閑話:ワガハイの塔
かまどで燃える炎が、肌着一枚の痩せた背中をあたためる。
外気との温度差が、かえって肌の露出した部分の寒さを際立たせ、わたくしは小さく身震いしました。
「…ふぅ。」
わたくしは、しばらく月をみていましたが、しばらくして、床に広げられたワンピースのもとへ歩み寄ります。
中には、命の糧である月雫の実が、たくさん残っています。
(このままでは、眠れませんわね。)
わたくしは、昨日、水を運ぶために作った石の器に目をつけました。
大切な実を一つ一つ、傷つけないようにワンピースから石の器へと移し替え始めました。
すべての実を移し終えると、わたくしは空になったワンピースを手に取り、火の光にかざして埃や土を払います。
二年間の虐待と、ここ数日の過酷な逃走で、それはもはやドレスとは呼べない、ただの布です。
それでも、わたくしはためらうことなくそれに袖を通します。
「…暖かい、ですわ。」
再びかまどの前に座り込み、今度はワンピースの上から、燃える炎の暖かさを受け止める。
パチ、と薪がはぜる。
静かな洞穴の中で、思考がクリアになっていくと、ずっと抱いていた疑問が、再び頭をもたげた。
わたくしは、自分の左目に、そっと手を触れた。
「…先生。」
声に出して、呼びかける。
『《フン。どうした、ルナイズ。ようやく寝る準備ができたか?》』
脳内に、皮肉めいた声が響く。
「その前に、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
わたくしは、燃え盛る炎から視線を外さずに、問いかけた。
「先生は…どうして、あの塔にいらっしゃったのですか?」
「なぜ、あのような場所に…あのような形で、ご自身の研究成果と、魂を残されたのですか?」
『…ほう。』
先生の声が、少しだけ面白そうな色を帯びた。
『《貴様は、ワガハイが脱出できなかったとでも思っているのか?》』
「いいえ。」
わたくしは、はっきりと首を横に振った。
「先生の【真理解析】と、先生ご自身の知性があれば、あの程度から脱出することなど、容易だったはずですわ。」
「わたくしが、そうでしたもの。」
『《…ハッ!言うようになったな、ルナイズ!》』
先生は、心の底から楽しそうに笑った。
『《その通りだ!ワガハイが魔術学校を卒業した後、あの愚かな一族が、ワガハイを北の塔に幽閉した時、ワガハイは、むしろ感謝したわ!》』
「…感謝、ですか?」
『《そうだ!》』
先生の声に、熱がこもる。
『《【解析】は汚点だと蔑まれ、当主の座も、社交も、全てを剥奪された。…結構なことだ!あのような退屈な務め、こちらから願い下げだったわ!》』
『《そして、奴らはワガハイに衣食住を与え、誰にも邪魔されない書斎まで用意してくれた!最低限の食事は、毎日決まった時間に侍女が運んでくる。…これほど研究に没頭できる環境が、他にあるか!》』
わたくしは、言葉を失いました。それは、あまりにも常軌を逸した喜び。
幽閉を、罰ではなくご褒美だと捉えていたというのか。
(この方…いえ、先生は…)
想像を絶する変人…あるいは天才の思考に、ルナイズは眩暈すら覚えた。
『《ワガハイは、あの塔の一室にいながら、全てを視ていた。》』
「視ていた…?」
『《そうだ。貴様は、ワガハイの【真理解析】が、その左目を通さねば使えぬとでも思っていたか?》』
「…え?」
『《愚か者め!ワガハイの【真理解析】は、視覚ではない!魔力視だ!》』
先生は、得意げに宣言した。
『《ワガハイは、あの塔を中心とした半径数キロメートル…アルクライド公爵家の屋敷全域を、全方位、障害物すら透過して視ていたわ!》』
『《愚かな父が誰と密会し、侍女がどこで怠け、騎士がどのような訓練をしているか。屋敷に張り巡らされた魔力の流れ、その綻び。全てだ!》』
(全方位…魔力視…)
わたくしは、自分の左目を押さえた。
「では、わたくしのこの左目から入る情報は…」
『《貴様の左目は、「共有窓」に過ぎん!》』
『《ワガハイは、今もワガハイの視界で、この洞穴の周囲を警戒している。貴様が、あの目の前の月雫の実に集中している間も、だ!》』
「…!」
だから、先生のナビゲートは、あれほどまでに正確だったのか。
わたくしの視界の外側、背後や遠方の脅威を、先生は常に把握していたのだ。
『《ワガハイは、あの塔で【解析】の真理を追い求めた》』
先生は、再び過去へと意識を戻したようだった。
「…」
『《だが、ワガハイの寿命は尽きかけていた。【真理解析】によって知識や意識をワガハイのモノクルに封じ込める禁術は分かっていたが…これをどうやって後世に託すか…》』
『《【真理解析】を極めたワガハイはなんとなくというレベルだが、ぼんやりと未来が予見できた。将来的に同じ事が起こるとな。》』
『《だから、あの床下に隠したのだ。ワガハイの無念と希望の全てをな。》』
「…先生。それは。」
わたくしは、息を呑みました。
それは、何十年、あるいは百年越しの、予言であり呪いであった。
『《フフ…ハハハ!そうだ!全ては、ワガハイの予見通りよ!》』
先生は、高らかに笑った。
『《そして、貴様は、ワガハイの期待に応え、見事にここまでたどり着いた!》』
わたくしは、燃え盛る炎を見つめました。
そこには、自分と同じ出来損ないの烙印を押されながら、一族を見返すどころか、己の研究にのみ没頭し、ついには死すら超越して後継者を待っていた、一人の偉大な変人の姿が映っているようです。
「…先生。」
わたくしは、深々と、かまどの火に向かって頭を垂れた。
「恐れ入りましたわ。わたくしが二年間、ただ絶望していたあの場所で、先生は、わたくしが生まれる遥か前から、こうして待っていらっしゃったのですね。」
『《フン。分かったのなら、さっさと寝ろ、ルナイズ。》』
先生は、満足げに、しかし厳しく命じた。
『《明日は、レッスン参だ。…狩りの準備をしてもらうぞ。》』
「…はい!」
わたくしは、力強く返事をしました。
ワンピースを着た身体は、火の熱と、先生の壮大な(あるいは、どうかしている)物語を聞いた興奮で、熱くなっています。
わたくしは、かまどに最後の薪をくべると、洞穴の奥、乾いた土の上で、横になった。
もう、肌着一枚の寒さはない。
黒の森での夜が、穏やかに更けていった。




