それでも、あなたのように笑いたい
その日も、風はよく吹いていた。
窓の外では雲が流れ、空は薄い光を帯びていた。
昼休み、書庫の奥で資料を片付けていると、軽いノックの音がした。
「セレスティアさん、ここにいらしたんですね」
振り向くと、ライナーが立っていた。鎧ではなく軽装で、手には包みを持っている。
「今日は書類を受け取りに来ました。それと……お昼、まだですよね」
「えっ」
「訓練場の近くで買ったパンなんです。余ってしまって。よければ一緒に」
断る理由が見つからず、私は彼と中庭へ向かった。
風の通る石畳のベンチ。焼きたてのパンの香りが広がる。
「いい香りですね」
「腹が減って、つい買いすぎました」
差し出されたパンを受け取ると、手のひらに温もりが残った。
食事の合間に、仕事の話をした。
「文官課は忙しそうですね」
「秋は式典の準備が多くて。間違えたら最初からやり直しなんです」
「それは大変だ。でも、あなたなら完璧にこなすでしょう」
「そう見えますか」
「はい。少し怖いくらいに」
「……怖い?」
「真面目すぎるという意味です」
その軽口に、思わず笑ってしまった。
風が通り抜け、パンの香りがまたふわりと漂う。
こんなふうに誰かと笑い合うのは、いつぶりだろう。
妹とお菓子を分け合っていた幼い日を、ふと思い出した。
午後、机に戻ると、一通の手紙が置かれていた。
差出人は――エルノート伯爵家。
封を切ると、見慣れた筆跡で短く書かれていた。
『アリシアの婚約が破談になった。お前が代わりを務めなさい』
指先から力が抜けた。
驚きも怒りも湧かない。感情を閉ざすのは、もう慣れてしまった。
夕方、帰り道。廊下の向こうにライナーの姿が見えた。
「セレスティアさん。顔色が悪いですね」
「いえ……少し疲れただけです」
「本当ですか」
彼は一歩、私の方へ近づいた。
その眼差しに、思わず呼吸を止めた。
「何かありましたね」
「……仕事のことです」
「仕事のこと、という人はたいてい仕事以外のことで悩んでいるものです」
その言葉に、心が小さく揺れた。
彼は続ける。
「無理に話さなくてもいい。でも、あなたの顔を見ていると気になります」
沈黙の中、風がまた通り抜けた。
ごまかすように笑おうとしたとき、彼が言った。
「無理に笑わなくてもいいですよ」
その言葉に、何かがほどけた。
頬を伝う涙に、自分でも驚く。
「あなたの笑い方が好きなんです。少し控えめだけど、優しい。だから、隠さないでほしい」
胸の奥が熱くなった。
誰かにそう言われたのは、生まれて初めてだった。
風が髪を揺らす。彼がそっと手を伸ばし、それを直してくれた。
「また風が強くなりましたね」
「ええ……でも、冷たくないです」
涙の中に、確かな温もりがあった。




