第七話
寝静まった街。
ストーブの上では、置きっぱなしの薬缶がゆっくり蒸気を吐き出している。
事務所の中央テーブルには、くすんだ地図と、マグカップに入った薄いコーヒー、そして各々の清掃用具がきちんと並んでいた。
「旧神殿の南区画、二十層」
ホシノが地図を指で押さえ、視線を上げる。コンラッド、ゲンゾウ、トメはその一言で淡々と準備を開始する。
フィナは持っていた飴玉を袋に戻し、顔を上げた。
「二十って……深層じゃないですか!」
「経験済みだろ、もう慣れろ」
急ぎで机に戻り、自分のリュックの中身を素早く確かめた。掃除道具の横で、お菓子の袋がかさりと鳴る。
「……持ち物間違ってないか」
「糖分は大事なんです!」
ホシノの問いかけにすぐさま返すフィナ。くすりと誰かが笑ったが、それ以上突っ込む者はいない。
「行くぞ」
ホシノが立つと、全員がコートを羽織り、道具を担ぐ。五人は足早に冒険者協会へと進んでいく。
協会の裏手には、特定ダンジョンにのみ移動可能な転送陣がある。使用可能なのは、王族やその親類、近衛騎士、そしてローガ、カメクラ以上の冒険者。特例として、クリーニングポニー深夜班にも許可がおりていた。
協会の受付から繋がる細い裏廊下を抜け、人気のない中庭を素早く横切る。物置棟の奥――錆びた扉を開けると、しまい込まれた樽や木箱の影に低い階段が口を開けていた。
足を踏み入れると、空気が一段冷える。階下の薄暗がりに、淡い蒼光が脈打っている。
「鍵」
ホシノの声に、トメが懐から銀色の鍵を出し、石壁の溝に差し込む。刹那、光がゆっくりと円形に広がり、紋様が床いっぱいに浮かび上がった。
「――行くぞ」
ホシノが短く言い、全員がその中に立つ。淡い蒼光が足下から湧きあがり、視界が反転した。
◆
濃い湿気と鉄錆を煮詰めたような匂いが、着いた瞬間に広がった。空気はねっとりと重く、呼吸に重しが乗った感覚がする。喉奥がざらつく感覚に、全員が無言で防護マスクを引き上げた。
壁や天井は黒い苔と裂傷に覆われ、その下で歪んだ魔法の線刻が鈍く光を返していた。
「……風が悪いな」
ホシノが周囲を見回した。
ゲンゾウがフックランプを取り出し、光色を確認する。橙の光が緑に切り変わる。緑色は空気中の腐食性成分濃度が高いことを示す警告だ。トメは防護マスクを押さえながら、壁面や床の傷みの状態を目で探っていく。
割れ目という割れ目からは、白濁した霧が立ち昇り、足元の石畳に《腐蝕霜》が薄く貼りついていた。薄皮のように張りついたそれは、踏むと音もなく砕けてフィナの靴底にまとわりつく。
「……霜?」
「これ、しゃがむな。肺をやられ……?」
ゲンゾウが通路の奥に目をやると、岩のような塊がもぞりと動いた。肩幅ほどの頭、槍のような二本の牙。その右側が根元から裂け、そこから白濁した液体が流れ落ち、さらに蒸気がゆらゆらと立ち昇っていた。
鼻腔を刺す匂いが一気に濃くなる。
「……エ、エリュマントス」
「フィナ、下がりなさい。あなた、当たりかしら?」
「間違いなく腐れじゃな。霜はこいつが走り回ったからじゃろう」
フィナの驚きとは対照的に、トメとゲンゾウがのんびりと会話を続ける。
巨獣が低い唸りを上げ、すぐ脇の石壁に体当たりした。鈍い衝撃音が腹に響く。
二度、三度と繰り返し、苔が剥がれ、古い石畳が削ぎ落とされ悲鳴をあげる。
ホシノが「散れ」とだけ言い、全員が半歩ずつ位置をずらした。
四度目の衝撃で、壁が崩れた。粉塵が押し寄せ、奥には闇を湛えた空間が口を開けていた。
巨獣はまだ唸り、崩れた壁の前で暴れていた。
ホシノがひと呼吸おき、片手でモップを横に振る。
バシュン――
空気ごと押し飛ばすような閃光と衝撃が走り、《エリュマントス》の巨体が石畳を滑って壁に激突し、そのまま崩れた。
コンラッドが前に出て首筋を押さえ、確実に動きを止める。ゲンゾウはすぐさま噴霧器を傷口に押し付け、中和薬を流し込んだ。
ジュウ、と音を立てて濁った蒸気がしぼむ。
トメは飛び散った毛並みを無駄なく布に包み、血を薬品で薄めて拭き取っていく。
「今回は仕方ないな。残したら層が死ぬ」
ホシノの声は淡々としている。
コンラッドが歯茎ごと牙を外し、拡張袋に収める。フィナは遠巻きにその一部始終を見ていた。ただの駆除ではない。“掃除”が主であることを、嫌でも実感させられる。
崩れた壁の奥から、冷たい空気が流れ出していた。フィナが覗き込むと、外よりも暗く、しんとした空間が奥へ続いている。
床一面に不思議な文様が張り巡らされ、壁には一部が削れた古い文字が彫られている。
◆◆ノモトヘ 底ニオイデ
口の中でそれをなぞりかけたとき、背中に硬い手が置かれた。
「立ち入りは、指示が出てからだ」
コンラッドだ。声や表情に感情はないが、力は有無を言わせなかった。
全員が視線を交わすこともなく、粉塵に足跡を刻みつけながらその場を離れた。
壁の隙間の暗がりに、一瞬、小さな青白い揺らぎが見えたような気がした。が、フィナは口に出さなかった。
回収作業が再開された。崩れた瓦礫の中から、焦げた盾、折れた槍、名残の布切れが手際よく回収されていく。
フィナもタイルブレードで壁際の血痕を剥がし、袋に入れた。
「まあまあの手つきだな」
ホシノのわずかな褒め言葉に、フィナは小さく拍を合わせる。壁の隙間から、小さな鈴のような響きが聞こえた気がした。振り返っても誰もいない。ただ響きが消えた方向に、あの青白い残光を想像してしまう。
◆
事務所に帰りついたのは明け方近く。
湯を注ぐ音と、手袋を外す布擦れだけが室内に響いていた。
フィナは椅子に腰を落とし、足の裏に残る石粉の感触を確かめた。
飴玉を口に転がす。窓から見える景色は暗いまま。
どこかで、さっき見た暗がりと同じ沈黙が、じっとこちらを見ているように感じられた。