第十一話
《派遣おそうじ クリーニングポニー》の事務所には、暖房の低く唸る音と並べられた薬瓶がかすかに金属音を立てていた。
外は深い霧に包まれ、窓枠に映る月影がぼんやりと揺れている。
机の中央には地図と筆記用具が並び、その隅でホシノが依頼票を指先でなぞった。
「大廟十層の西環道。日中に踏破があったと報告はあるが、内容は曖昧だ。清掃と異常物の確認を行う」
低く呟かれた言葉は、部屋の静寂に浸透していった。
長身で顎髭を整えたロヴァンは黙して視線を落とし、腰に短筒と革籠手を携えたカンナは微動だにしない。
二人とも深層単独任務を担うベテランで、深夜班でも“仕上げ人”の異名を持つ存在だ。
初めて会う彼らを前に、フィナは緊張のあまり声を張り上げた。
「よ、よろしくお願いします!」
ロヴァンは片手を軽く上げただけ。カンナはわずかに顎を引いて一瞥し、静かに頷いた。
「動線は環道上りの周回清掃。異常物は必ず回収する。異変があれば俺を呼べ」
ホシノの声は冷静だが、何かを警戒する響きを含んでいた。全員が無言で立ち上がり、作業の準備を始める。
◆
転送陣の蒼い光が消え、フィナの足元に石畳の冷たく湿った感触が戻った。
十層西環道は粘りつくような湿気に満ち、金属や土の匂いに薬品の香りが混じり合っている。
ランタンを手にホシノが火を絞れば、橙の光が床の隙間を浮かび上がらせ、その陰で青白い鉱粉のような粒がちらちらと瞬いているのが見えた。
「……今日はやけに粉塵が散っているな」
低く吐いた声。フィナは「鉱粉ですか?」と口を開いたが、「いい」と一言だけで切られた。
ロヴァンは右壁に寄るとタイルブレードの平面を使い、石壁を軽く叩いた。響きの具合から壁の奥に空洞があることを見極めると、獣血のこびりついた壁や金属の一部を少しずつ丁寧に削ぎ落としていく。
触れる石片は粉のように崩れ落ち、錆色に覆われた金具はぽろりと外れた。
その音はどこか耳障りで、骨が砕けるようにも聞こえ、それが彼女の背筋を冷たく走った。
一方で、カンナは反対側の床に身をかがめ、短筒先端に取り付けられた吸着布を静かに滑らせる。
黒ずみは泥や細かな骨片が絡み合った凝集物で、布を絞ると乾いた腐敗臭がわずかに漂い始めた。
フィナはそれがまるで死骸の一部を扱っているかのように感じ、不安が胸を締め付けるのを覚えた。
作業はまるで儀式のように静かで隙のない動作で進み、言葉はほとんど交わされない。
しかし、ロヴァンが落とした石片の影やカンナが絞る布の隙間からは差し込むように青白い粒が零れ、彼女の視界を何度も横切った。いずれも一瞬で暗闇に紛れる。
フィナは胸の奥に言い知れぬざらつきを覚え、思わずまばたきを繰り返した。
通路の床には、割れた瓶の破片や硬化して乾き切った血膜が散らばっている。フィナは慎重に吸着液を刷毛に取り、乾固し付着した血膜に塗布した。
数秒後、布を押し当てて剥がし取ると、その表面のざらついた冷たさが生身の感触を伴って指先に伝わった。
剥がした破片を封菌袋に落とすと、袋の内側で青白い光がかすかに揺れ、すぐに静まっていった。
視線を上げれば、ロヴァンは朽ちた金属片を袋に押し込み、カンナは苔を剥いで油布でくるんでいる。
どちらの作業跡からも、かすかな光粒が生じるのをフィナは確かに見た。
だが彼らは、それを完全に無視していた。
すると、突然ホシノの声が低く響いた。
「……足を止めろ。風」
空気が一瞬冷たく締まり、右奥から細い気流が通り抜ける。
頬に冷ややかな感触が触れたが、その風には不自然な金属音が混ざっていた。
耳鳴りにも似た鋭い響きがかすかに重なり、フィナの心臓が跳ねた。
「何か……来ているんですか?」
「まだはっきりとは言えん。しかし気を緩めるな。清掃は続行しつつ、常に警戒せよ」
ホシノの言葉には揺るがぬ決意と同時に、確実に異常の存在を見据えていた。
◆
環道から逸れた短い袋道に到達したとき、広間の天井がほんのわずかに高くなる。
中央には煤で黒ずんだ宝箱が、口を開けて無造作に横倒しになっている。
箱からは散乱する鎧板の破片や服の切れ端が顔を出し、薄青く輝く粉塵がゆらぎながら空気に漂っていた。
フィナは恐る恐る近づき、両手で鎧板を持ち上げた。ひんやりとした鉄の冷感が骨を貫く。
こちらを気にもせず、ロヴァンとカンナは何事もないように環道の清掃を続けた。
この光が見えていないかのように、動きも表情も変わらない。
ホシノが背後で低く呟く。
「箱の中身は全部封菌袋に入れろ。絶対に開けるな」
フィナは静かに頷き、壊れた鎧板や服を袋に収める。
封じられた光は袋の内側で小さく揺らぎ、やがてひとりでに消えた。
◆
環道では、二人が歩みを進めるたび、靴跡の残る床に小さな青白い粒がぽつぽつと落ちていく。
誰もそれを指摘しなかったが、フィナは何度もその瞬間を目で追わずにはいられなかった。
作業を終え戻る道すがら、回収袋の重さはそれなりだったが、胸中の重さほどではない。
どうしても指や裾から零れ落ち続ける光が視界に刺さり、落ち着きを保つことができなかった。
やがてフィナが声を漏らした。
「……カンナさん」
「何」
「い、いえ……何でもありません」
短く告げられた返答に言葉を呑み込み、心の奥の冷たいざらつきを隠した。
ホシノは一瞬だけ鋭くこちらを見た。射抜くような眼差しは何かを問いかけたが、語らぬまま前方へと歩き去った。
◆
事務所で手袋を外したとき、フィナの指先に冷たく青白い影がまとわりつくように感じた。
流れる流水と石鹸の香りにもかき消されぬ、暗闇の底に棲まう闇そのものが肌に触れているようだった。
ロヴァンとカンナは一言もなく報告書を提出し、道具袋を担いで扉の外へ。
足元に小さな粒子がひとつ光るのが見えたが、扉が閉まる前に闇に紛れた。
机の端に腰を下ろし、少しでも安心を求めて飴玉を口に転がす。
舌に広がる甘みの中で、青白い粒の残像が脳裏から離れない。脳を掻きむしるような囁きが頭蓋を震わせた。
「……見たな」
書類に向かったままのホシノが、わずかに間を置いて言った。
「はい。でも——」
「口に出すのは、まだやめておけ」
低く、それでいて抗えぬ調子。
フィナは唇を閉じ、窓の外の闇を見据える。
——埃ではない。鉱粉でもない。
あの光は、もっと深く、見えぬ場所と繋がっている。
その夜、眠りに落ちるまで、青白い粒はまぶたの裏で静かに瞬き続けていた。




