第五話
「ハッ……うちの事務所って、無口な人しかいない!?」
深夜二時、《派遣おそうじ クリーニングポニー》。
事務所の灯りは薄く、壁時計だけが規則的に音を刻んでいる。
机の向こうでは主任のホシノと記録係のテッサが、地図と報告書を前に細い声でやりとりをしていた。
「三層南端の通路、補修済み確認」
「確認印、ここ。……次、六層東側の……」
彼らの会話は、完全に仕事の手順だけで構成されている。世間話など一切ない。
奥の机にいるコンラッドは、無言でモップの柄を締め直し、時折じっと先端の汚れ具合を見ている。
隣のゲンゾウはニコニコとした顔で、金属製の箒の先を軽く磨き、トメも同じく静かに麻繊維を重ねて撚りをかけている。
にぎやかさは欠片もないが、不思議と落ち着く静けさだ。
しかしフィナは飴玉を口の中で転がしながら、じっと周囲を見回して口を尖らせた。
「……やっぱり、無口ばっかりですよね」
誰も否定も肯定もしない。否応なく沈黙が戻る。その時だった。
――ガララッ。
その沈黙を破るように、引き戸が勢いよく開いた。
冷たい夜気と一緒に、明るく響く声が飛び込んでくる。
「おこんばんは〜!!寒いわねえ!ほらほらみんなっ!持って来たわよ〜!」
恰幅のいい年配の女性が大きな紙袋を抱えてずかずか入ってきた。金色混じりの茶髪を団子にまとめ、目尻の笑い皺が元気そのものを物語っている。
この場の静けさをものともせず、満面の笑みで袋を机に置いた。
「テルコさん、来てくれたか」
ホシノが珍しく口元を緩める。
テッサも「それは?」と袋を覗き込む。コンラッドは視線だけ向け、ゲンゾウとトメは手を止めて笑顔で頷いた。
「昼に焼いたマドレーヌと、蜂蜜のクッキー!寄り合いに差し入れしたんだけど、余ったから持ってきたの、はいどうぞぉ〜!」
ふわっと香ばしい匂いが広がり、全員の顔色が一段和らぐ。
フィナも思わず受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げた。
だが、その直後だった――
「そうそう、寄り合いって言えばなんだけどぉ……聞いたぁ?最近、市場地下の奥で青白い光が見えたんですって!底王のなにがしだって噂でさ、八百屋の旦那は『確かに見た』って言うし、豆腐屋の娘は『近づいたら消えた』って言うし……でね、あたしの考えじゃ――」
機関銃のような声が止まらない。
ホシノは「ああ」「そうか」と淡々と相槌を打ちながら資料に目を戻す。
テッサは「へえ」と聞き流しつつ、ちらりと書き込み用の欄にメモを取る。
コンラッドは黙々とクッキーをかじり、ゲンゾウとトメはにこにこと「そうなんじゃなぁ」「ええ」とだけ返す。
フィナは、流れを掴めないまま視線をきょろきょろさせた。
(なんだろう、この人……すごく元気……)
「あら!?あらあらあら!?あなた新顔ね?あらあら可愛い!名前は〜?」
「フィナです」
「まあ〜いい名前!うんうん、顔を見たら分かるわ、お菓子好きでしょ?」
テルコは躊躇なくフィナの隣に腰を下ろし、まるで旧知のように距離を詰めてくる。
フィナはポケットを押さえ、「……はい、まあ」と苦笑する。
「甘いものは夜勤の生命線よぉ〜!!」
さらに笑顔が押し寄せてくる。
「テ、テルコさんって、普段は日勤なんですよね?」
「そうよ〜!子どもがいるから夜は滅多に出ないんだけど、昔は深夜班だったわよぉ?今夜はほんとたまたま時間ができたの、偶然!そしたらたまたま旦那が子供達見ておくから、息抜きに遊んでおいでっだって!たまたま旦那って変な意味で言ってないわよぉ!もう、そうそうそうそう息抜きと言えばなんだけど、ロヴァンとカリンの二人がね、もう笑っちゃうんだけど――
差し入れの甘味は嬉しい――けれど、その勢いに誰も口を挟めない。
そんな空気に、フィナは少し圧倒されつつも、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じていた。
やがてホシノが時計を見て、「そろそろ出るぞ」と声を掛ける。
全員が立ち上がり、道具を手にした。
テルコは「気をつけてね〜!戻ったら聞かせて!あ、そうそう戻るといえばなんだけど、テッサ聞いて……」とひらひら手を振る。
扉が閉まっても、彼女の声が背中に残っているような気がした――。