第三話
その日、事務所に入って最初に目に入ったのは、入り口脇で無言のまま立っている、背の高い50代くらいの男だった。
全身の筋肉は黒いツナギで覆われ、大きなアザのある顔に黒マスク。腰には一本の箒。それだけ。目と髪は灰色で、生き物を測るようにこちらを見ている。
「今日、フィナはコンラッドとペアよ」
テッサが拾得物台帳を持ちながら言う。ホシノの姿はない。
「よろしく、です」
返事はない。うなずきだけ。
◆
行き先は郊外の廃城跡。入口が中層四層目に繋がっているタイプだ。
事務所の裏庭にテッサが案内した。荷台付きの小さな馬車と二頭のポニーが繋がれていた。栗色と白のまだら模様。鼻先から白い息が揺れ、耳がこちらを向いた。
フィナが近寄ると、栗色のほうが首を揺らす。
「……この子たちが、クリーニングポニー?」
「八代目と九代目よ」
テッサが事務的に答える。
荷台に並んでいるのは、箒、モップ、防毒マスク、防腐布、短い柄のスクレーパー、ランプ、拡張収納袋、各種薬液。瓶の中の液体は、表面がじんわり赤く光っている。
フィナは荷台の隙間にお菓子袋を忍び込ませ、馬車に乗り込んだ。
コンラッドが手綱を引くと、蹄の音はほとんどしない。静音蹄鉄の効果らしい。
石畳から土路へ。街路灯の明かりが薄れていくのと同時に、郊外の冷たい空気が頬を刺した。
◆
廃城跡の前で、ポニーは勝手に足を止めた。魔誘符の指示で行き先を覚えているらしい。
荷台から降り、入口手前で装備を確認する。ホシノは最低限ではあるものの説明をするタイプだったが、コンラッドは一言もしゃべらない。
地下階段を下りると、湿った空気に冷気が混ざる。
ランプの光に照らされるのは、床一面に散らばった黒い羽と、獣毛のような硬質の毛の欠片。
ところどころ、羽がかすかに青緑に光っている。魔力の残滓だ。
「掃く」
低い声が背後から落ちてきた。フィナは無意識に背筋を伸ばして頷く。
コンラッドの箒がすっと床を払う。
普通の掃き動作なのに、毛先から薄白い粒子が舞い上がりもせず、すべてが“音もなく”一方向へ寄っていく。
寄せられた羽毛はひと塊になった瞬間、箒の根元に埋め込まれた《吸孔札》に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
魔甲蟲が二匹、羽毛の中で蠢いたが、動いた途端に淡い銀光に包まれ、砂のように崩れた。
「……どうやって?」
「箒」
やはり説明はない。
短いやり取りだけ残して、作業は次の区画へ滑るように進む。
◆
五層目。広間中央には、乾ききらない赤黒い染み。横倒しになった木製テーブルは脚が三本折れ、樹皮の香りと同時に酸味を含んだ生臭さを漂わせている。
フィナがしゃがみ込み、革手袋越しに染みへ触れると、指先にぬるりとした感触。
「血と発酵酒の混在……かなり滑りますね」
「酸化前に落とす」
コンラッドが渡してきたのは、小瓶に入った緑がかった液体。《グライドク吸着液》。
雑布に染み込ませ床を撫でると、固まっていた染みがその輪郭を残したまま剥がれ上がり、するりと布に絡みつく。
剥がれた面から立ち上る湯気のような白い霞は、肺に入ると軽く痺れを残すため、防毒マスク越しでもわずかに鼻腔が熱くなった。
コンラッドは倒れたテーブルから木片をまとめ、「燃える」とだけ言って山に積む。
灰を集めるフィナの視線が瓶の破片に吸い寄せられた瞬間、鼻へ甘い香りが刺さる。《甘嘆酒》──強い麻痺作用を持つ酒精成分だと気づき、すぐ拾得物袋に入れてタグを結ぶ。
フィナは残り香に顔を顰め、袋からクッキーを出して口に放り込んだ。
そのとき、広間の奥にある壺がまだらに光っていた。
「まどぉうぐ?」
「《魔毒壺》。触るな」
コンラッドがフックランプを向けると、壺の内側にだけ紫色の光が満ちた。すぐに防腐布で包み、背の拡張袋に収めた。
◆
六層、狭い通路が迷路のように入り組んでいる。古びた木箱をどけた途端、影が飛び出した。《スニッパーウィーズル》。鼬の魔物で歯は金属をも裂く。
噛みつかれる寸前、コンラッドの箒がふっと横に振れる。毛先から無色透明の波が走り、鼬の身体が宙に浮いたように後退し、そのまま通路奥の闇に沈んだ。
「…………どうやって??」
「掃いた」
足元に散らばった木屑、錆びた釘、魔鎧片と呼ばれる装甲破片──フィナはそれらを一つずつ拾い、《封菌袋》や金属用の《魔鎮布》に分別していく。
膝についた土がじんわり冷たいが、気にもしなくなっていた。
◆
七層。腐食で穴だらけになった鉄箱が横倒しになっている。蓋の隙間から短剣と小銭入れが覗いていた。
「拾得物」
渡された小銭入れからは音がしたが、フィナは開けない。
「……見ないって習いました!」
「正解」
奥の壁際には燭台の台座から落ちた灯具と油じみ。コンラッドが芯を抜き取り、油膜ごと布に包み、新しい芯を差し込む。
通路の突き当たり、石壁の崩れ目から冷気。吐息に混じって、わずかな《下層瘴気》の匂い──薬草を焦がしたような苦い匂いが上がってくる。
「下層の漏れ。塞ぐ」
二人で石片を運び、《イドク赤胆塩》を振りながら土を詰め、魔素汚染の拡散を防ぐ。
◆
八層。最終区画。
噴水跡の広間中央には、巨大な蝙蝠の死骸。翼手は半液体形化して床にこびりついている。
「……初めて見た」
「初めてでも、やることは同じだ」
防毒マスクを装着。コンラッドは棺桶ほどの拡張収納袋を開き、フィナは防腐薬入りの布で死骸の関節部を素早く包む。たちまち防腐薬が反応し、死骸の輪郭がゆっくりと縮まっていく。
中からはしばらく鈍い音が続いたが、やがて緩やかに静まった。呼吸を合わせて袋に収め、封をする。
残った獣毛は箒で集め根元の《吸孔札》に。床を綺麗に拭き、壁一面《イドク硫漬布》で押さえて胞子の飛散を抑える。
広間は、ただ石の匂いと水の名残だけになった。
◆
地上へ戻ると、白んだ空気の中で栗色のポニーが耳を動かした。
荷台に道具と回収物を積み終え、コンラッドが手綱を握った。
蹄の音は、行きよりもさらに静かだった。
しばらくして、コンラッドがぽつりと言った。
「慣れたな」
「……そう見えます?」
「ああ。箒がよく動く」
それはたぶん、褒め言葉だった。
フィナは少し口元をほころばせたが、隣を見るとすでにコンラッドは前を向いていた。
街の境界が見えてきたころ、東の空に淡い桃色が差し込み始める。
今日の仕事は終わり――だが、帰ればまた次の出発準備が待っている。