第十三話
深夜の街は霧に覆われていた。
街灯の明かりは白く溶けてぼやけ、石畳を叩く三人の靴音だけがはっきりと響く。
ホシノ、コンラッド、そしてフィナ。今日は市場下ダンジョンの裏入口〜十三層の清掃確認。先日の十五層――ロヴァンとカンナが“光”に溶けて消えた事件。 国からなかなか再清掃の許可が下りなかったが、目撃者による再調査・再清掃を強く押したおかげで、ようやく十三層までならと許可を取り付けた。
「動線は十二層まで。袋に余裕がなければ十三層を確認して戻る」
ホシノの声には、いつも以上に重さがあった。
フィナは「はい」と頷いた。けれど胸の奥のざわつきは止められない。前回の光の渦、“見届けよ”と響いた声、そして仲間の消滅。あの出来事がまだ脳裏を離れない。
石段を降りると空気は湿り、喉の奥に鉄の苦味が溜まった。針葉樹の根のような匂いに、どこか舌の上に甘さが残った。
ランプの橙が照らす通路で、壁や床に淡く光る粉が点々と瞬くのがはっきりと見えた。
(……粉、じゃない。あの時の……)
◆
十一層の広間は、古い祭祀場のような石の基壇が残っていた。その周りには瓶や布切れが散乱し、松明が焦げ跡を残したまま転がっている。
フィナは箆でガラス片を拾い、防腐布でくるもうとした。
その刹那――
掌の中に濃い青白い光が弾け、まるで火花のように手の甲を走った。
「あっ——!」
次の瞬間には布を貫き、光が指にぴたりと貼り付き、這うように熱が広がる。
「フィナ!」
ホシノの声が低く鋭く響く。
「落とせ」
「は、はいっ!」
慌てて振り払うと、光は石床に散り、すぐに掻き消えた。
だが指先にはなお熱が止まず、なぜか舌の奥から甘さが込み上げてきた。飴を舐めたときのように、濃密な甘味だけが。
飲み込むとその熱は喉を滑り落ち、胸の奥に小さな脈を刻んだ。
◆
作業は続く。
血痕は液で剥がす。苔は薬剤で溶かす。釘や刃片は分けて袋に収納。――ただの清掃。でもフィナには、一つ一つの残渣から光の残滓が滲み出して見えた。
その度に胸の奥の脈が応え、甘さが広がる。恐怖よりも、なぜか心地よさが勝ってくる。
やがて壁の黒染みにモップを滑らせた時だ。
吸着布の下から、まとまった光がかたまりとなってあふれ出した。
――白光。視界全体が一瞬で満ちる。
眩しさに息を呑む間もなく、その光は彼女の中へ流れ込んだ。
「っ……!」
肺に押し込まれるような重い衝撃。
胸郭の奥で異物がどくんと鼓動し、喉が詰まる。フィナは両手を胸に当て、膝をついた。
コンラッドが一歩踏み出す。
ホシノがフィナに駆け寄ろうとしたのを無言で制止したのだ。
フィナの身体に、青い線が駆け巡る。血管のように腕へ、首へ、走り、顔を照らす。
ロヴァンやカンナと同じようで違う、何かが身体を巡る感覚――けれど、不思議なことに痛みはない。ただ温かさと、これまで生きてきて感じたことのない——満腹感。
その瞬間、頭の奥に言葉が浮かんだ。
≪——欲シイモノハ、底ニアル≫
唇が勝手に動き、声に変わろうとした。
――バシュン!
衝撃が走る。
ホシノのモップが背中に叩きつけられ、衝撃波が石床に響いた。フィナの身体は肺から空気を吐き出しながら、叩き伏せられた。
「ぐへッ!!……ぃたぁい」
「お前……?」
低く、押し殺した怒声と戸惑い。
光は弾かれたようにしゅうと収まり、皮膚の青は次第に薄れ消えていった。だが胸の奥に、小さな熱がしこりのように残っている気がした。
◆
その後の作業は淡々と続いた。
フィナは震える指で瓶の破片を袋に落とす。視界の隅では、なお光の残粒がちらついている。
ホシノもコンラッドも口を開かない。ただ、隣に立つ二人の気配がひどく重く感じられた。
――やがて通路を抜け、地上に戻った。
事務所には、朝の気配がわずかに滲んでいた。
道具は棚に戻され、報告書の紙音だけが響く。だがフィナには、脈打つ胸の熱がまだ治まらない。
洗面台で指を濡らした時。
水滴から、光の粒がふっと立ち昇り、空気に消えた。
それでも恐怖より、なぜか懐かしさや愛おしさを感じた。長い飢えを初めて満たされたかのように。
「……お前は、どっちだ」
振り向けばコンラッドがいた。無表情のまま、低く落とす。
それから何も言わず出て行った。
机に向かうホシノは、報告符から目を離さず言う。
「他人に話すな。まだ」
一瞬だけ鋭くフィナを見て、再び視線を戻した。
フィナは飴玉を口に放り込む。
しかし甘さはすぐ薄れ、奥歯にはざらりと残る結晶感だけが広がる。その舌触りは、あの光粒と同じざらつき。
◆
窓の外。
霧の中で、小さな光が揺れていた。気のせいかもしれない。けれどフィナには、何度も視界を横切る青白い粒がはっきりと見えた。
見えるのは自分だけ。
直感した瞬間、胸のざわめきは恐怖ではなく、確かな鼓動として響いた。
その夜。眠りに落ちるまで、まぶたの裏で青い残光は脈打ち続けていた。




