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第十六話

 朝靄の薄いヴェールが、街の上に静かに降りていた。

 ビルの谷間をゆっくりと染める薄紅色の光は優しく、だがどこか冷たさを含む。


 記録室の窓際に座ったテッサは、カーテンの隙間から差し込む朝の光を遮りつつ、目の前の机に置かれた魔封瓶をじっと見つめていた。


 その中では、青白い粒子がじんわりと脈打っていて、まるで新たな生命の芽吹きを告げているように感じられたが、同時にその存在の重みは彼女の胸にどっしりとのしかかっていた。


 フィナの異変が協会内に半ば公然と伝播し、もはや彼女は単なる清掃員の枠を超えた存在となっていた。


 その現実は、ダンジョン清掃協会と国家機関の間に重苦しい緊張を巻き起こし、彼女の存在を「潜在的な危険因子」として警戒する空気を生んでいた。


 テッサは魔封瓶から視線を外し、その先に広がる資料の山を見た。

 古ぼけた台帳、最新の調査報告、解析資料……それらは断片的な真実の欠片を示しながらも、もつれ合って謎の深淵を覗かせている。


 やがて重い足音が廊下を響かせる。聴き慣れた声に促され、テッサは書類を抱え会議室へと向かった。


 歴史の重みを感じさせる重厚な木造の扉を静かに閉じると、室内の緊張感が一層濃くなるのを感じた。

 会議室に集まったのは協会の重役たち、顔には疲労と思慮の色が濃く浮かび、若手からベテランまで各々眉をひそめながら議論の輪に加わっている。


 会議を主催する協会長であり、クリーニングポニーの社長でもあるチズルテは深い皺を刻んだ顔で言葉を慎重に選ぶ。


「フィナの変貌は現時点で断定できるものではない。未知の感染症状かもしれないし、ただの体内の変異ではない。だが、それと同時に、ダンジョンそのものに創られた存在かもしれず、その判別はついていない」


 別の重役が声を震わせながら言葉を継ぐ。


「専門家の話では、彼女の変化は合体や進化に近い複雑な現象であって、これまでにない領域の事象かもしれない、と。もはや我々の手に負える代物ではない可能性が高い」

「だとして、そのまま国に引き渡すのか?うちの従業員を」

「従業員なものか!ただの死白人ではないか。何を迷う必要がある」

「だが、もし本当にダンジョンによって生み出された存在なら、なぜその娘には明確な自我が存在する?そこが整合しない点だ」

「うむ、国に任せるのが得策である」


 チズルテは重く息をつき、鋭く視線を巡らせて口を開いた。


「国家はすでに動き出している。状況を最前線で監視し、対応を間違えれば国全体の安全が一瞬にして脅かされる。そうした緊張感の中で我々は動いているのだ」


 沈黙が会議室を覆い、余韻が重く残る中、テッサは覚悟を込めて声を発した。


「会長、私は調査を続けるべきだと考えます。そして隠蔽するのではなく、"全てのこと"を真実として明らかにする時ではないですか?」


 その言葉はまるで祭壇に捧げる祈りのように静かに響き、会議室は一瞬の静寂を迎えた。だが、すぐに議論は激しく対立し、混迷を深めていった。



 時間はあっという間に過ぎ、深夜。事務所では、フィナが変化する身体の中で葛藤を続けていた。


 青白い粒子が皮膚を浸透し、一時の冷たさはすぐに暖かさに変わり、脈動は内側に根を張るように増幅し続けている。

 ホシノたちは彼女の不安を知りつつも、手を差し伸べることができず、苛立ちを募らせていた。

 

 その時、低く重いノックが事務所の扉を鋭く叩いた。音は静かながらも、確かな緊張感を伴って響く。

 

 ホシノがそっと扉を開けると、そこには伝統的な濃紺の制服を身にまとった国の調査チームが数名、控えめな足音で静かに一歩ずつ踏み入ってきた。

 彼らの表情は硬く、目はひときわ鋭い光を帯びている。


 リーダーらしき男がすっと歩み寄り、冷静かつ堅い口調で言った。


「未知の感染症の疑いが強まったため、対象の同行を要請。協力を求める」


 視線が静かにフィナへ向けられる。

 彼女の唇は震え、呟くように小さく頷く。

 恐怖と不安が交錯する瞳の奥に、諦めにも似た弱さが垣間見えた。


 その瞬間、ホシノの体に闘志が漲る。咄嗟にフィナの前に回り込み、目を見据えた。


「感染症だというなら、一緒にいた俺らも同じだ。俺たちも連れてけ」


 隣のコンラッドも無言で頷き、強い決意を胸に彼女の両脇を守るように固める。


 外では冷たい風が街灯の間を吹き抜け、不穏な音を立てていた。

 その風の音が、室内の緊迫した空気をさらに冷たく引き締める。


 もう一度、調査官の声が静かに、だが揺るぎなく響いた。


「この娘のみだ。拒否する場合は、即刻拘束する。」


 どの声よりも重く、確かな決意がその場を支配し、時が一瞬止まったかのように感じられた。そして、その言葉は鋭利な刃のように空気を切り裂き、事務所に、そしてフィナの運命に暗い影を落とした。

 


 テッサは祖母レイチーの古びた台帳から目を離せないでいた。当時の詳細は途切れかけ、文字は煤けているが残された記録は不気味なほど今の状況と共鳴していた。


「50年前より、今の状況の方が遥かに危険だ……止めないと」


 疑惑が深く影を落とし、協会の秩序は揺らぎ続けている。



 夜の闇に、青白く揺れる光の渦が静かに回り始めた。それは荒れ狂う嵐の前の海面のように、不穏で美しい。

 物語は未知の深淵へと進み、誰もが新たな恐怖と共に、それでも懸命に光を掴もうと踏み出すのだった。

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