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第十話:あの日の月

まだ日は高く、陽気な気候なので、肌着一枚の身でも耐えられないほどではありませんでしたが。

その行為が、どれほどみっともないことか、わたくしの頭は理解していました。


(…ですが、恥じている場合では、ありませんわ。)

わたくしは、両腕に抱えたワンピースを握りしめました。

今のわたくしにとって、このワンピースは、食料を運ぶための、何よりも重要な道具なのです。


『《…フン。ようやく、その顔になったか。》』

先生が、わたくしの覚悟を見透かしたように言います。

『《いいか、小娘。貴様は今、この森で最も弱い存在だ。だが、ワガハイの目がある。》』

『《左だ。先ほどワガハイが解析したルート通り、あの茂みを突っ切るぞ!》』


(はい!)

わたくしは、先生の号令と同時に、茂みの中へと駆け込みました。


二度目の道は、一度目よりも、はるかに精神的に楽でした。

一度目の恐怖は、確信に変わっています。

先生のナビゲートは、絶対。


『《止まれ!》』

先生の鋭い声に、わたくしはピタリと足を止め、木の幹に身を隠しました。

『《…前方。大型の魔獣…血の匂いを追っている。》』

(…!)

全身が総毛立ちました。


『《…フン。だが、奴がいるのは我々の風上だ。気づいておらん。…やり過ごせ。息を殺せ。》』

(…はい。)


わたくしは、肌着一枚の身で、木の幹に張り付くようにして、息を潜めました。

もし、先生のナビがなければ、わたくしは鉢合わせになっていた。


獣の気配が遠のき、『《…よし、行け!》』

という先生の許可が出るまで、わたくしは心臓の音すら止めているかのような心地でした。


そして、ついに。

あの、陽だまりの中にあった月雫の実の群生地に、たどり着きました。


(…ありました。)

半透明の青白い実が、日の光を浴びて、宝石のように輝いています。


『《警戒を怠るな、小娘!》』

先生が、わたくしのわずかな気の緩みを叱咤します。

『《貴様は採取に集中しろ!周囲の警戒は、ワガハイが引き受ける!異変があれば、即座に指示を出す!》』

『《だが、音を立てるな!欲張るな!迅速にやれ!》』


(承知しておりますわ!)

わたくしは、広げたワンピースを地面に置き、その上に、夢中で月雫の実をむしり取り、落としていきました。

プチ、プチ、と。

実が枝から離れる、小さな音だけが響きます。


[対象:月雫の実] → [糖質(高)、水分(高)]

[対象:月雫の実] → [毒性:なし]


真理解析ルミナスアナライズ】が、視界に入る全ての実に、安全の太鼓判を押していきます。

わたくしは、公爵令嬢としての礼儀作法ではなく、飢えた獣のような本能で、その恵みをかき集めました。


ガサッ!


!?

すぐ近くの茂みで、大きな物音がしました。

わたくしは、ビクリと身体をこわばらせ、音のした方を睨みつけます。


『《落ち着け、この臆病者が!》』

先生が、即座に一喝しました。

『《大型のウサギだ!貴様の気配に驚いて逃げただけだ!》』

(…あ…)


『《…だが、いいか。今の音を、ゴブリンが聞いている可能性は、ゼロではない。》』

先生の声が、再び厳しくなります。

『《もう十分だろう!袋を縛れ!帰るぞ!》』


わたくしは、はち切れそうになるほど実が詰まったワンピースの袖と裾を、必死に結び合わせ、袋を完成させました。

ずしりと重い。

先ほどの石の器とは違う、希望の重さでした。


(…先生。帰ります。)

『《フン。よろしい。》』

『《来た道とは別だ!最短で、拠点へ戻る!ルート修正、ワガハイに続け!》』


わたくしは、命の詰まった袋を、痩せた両腕でしっかりと抱え直し、先生のナビゲートだけを頼りに、夕暮れが迫る森の中を、我が家と呼べるようになった洞穴へと、急ぎました。


わたくしは、命の詰まったワンピースを抱えたまま、拠点の入り口に転がり込みました。

外の冷気から、洞穴の中の安全な暗闇へ。

張り詰めていた緊張が、わずかに緩みます。


(…はぁ…っ、はぁ…っ!)

痩せこけた身体には、往復の採取だけで、全ての体力を使い果たしたかのようでした。

肌着一枚の肌に、洞穴のひんやりとした空気が触れ、わたくしはブルリと身を震わせました。


『《フン。無様な姿だが、成果は上々だ。》』

脳内に、先生の皮肉めいた声が響きます。

『《だが、浸っている暇はないぞ、小娘。貴様は今、凍えている。》』


(…はい。)

先生の言う通りでした。

肌着一枚では、すぐに体温が奪われていきます。

見れば、かまどの火は、もうほとんど消えかかり、赤い熾火がチロチロと燻っているだけでした。


『《火だ、小娘!》』

先生が、厳しく命じます。

『《暖を失えば、貴様の体力は、眠っている間に低体温症で奪われるぞ!今日の成果を、明日の活力に変えるためにも、火は絶対に絶やすな!》』


(…はい!)

わたくしは、抱えていたワンピースをそっと土の上に置き、かまどの前へ這うように進みました。

幸い、昼に集めた薪は、まだ残っています。

わたくしは、火口となる乾いた苔を熾火のそばに置き、細い枝を組み上げました。


(ふぅー…っ!ふぅーっ!)

泥と埃にまみれるのも構わず、必死に空気を送る。

すると、火種は、わたくしの息に応えるかのように、ボッ、と小さな音を立てて炎を上げました。


(…ついた…!)

わたくしは、急いで細い枝を、そして太い薪をくべました。

パチパチと、心地よい音が響き渡る。

再び、オレンジ色の暖かい光が、洞穴の中を、そして肌着一枚のわたくしを照らし出しました。


(…はぁ…)

わたくしは、ようやく、かまどの前に座り込み、背後の壁に身体を預けました。

暖かい。生きている。


わたくしは、ゆっくりとした動作で、傍らに置いたワンピースの結び目を解きました。

中からは、陽の光を浴びていた時とは違う、火の光に照らされて、ルビーのようにも見える月雫の実が、ゴロリとこぼれ落ちます。


わたくしは、その中から一番大きな実を一つ、つまみ上げました。

これが、今日の、わたくしの晩餐。

アルクライド公爵家で施された、どんな豪華な料理よりも、価値のある一粒。


そっと、口に含む。プチリ、と皮が弾け、あの甘酸っぱい果汁が、疲れた身体に染み渡りました。


(…おいしい。)

わたくしは、もう一つ、またもう一つと、夢中でその実を口に運びました。

火が身体の外側から、月雫の実が身体の内側から、わたくしという存在を生かしてくれているのが、分かりました。


『《…フン。ようやく、まともな食事だな。》』

先生が、どこか穏やかな声で言いました。

『《…貴様のステータスが、急速に回復しているぞ。飢餓と脱水は、軽度に改善した。》』


わたくしは、火の光に照らされた自分の手を見つめました。

泥と、煤と、果汁と、血で、汚れています。

公爵令嬢の手ではありませんでした。

ですが、これは、紛れもなく、わたくし自身の力で生きている手でした。


(…先生。わたくし、生きていますわ。)

『《当然だ。ワガハイがついている。》』

先生は、ぶっきらぼうに、しかし、どこか誇らしげに、そう答えました。


『《…だが、夜は長い。魔物は夜にこそ活発になる。…火を絶やすな。》』


(…はい。)

わたくしは、食べかけの実を手にしたまま、小さく頷きました。

そして、この黒の森で手に入れた、束の間の安全と暖かさの中で、パチパチと燃える炎を見つめながら、少しでも体力を回復させるため、しばしの休息をとることにしたのでした。


『ところで、小娘。』

(はい、先生。)

先生は、ふと、これまでとは違う問いを投げかけた。


『貴様、いつまでワガハイと脳内だけで会話しているつもりだ?』

(え…?)


『二年間、あの塔でろくに口を利かなかったせいで、声の出し方を忘れたか?』

先生の言葉に、わたくしはハッとさせられた。

確かに、北の塔に幽閉されて以来、わたくしが発した言葉など、イリスへの返事だけだった。

脱出してからも、息を殺すばかりで、まともに声を発していない。


『いいか、小娘。そのうち、貴様が人の世に戻る気があるならばだ。声帯もリハビリしておけ。独り言でもいい、ワガハイに話しかけるのでもいい。…声に出せ。』


先生の言葉は、合理的だった。

わたくしは、いつか、この森を出なければならない。

その時、声の出し方を忘れた令嬢など、不審者以外の何者でもないだろう。


わたくしは、ゆっくりと立ち上がり、洞穴の入り口へと数歩、歩み寄った。

サーベルウルフの匂いが残る入り口から、森の木々の隙間を縫うようにして、冷たい月が見えた。


わたくしは、その月に向かって、乾いた喉を震わせた。

「…せ、ん…せい…」


ひどく、かすれた、小さな声だった。

自分の声なのに、まるで他人のもののように聞こえる。


『…フン。蚊の鳴くような声だな。だが、よろしい。』

先生が、脳内で短く応えた。


何回か練習していると、少しずつ、声を出すのにも慣れてきた。

わたくしは、自分の声帯が震える感覚を確かめるように、もう一度、息を吸った。

月を見つめながら、今度は、はっきりと声に出して、語りかけた。


「先生…わたくしは…」

「あの夜…」

わたくしは、あの日の夜、あの絶壁から闇へと身を投げた瞬間を、鮮明に思い出す。


「屋敷の壁を越え、あの黒の森へと身を投げた、あの瞬間…」

声が、震える。

それは、寒さからか、それとも、覚悟からか。


「公爵令嬢セレスティナ・フォン・アルクライドは、確かに、死にました。」


『…ほう。』

先生が、静かに相槌を打つ。

『では、今ワガハイと話している小娘は、誰だというのだ。』


「…あの夜、わたくしを照らしていたのは、あの月だけでした。」

わたくしは、月を指さす。

あの日、わたくしを出来損ないと蔑んだ両親も、わたくしを虐げたイリスも、そこにはいなかった。

ただ、冷たく、全てを見届ける月だけが、そこにあった。


「わたくしが、わたくしの意志で、全てを捨てて生きることを決めた、あの夜の月。」

「あれが、わたくしの原点です。」


わたくしは、月を見つめる瞳に、決意を込めた。


「わたくしの名前は、もう、セレスティナではありません。」


「…ルナイズ。」

「わたくしは、ただの、ルナイズです。」


洞穴の中に、沈黙が落ちた。

パチパチと、かまどの薪がはぜる音だけが響く。

やがて、先生が、心の底から楽しそうに、短く笑った。


『ハッ!愚かなアルクライドの一族が与えた名など、確かに今のお前には不釣り合いだ!』


先生の声が、わたくしの脳内に、厳かに響き渡った。


『よかろう!ワガハイの生徒は、今日からルナイズだ!』

『覚えておけ、ルナイズ!貴様は、ワガハイの指導のもと、この黒の森で、最強の生存者となるのだ!』

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