第八話
旧神殿南区画二十層の崩れた壁の奥は、国の調査隊が管轄することになった。
事務所に届けられた通達には、一行だけ——「民間による再調査は禁止」の文字。
ホシノは目を細めてそれを剥がし、ひらひらと机に置く。
「今日は別口だ。湖上脇の八から九層、軽めの掃除」
「二人作業!久しぶりですね!」
「まあ、たまにはある。長丁場じゃないしな」
昨日は二十層行きで転送陣を使ったばかりだ。あれは魔素の蓄積が必要で、かつ特定の場所のみをつなぐもの。
いつも通り、徒歩で向かう。フィナはリュックの肩紐を直し、外套を羽織る。ホシノはゴム手袋を腰に差し、モップを肩に掛けた。
月明かりの下、街の石畳を歩くと夜風が吹き抜ける。外套の裾が揺れ、二人の影が伸びていた。足音だけが静かに響く。
フィナが口を開いた。
「ホシノさん、昔は何をしてたんですか?」
ずっと聞きたかったことだが、この静かな空気が背中を押した。
ホシノは足を止めず、少しだけ顔を傾ける。
「昔?」
「うん、ダンジョン掃除はいつから?」
緊張が混じるが、素直な好奇心だった。
「二十年くらい前。それまでは色んな場所を転々としてた。落ち着きない感じだったな」
フィナは顔を上げ、珍しく彼の目をじっと見る。
「落ち着きないって、どんな仕事?」
「秘密だ」
ホシノは微かに笑う。
「今はここが俺の居場所だ。二度と昔には戻らないさ」
「ますます気になるんですが……でもまぁそう言ってくれる人がいるのは、いい仕事場な気もします」
微笑みながらフィナが返す。再び二人の足音が響き、緊張が少し和らいだ。
◆
湖の北側から、一際大きい針葉樹の横を抜けると見えてくる石段を降りる。
地上の乾いた夜気から、湿度をたっぷり含んだ地下の空気へと切り替わっていく。
壁には乾きかけた水藻がこびりつき、地面には日中に潜った冒険者たちの泥の足跡が点々と残っていた。
フィナは屈み、砕けた瓶の首部分を箆でつまみ上げる。ガラスの縁には酒精の甘さと煤の混じった匂いが残っていた。袋に落とすと、微かなカランという音。
ホシノはモップを一往復走らせ、足跡の輪郭を薄め、角に溜まっていた泥を掻き出して木端屑と共にまとめる。これらは《湿泥ごみ》として可燃袋へ。
◆
八層までは、拍子抜けするほど静かだった。落ちているのは乾いた苔や割れた陶器片程度。苔は手袋越しに触れるとパリパリと砕け、布で包んで胞子を封じ込める。
陶器片は鋭く、小袋にまとめて怪我の防止を図る。二人は黙って拾い、拭き、袋に入れる。
小広間に、《小角鬼》らしき宴会の跡があった。焦げた串と干からびた肉片、倒れた樽。フィナは肉を箆で剥ぎ取りながら言った。
「この手の汚れ、けっこう残りますよね」
「乾くと落ちにくい。血でも汁でも同じだ」
いつもの調子で返す声に、フィナは小さく笑った。甘く焦げた果汁の痕は、円を描くように磨き落とす。
石肌が鈍い灰に戻るまで、二人は黙々と膝をついて磨き落とした。ただの作業——それだけの時間が淡々と過ぎていく。
◆
階段を下る途中で、空気の匂いが変質する。湿気の奥に立ち上る、鉄錆の濃い匂い——血だ。
通路を抜けると、赤暗が視界を刺した。近づく前から、くすんだ金髪がちらと目に入る。
影に近づき屈んだ瞬間、鎧の破断面や肉の裂け目に付着した乾きかけの血が細かく剥がれ落ち、足元に散る。
ミツル。
フィナの冒険者時代の仲間であり幼馴染。面倒見良くおしゃべりが好きな男だった。
ウィステリアの輪飾りは地面に落ち、鎧板は噛み千切られ、脚は不自然に折れ、顔の下半分はもうなかった。腹部は空洞で、胸郭の骨が乾いた白土色をしていた。
フィナは膝をつき、残された手を握った。
冷たく、硬い。
「……持って帰りたい」
低い声は、通路の湿った石に吸い込まれた。
ホシノは何も言わず、鎧の留め具を外しはじめた。短剣、革袋、残った鎧板——すべて汚れを拭って袋に入れる。
「深夜班は、死体は回収しない」
乾いた声が返ってくる。
フィナは唇を噛み、うつむいたまま動かない。
◆
防護マスクをしたホシノは背の器具を下ろし、数種類の薬品と油を染み込ませた《焼却布》を遺体に掛ける。
火が灯ると、炎は静かに骨と肉を舐めた。湿った空気に焼けた脂と鉄の匂いが混じり、マスク越しにフィナの鼻腔を刺す。
目を逸らせば、もう二度と見られない気がして、フィナは炎を見つめ続けた。骨の形が崩れ、灰に近づくまで。
炎が小さくなった頃、ホシノは金属片をひとつ拾い上げ、瓶に納めた。
「骨も灰も残さない。《死白人》を呼ぶ」
説明というより、確認のような口調。
残ったのは灰色の地面と、焼け跡の匂いだけだった。
◆
残りの区画を回収する作業に戻る。血痕は薬液で拭い、落ちた金具は拾う。
拾得物台帳に、ミツルの装備が静かに記される。
八層まで戻ると、いつもの湿った石の匂いが戻ってくる。通路に落ちていたガラス片を、ホシノがモップで寄せて集めた。
「……お疲れさまです」
「まだ出口まである」
短いやり取りだけを残し、二人は歩き続けた。
◆
夜の外気に触れるころ、空はまだ暗かった。
事務所に戻り、拾得物の袋を机に置く音が大きく響く。
ホシノは報告書にペンを走らせ、フィナは水で手を洗った。
飴玉をひとつ口に転がす。
甘さは、さっきまでよりも淡かった。