第四話
深層十七層。
重苦しい空気と湿った石の匂いが鼻腔を刺す最奥区画で深夜清掃班の五人が動いている。
今夜はいつもより二人多い。ホシノ、フィナ、コンラッド、そして昔からクリーニングポニーに所属する老夫婦――ゲンゾウとトメ。
彼らの足元には、今まさに回収・処理を終えつつある大小の残滓が散らばっていた。
広間の奥、壁面に近い場所に設置された鉄製作業灯が、冷たい白光で作業現場を切り取っている。
その光の下で、まずはゲンゾウが床に積もった骨片を片膝ついて集めていた。
今回の骨は半分以上が《裂顎犬》のもので、砕かれた跡に鈍い銀粉が付着している。これは魔法骨片の証拠で、そのまま放置すれば地下の魔甲蟲を呼び寄せる。
ゲンゾウは鉄箒でまとめ、封菌袋に押し込み、麻紐で口を二重に縛った。
その傍らでは、トメが壁に沿って赤黒い染みを処理している。染みの直径は半歩ほど、周囲の石に根を張るように浸食していた。
彼女は腰の革ポーチから小瓶を取り出し、刷毛に青緑色の液体《グライドク吸着液・強化配合》をたっぷり沁み込ませる。
縁から時計回りにゆっくり塗布すると、染みがじわじわと浮き上がり、表面がぺりっと剥がれる。
剥離と同時に獣脂と血液、そして金属錆の混じった匂いがふわりと立ち、フィナは思わず口元を覆った。
「臭いが……」
「慣れろ」
ホシノの一言はぶっきらぼうだが、薬液の残量を一瞥して次の区域に視線を移している。
一方、フィナは口の中で飴をコロコロ転がしながら広間中央へ向かい、散乱した金属片の掃除に取り掛かる。半分錆びた鋲、曲がった短剣の破片、そして月光鋼貨と呼ばれる淡く光る古硬貨。
硬貨の縁には擦過傷と血痕があり、魔法汚染の可能性があるため、フィナは革手袋越しに拾い、《魔鎮袋》へ入れる。
この袋は内側に浄化符を貼り合わせてある。袋の中が微かに熱を帯びた。
コンラッドは片手に箒を持ち、散らばる砂埃と羽毛を一列に揃えていく。
羽毛は《灰翼鴉》のものと思われ、魔素を帯びているため柔らかく光っている。
普通に掃けば舞い上がって吸い込みかねないが、コンラッドの"静かに絡め取る"独特の箒捌きは、羽毛を空気に乗せずそのまま吸孔札へと吸い込ませる。
音はほとんどしない。見ていると、汚れや残滓が彼の意思で列を作って動いていくようだ。
壁際では、ゲンゾウが崩れかかった石壁の補修も進めていた。
崩落の兆しがある部分を木製のヘラで削り、粉塵を含ませた《イドク灰石充填材》を詰め込んでいく。
この充填材は空気に触れてわずか数分で硬化し、周囲の石色にほぼ同化する。
トメが最後に刷毛で薄い《イドク封魔塗料》を塗り込めば、その部分は魔物の寄り付きが緩やかになる。
フィナの作業は続く。棚の下に手を差し入れると、埃まみれの布袋が一つ出てきた。
袋の中からのぞくのは砕けた冷光石の欠片。
青白く瞬き、触れると指先にチクリとした感覚が走る。「要鑑定」とフィナは即断し、防魔布で包み、拾得物タグに《冷光石・破損・呪素残留》と記して袋に収納した。
そのとき、ふと右手の壁面に視線が吸い寄せられる。光の届かない陰の中に、黒ずんだ何かで書かれた短い文――
欲シイモノハ底ニアル
墨跡は擦れ、ところどころ欠けているが、文字としてははっきり読めた。
意味はわからない。それでも読んだ瞬間、背中から首筋にかけて冷たい圧が這い上がる。
覗き込まれている、というより、こちらの内側を覗き抜かれる感覚。
息を詰めたフィナに気づき、ホシノが短く「進め」とだけ言った。
他の三人も――見てしまったのか、無言のまま持ち場へ戻る。
空気がほんの少し変わったのを感じながらも、作業は続く。
残りの区画では、ゲンゾウが床に散らばった《血錆釘》を回収し、トメが《中和油》で壁の煤を落としていく。
コンラッドは最後の仕上げとばかりに、大広間の中央を扇状に掃き清め、微細な砂片や羽根までも吸孔札に収めた。
フィナは回収物台帳に簡易記入を終え、腰の袋を確認する。
袋の中では、月光鋼貨と冷光石の欠片、血錆釘が互いに小さく触れ合い、コツン…と短い音を立てた。
その音は、この十七層で過ごした時間の重さと、この場所に染みついた何かを小さく告げているようだった。
「撤収」
ホシノの声で全員が道具を仕舞い、荷物を台車に積み直す。
広間は作業前よりも明らかに明るく見えたが、あの墨跡の文だけは暗闇の奥底に沈み込んだように残っている――そんな感覚を、フィナは振り払えなかった。
そして、彼らはゆっくりと森へ抜ける帰路についた。
夜が明けかけた薄明かりの中、五人と二頭のポニーは森の道を静かに戻っていた。
ホシノ、フィナ、コンラッド、ゲンゾウ、トメ。
深層十七層からの帰還だ。思った以上に時間がかかり、空気には夜の冷気と朝の気配が同居している。
最後の広間、その奥の石壁に刻まれていた、黒ずんだ短い文。
欲シイモノハ底ニアル
ただそれだけ。
意味はわからない。それでも、読んだ瞬間に背筋を押されるような、じっと覗かれる感覚があった。
誰も深くは触れず、森を抜ける道は、いつもより足取りが重い。
フィナはポニーの手綱を片手に、もう片方の手で腰の袋を探る。中には、蜜漬け果実、ナッツの小袋。
鼻に残った深層の薬臭い匂いを、甘い香りで打ち消した。
「今日は……かかりましたね」
フィナがぽつりと口にした言葉に、誰も答えない。疲れているし、あの刻文のせいで気分も重い。
ゲンゾウとトメは無言のまま、乱れない歩調で進んでいく。
やがて街を囲む屋根の影が見え始め、空は群青から淡い橙色に変わっていた。
◆
市場へ続く通りに差しかかると、向こうから歩いてくる人影があった。
陽に輝く短い金髪、人好きそうな表情と引き締まった均整のとれた身体、肩にかけた革製の剣袋からは見事な黄金色の柄頭が見える――ミツルだ。
「おーい、フィナ!」
昔と変わらぬまっすぐな声。
ただ次の一言は、彼らしい遠慮のなさを含んでいた。
「なんだよ、掃除婦やってんのか? モンスター倒してた頃のほうが華があったじゃん」
フィナは足を止め、ナッツの小袋を指で丸めながら笑った。
「これも悪くないよ。汚れが消えてダ……街がちゃんときれいになるから!こういうの、けっこう好きかも」
ミツルは「はあ?」と目を丸くし、それから肩をすくめた。
「変わんねえな、お前。まあ元気ならいいや」
ゲンゾウとトメが脇を通りすぎるとき、軽く会釈だけを残した。
二人の背が遠ざかっていくのを横目に、ミツルは旧友から視線を外さない。
「今度、昼間にでも飯行こうぜ」
「いいけど、こっちは仕事の後で大体寝てるんだからね」
「じゃあ起こしに行く」
他愛ないやりとりに、不思議と足が軽くなった。
朝日が路地の奥から伸び、街の喧騒が満ちてくる。ダンジョンの刻文はまだ胸の奥に残っていたが、口の中の甘さが、その苦い感触を少しだけ和らげていた。