワガハイの目が、獲物がかかる瞬間を見届けてやる!》』
拠点に戻ったわたくしは、かまどに薪をくべながら、先生からの実況を待っていた。
魔力も体力も消耗し、今はひたすら待つしかない。
だが、あの完璧な罠を思い出すと、不思議と自信が湧いてきた。
『《…来たぞ、ルナイズ。》』
先生の声が、脳内に低く響いた。
わたくしの心臓が、ドキリ、と跳ねる。
『《角ウサギ、一体。獣道を北上中。罠まで、あと10》』
(…!)
わたくしは、ゴクリと唾を飲んだ。
『《…5…3…1…》』
『《——今だ!かかった!》』
先生の宣言と同時に、わたくしは洞穴を飛び出した。
疲労も忘れ、罠までの距離を、木の根に足を取られそうになりながら、必死で走る。
あの獣道に着くと、偽装が破られ、掘った穴が姿を現していた。
わたくしは、恐る恐る、その穴を覗き込んだ。
「あ…」
そこには、赤黒い毛並みの角ウサギが、穴の底で足をじたばたさせて、もがいていた。
わたくしと、目が合う。
その、黒く濡れた瞳が、恐怖に怯えているのが、分かってしまった。
(…!)
わたくしは、息を呑んだ。
あの時、森で出会ったゴブリン 。
あの時は、【灯火】で目を眩ませ、殺さずに逃げた。
だが、これは——?
『《…どうした、ルナイズ。》』
先生が、わたくしの戸惑いを見透かし、静かに問いかけた。
『《貴様は、それを食うために、ここに走ってきたのだろう?》』
「…」
わたくしは、穴の縁に転がっていた、大きな石を震える手で抱えた。
ウサギが、わたくしの殺気を感じ取ったのか、甲高い声で「キュイイ!」と鳴いた。
その声に、わたくしの肩がビクリと震える。
(…公爵令嬢として、わたくしは、常に守られる側でした。)
(生き物の命を奪うことなど、考えたこともなかった。)
『《…そうか。ならば、やめるか?》』
先生が、冷たく言った。
『《その獲物を逃し、貴様は、明日も月雫の実だけで生き延びるか?その痩せこけた身体のまま、いつか来るゴブリンの群れに食われるか?》』
『《——選べ。》』
わたくしは、石を抱える手に、力を込めた。
涙が、滲みそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
「わたくしは…ルナイズとして、ここで、生きると決めたのです。」
わたくしは、穴の中のウサギを、まっすぐに見据えた。
「…ごめんなさい。」
小さく、声に出して、謝った。
「あなたの命を、いただきます。」
わたくしは、その石を、穴に落とした。
………
……
…
拠点に戻った時、わたくしの両手は、血と泥で汚れていた。
だが、その手には、ずしりと重い角ウサギが握られていた。
『《…フン。初めてにしては、上出来だ。》』
先生が、わたくしの覚悟を認めるように、短く言った。
わたくしは、かまどの火を強め、昨日水を運んだ石の器で、再び湯を沸かした。
そして、書物で読んだだけの解剖学と調理法の知識を、今、初めて実践に移す。
解析で、ウサギの構造を視る。
[対象:角ウサギ]
[構造解析:筋繊維の走行、内臓の位置、骨格の結合部(弱点)]
先生のナビゲートは、ない。
これは、わたくしが生きるために、わたくし自身がやらねばならない作業だった。
今朝の水汲みの時に川辺で拾った、鋭く割れた黒曜石を使い、震える手で、皮を剥ぎ、血を抜き、内臓を取り出す。
公爵令嬢がするべき所作では、断じてなかった。
だが、わたくしは、生きるためになりふり構わぬと決めたのだ。
処理した肉を、沸騰した湯で煮込む。
洞穴の中に、獣の匂いと、肉の匂いが立ち込める。
そして——。
わたくしは、白湯で煮込んだだけの、一切の味付けもない、生まれて初めての獲物を、一口、口にした。
(…硬い。そして、臭い。)
公爵家の食卓に並ぶ、柔らかく、香辛料の効いた肉料理とは、似ても似つかない。
だが。
(…あたたかい。)
噛み締めるたびに、塩味すらない肉の繊維から、熱と脂が染み出してくる。
それが、わたくしの身体を作っていく。
月雫の実では得られなかった、圧倒的な生命力そのものだった。
わたくしは、無言で、その肉を平らげた。
『《…どうやら狩人の覚悟は、定まったようだな。》』
先生が、満足げに言った。
「はい。」
わたくしは、汚れた手を拭い、再び黒曜石を手に取った。
残った肉を、干し肉にするために。皮を、素材にするために。
『《よし!》』
先生の声が、厳しく響く。
『《それが、貴様の日常だ!罠を改良し、獲物を増やし、食料を備蓄する!》』
『《そして、体力をつけ、魔力を高め、強靭な身体を作るのだ!》』
「はい!」
わたくしは、力強く返事をした。




