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第六話

 深夜一時過ぎ。

 『派遣おそうじ クリーニングポニー』の事務所は、外の冷え込みと反比例するように静かに温まっていた。

 ストーブの低い唸りと、書類をめくる紙の擦れる音。工具や薬瓶がわずかに触れ合う、細く硬質な音が時おり聞こえる。


 事務所に入ってきたホシノが、そのまま壁際に向かい地図を外す。


「六層西側、大回廊だ」


 低く短い声に、動きのなかった空気が一段引き締まった。地図を広げ、その横では小さな砂時計が時を刻み始めている。

 記録係のテッサは、机に置かれた報告書を軽く指で叩く。


「ウィス、ブロ混成組が帰還。大きいの二、小さいの多数……燃え跡もあるかもしれません」

「むむ……厄介そう?」


 フィナは言いながら防護マントのフードを引き寄せる。

 それ以上の会話はなくても、全員が理解している。自分たちの手で汚れも残骸も消す——それが仕事であり、日常だ。

 コンラッドが「準備」と短く言い、鉄箒の柄を締め直す。動作のたびに金属音が低く響いた。

 ゲンゾウは薬瓶を整列させ、その順番を指先で確認。トメは革製の鞄から防護マスクを取り出し、鼻先まで持ち上げてからまた下ろす。準備には無駄がなく、音も少ない。


 道具が持ち主の手に収まると、その場にいた深夜班は外へ向かう。テッサはもちろん留守番である。

 ドアを開けると、冷たい風がホシノたちの肌を容赦なく刺した。暖かさは口元を覆うマスクの中だけに渦巻いている。


 事務所裏では荷物を積み込み、荷台とポニーを繋ぐ。コンラッドの大きな手で撫でられる八代目が嬉しそうにひと鳴きした。

 フィナは胸ポケットの小袋から飴を一つ取り出し、舌の上で転がした。微かな柑橘香が喉を柔らかく湿らせる。

 

 馬車は滑るように夜の路地を進んだ。静音蹄鉄が石畳の音を吸い、やがて街路灯もなくなる。土と落ち葉の道。空気は一段と冷え、甘みの後の舌に鋭い冷気が沁み渡る。


「なんか、今日の空気、おいしいですね」


 思わず漏らしたフィナに対し、誰も答えない。コンラッドだけが、わずかに首を傾けた。

 

 四十分後、馬車は山道沿いの岩肌に到着する。暗い岩の裂け目から、湿った冷気が低く流れ出る。ポニーには指示符が貼られ、近くの茂みに解き放たれた。



 六層西大回廊。視界の遠くには黒い岩壁と白い鉱脈が細く走り、あらゆる音が回廊の外側に吸い込まれていた。息遣いだけが耳の奥に響く。

 足元の石床はところどころ濡れ、苔に紛れて弱々しい光虫が明滅している。湿気で空気は重く、喉に冷えがまとわりついた。


「残ってる」


 ホシノの声が低く響く。視線の先、うっすらと水を張った石床の中に、砕けた白い骨と煤けた皮紙の破片が散っている。報告書にあった遠征の跡と思われる。

 フィナは箆で骨片をすくい、防護袋へ落とす。骨が布袋の底で乾いた音を立てた。


「……古いのが混ざってるな、これ」

「座学だと、とっくに吸い込まれてる頃ですね!」


 隣でフィナが小さく笑う。ホシノは半目で一瞥すると肩をすくめた。


 大回廊。複雑な作りではあるが掃除の進行は滑らかだ。コンラッドは通路の溝に片手を突っ込み《引き針》で金属片を引き出した。それは半分錆びた鎖の一部と、ねじ切れた留め具。

 トメが無言で麻袋を広げ、コンラッドが中へ落とし込む。


 ゲンゾウは石柱の黒い染みを目視で確認すると、薬瓶を開き、刷毛で縁から塗布。液が染みに触れるとじわりと色が淡くなり、溶けた成分が液面に浮かぶ。それを白布で丁寧に押さえ取る。

 焦げたような匂いが微かに立ち上り、マスク越しでも鼻腔に残った。


 ホシノは全体を見渡し、小さな手振りで配置や進む方向を指示した。濡れた石床は滑るため避けて進み、五十メートルごとに区切って処理区画を変える。

 息は白く、握る箒やモップの柄からじんわり冷えが伝わってきた。時間の進みが水に沈むかのように、じわじわと遅くなっていく。


 ——青白い光。


 ふと、フィナの視界の端に淡い揺らぎが生まれた。握りこぶしほどの青白い光。石床の通路奥にふわふわ、と上下に揺れている。


「……あれ?」


 思わず立ち止まる。瞬きした次の瞬間、光はそこになかった。視線の先にあるのは、変わらず水に濡れた石畳と見通せない通路のみ。棒立ちのフィナを訝しみ、ホシノは声をかけた。


「何かあったか?」

「……いいえ」


 短く答え、手を動かす。

 脳裏にテルコの声が過る——“近づいたら消えた”光。まさに今のように、そこにあったはずのものが、何事もなかったかのように消えてしまう、あの噂話。

 フィナは、なぜ光を見たことを伝えなかったのか自分でもわからない。ただ通路の先をしばらく見つめていた。

 

 皆の作業は止まらない。

 濡れた石から煤を拭い、骨は封菌袋に、武具の破片は麻袋へ。

 フィナは麻袋の中身が少しずつ重くなるのを肩紐で感じながら、足元の苔や石くずをモップで片付けていった。苔は《イドク硫漬布》で覆って剥ぎ、胞子の飛散を防ぐ。

 淡々とした動きの中でも、さきほどの光の残像だけがフィナの視界の片隅に焼き付いたままだった。


「終わりだ」


 ホシノが短く告げ、全員が道具を背負う。

背後の闇は何事もなかったように静まり返り、帰り道にあの光が再び現れることはなかった。



 事務所に戻ったのは四時半を少し回った頃。

道具を所定の棚に戻し、防護マントを掛け、手袋を外すと薬品の匂いがわずかに指先に残った。


「今日は……静かすぎたな」

「不思議だったねぇ」


 ゲンゾウの言葉に、珍しくトメも頷く。

 報告書に向かっていたホシノは、顔を上げずに「次の巡回で見よう」とだけ応える。


 それ以上、誰も続けない。

 フィナも青白い光の話は飲み込み、かわりにポケットからドライフルーツを取り出した。

 甘みが口の中にじんわり広がり、固まっていた呼吸がやや緩む。


 外では風が窓を叩き、室内には変わらぬ温もりが満ちている。けれど、あの闇の奥にちらりと残った光だけは、どうしても頭から離れなかった。


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