第八話:水
わたくしと先生は、森の奥深くへと進みました。
先生のナビゲートは的確でした。
魔物の気配がする場所を巧妙に避け、地形がわずかに傾斜している、下り坂を選んで進んでいきます。
(…先生。土が、少し湿っています。)
腐葉土を踏みしめる靴から伝わる感覚が、先ほどまでとは違います。
『《フン。いい兆候だ。…小娘、耳を澄ませろ》』
わたくしは、立ち止まり、息を殺して耳を澄ませました。
風が木々を揺らす音。
鳥のさえずり。
そして、その奥から、ごく微かに聞こえる、水の流れる音。
(…!水の音!)
『《走れ!》』
先生の号令に、わたくしは残った力を振り絞って駆け出しました。
茂みを抜けると、視界が開け、陽の光を反射してきらめく、小さな川が目の前に現れました。
(あ…!水…!)
わたくしは、川岸まで駆け寄り、そのまま両手で水をすくおうとしました。
『《待て、この愚か者!》』
先生の雷のような叱咤が、わたくしの動きを止めました。
(…え?)
『《それを、そのまま飲む気か!》』
『《生水には、どれほど危険か分からんわけではあるまい!》』
先生の言葉に、わたくしはハッとしました。
わたくしの常識が、生水の危険性を警告します。
ここで病気になれば、それは死を意味します。
(…ごめんなさい、先生。その通りですわ。…煮沸しなければ。念の為、解析も。)
(【真理解析】!)
…その時、水面に映ったわたくしを見ました。
今まで気づきませんでしたが、これを使うときは、左目に青白く淡い光を放つモノクルが現れるようです。
[対象:黒の森の川]
[状態:毒などの混入は無し]
[飲用:不可(煮沸すれば可)]
『《フン。ようやく、その埃まみれの頭が働いたようだな。》』
先生は、少し満足げに言いました。
『《火なら、貴様の魔術【発火】で起こせる。
だが、問題は水をどうやって拠点まで運ぶか、だ》』
(…器が、必要ですわね。)
『《そうだ!だが、木をくり抜く斧も、ナイフもない。…だが、貴様には魔術がある。》』
(…!『基礎魔術の構造と実践』、第五章…「物質の基礎変性」…!)
『《そうだ!術式【土工】!》』
わたくしは、川岸の土を解析しました。
[対象:川岸の土] → [構造:砂利(多)、粘土(少)。器には不向き]
(だめです、先生。粘土が足りません。)
『《ならば、探せ!器に適した石を!》』
(石ですか?)
『《【土工】の術式は、なにも土だけではないぞ、小娘。理論を思い出せ。あれは鉱物粒子に干渉する術だ。加工しやすい柔らかい石ならば簡単に、形を変えられる!》』
わたくしは、再び【真理解析】の意識を、川辺に転がる石に向けました。
[対象:花崗岩] → [硬度:高。加工困難]
[対象:チャート] → [硬度:高。加工困難]
[対象:滑石] → [硬度:極めて低い]
[弱点:粒子構造が脆く、術式【土工】による変性耐性 → 極めて低い]
(…!先生、ありました!柔らかい石です!)
『《よし!》』
わたくしは、頭ほどの大きさの滑石を、川岸まで運びました。
『《大きくても取り回しが悪い、完璧な壺など作るな!》』
『《【真理解析】で、石の最も脆い部分を特定しろ!運ぶのは、今日半日分の水だけでいい!》』
(…はい!)
わたくしは、滑石に両手を触れ、意識を集中させました。
【真理解析】が、石の内部構造の弱点を青白く示します。
(術式起動—【土工】!)
魔力が、わたくしの手のひらから石の弱点へと流れ込みます。
硬いはずの石が、まるで柔らかな粘土のように、わたくしの魔力に従って、ズズズ…と形を変えていきます。
(…はぁ…っ!)
魔力を消費するのは、体力を消費するのと同じくらい、疲れます。
そこには、いびつな形ではありますが、半日分の水を運ぶには十分な石の器が完成していました。
『《…フン。不格好だが、及第点だ。》』
先生が、厳しくも満足げに言いました。
わたくしは、その即席の器で、濁っていない川の澄んだ水をすくい上げました。
ずしりと重い、生命の重さ。
(…先生。拠点に、帰りましょう。)
わたくしは、慎重に、しかし確かな足取りで、来た道を引き返し始めました。
ずしり、と。
痩せこけた腕には、水が入った石の器の重さが、拷問のように食い込みます。
わずか半日分の水。
ですが、今のわたくしにとっては、アルクライド公爵家の全財産よりも重く、価値のあるものでした。
(…先生。道は、安全ですの?)
わたくしは、息を切らしながら、周囲の茂みに警戒を向けました。
『《フン。ワガハイのナビゲートを疑うか、小娘。》』
先生が、皮肉で返します。
『《貴様が石と格闘している間に、ゴブリンの巡回ルートは【真理解析】済みだ。奴らの縄張りと休憩場所を避けて、最短で拠点へ戻るぞ》』
『《——右だ。あの苔むした倒木を越えろ。そこが奴らの匂いの境界線だ》』
(はい…!)
先生の指示は、常に合理的で、無駄がありません。
高度な戦略学にも通じるものがありました。
敵を知り、地形を知り、己の弱さを知る。
その上で、導き出される最適解。
わたくしは、重い器を抱え直し、先生が示す安全な獣道を、一歩一歩、慎重に進みました。
数十分後、ついに、あのサーベルウルフのマーキング臭が残る、見慣れた洞穴の入り口が見えました。
『《…よし。追跡の気配はなし。》』
先生の短い確認を受け、わたくしは、転がり込むように洞穴の中へ滑り込みました。
(…はぁ…っ、はぁ…っ!)
石の器を、乾いた土の上へ、割れ物を扱うようにそっと置く。
全身から力が抜け、わたくしはその場に座り込みました。
(…やりました、先生。水、です。)
『《フン。まだだ、小娘。》』
先生は、わたくしの小さな達成感を、即座に否定しました。
『《それは、まだ飲めない水だ。貴様のレッスンは、まだ終わってはおらん》』
(…はい。承知しておりますわ。)
わたくしは、荒い息を整えながら、冷静に答えました。
(次は、火です。)
わたくしは、わずかに残った魔力を感じながら、術式を確認します。
火は、起こせます。
(ですが…)
わたくしは、洞穴の床を見回しました。
(このまま土の上で火を起こせば、空気が淀むか、あるいは、獣が寝床にしていたこの乾いた苔に燃え移り、わたくしたちが丸焼けになりますわ)
『《…ハッ!》』
先生が、心の底から楽しそうに、短く笑いました。
『《ようやく、ワガハイの思考についてきたな、小娘!そうだ!》』
『《貴様のその知性は、まさに、こういう時のためにある!》』
(…安全に火を管理し、効率よく器を温めるためのかまどが、必要ですわね。)
『《正解だ!》』
先生の声が、熱を帯びます。
『《【土工】の術式を思い出せ!》』
『《あの洞窟の壁を解析しろ!》』
(【真理解析】!)
[対象:洞穴の壁]
[構造:粘土質(70%)、岩石(30%)]
[特記:粘土質部分に限り、術式【土工】による変性耐性(極めて低い)。加工に最適]
(…!先生、これなら!)
『《そうだ!そこに、貴様の設計図を叩き込め!》』
『《必要なのは三つ!火床、風穴、そして、あの不格好な石の器を安定させる五徳だ!》』
(はい!)
わたくしは、残った魔力と体力を振り絞り、再び両手を壁につきました。
(術式起動—【土工】!)
熱が効率よく対流し、煙が自然に外部(洞穴の入り口)へ流れるよう、壁土を隆起させ、窪ませ、風の通り道を作る。
そして、あのいびつな石の器が、傾かずに火の上に乗るよう、三点の支えを粘土で作り上げる。
ズズズ…と、壁の土が、わたくしの設計図通りに、意志を持ったかのように形を変えていきます。
それは、アルクライド公爵家が求めた【聖光剣】のような、派手な戦闘ではありません。
ですがこれは、間違いなく。
わたくしの、生きるための戦いでした。




