普通の幸せをください
翌朝、執務室へ向かう途中で、使者が待っていた。
「お父上からの命です。本日中にお戻りを」
冷たい声だった。
胸の奥が再び硬くなる。
マリアンさんに休暇を願い出ると、彼女は静かに言った。
「戻ってこられる場所が、ここにあることを忘れないで」
馬車の窓から見える故郷は、思っていたより暗く感じた。
屋敷に戻ると、父は短く言った。
「アリシアは体調を崩してしばらく療養が必要になった。アリシアと進めていた婚約の話が流れそうなんだ。そこで代わりにお前が婚約を結べ。明日相手が来るから挨拶をしろ」
言葉を失いながらも、私は頷いた。
もう抵抗しても無駄だと、子どものころに学んでしまった。
それでも、心の奥で小さな声がした。
あの人なら、どうするだろう。
私は自室のベッドに倒れ込む。やるせない気持ちがぐるぐると身体中を駆け巡り、ただただ呆然としていた。
どれぐらいたっただろうか、うつらうつらしていたころ、トントンと家の玄関をノックする音が聞こえた。ちょうど玄関近くにいた父親が応対したようだ。何か会話する声が聞こえる。
「それは困る!」と父親の怒鳴り声が聞こえた。
何事かと思い、自室のドアを開けて玄関の様子を見た。
銀髪の姿が目に入る。ライナーだった。
「なぜ……あなたが」
彼は静かに一礼した。
「アストレイ家より、正式にセレスティアさんへの婚約の申し出に参りました」
父は戸惑いを隠せない。
「なぜだ」
「今日は騎士ではなく、一人の男として来ました」
その声は穏やかで、しかし揺るぎがなかった。
「彼女と二人で会話させてくれませんか」
私の部屋でライナーと二人きりになる。
「マリアンさんから聞きました。あなたが無理に婚約させられそうだと」
「どうして……そんなことを」
「放っておけませんでした」
彼の目はまっすぐだった。
「あなたに、普通の幸せを差し出したいんです」
普通の幸せ、その言葉が、胸に沁みた。
特別なものではなく、静かな日常。
それを望んではいけないと思っていたのに、いま、目の前で誰かが差し出している。
「私は……いつも誰かの代わりなんです。ずっと」
「違います。あなたはあなたです」
その言葉で、涙がこぼれた。
彼がそっと肩に触れる。その手の温もりが、過去の痛みを溶かしていく。
「あなたを特別にするのは僕じゃない。あなたがあなた自身を大切に思う、その心です」
「……そんなことを言ってくれる人、初めてです」
「僕も、あなたのような人に出会ったのは初めてです」
窓の外から春の風が吹き込み、カーテンが揺れた。
王城の廊下で感じた風と同じ匂いがする。
ライナーが手を差し出した。
「どうか、僕の隣で笑ってください」
その手を取った瞬間、長い冬が終わった気がした。
――数年後。
朝の光が食卓を照らす。湯気の立つ紅茶を注ぎながら、ライナーが言った。
「風が強いですね」
「ええ。でも、今日は心地いいです」
彼の隣で微笑む。
これが、私の望んでいた普通の幸せだと、心から思えた。




