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第十話

 事務所の裏口は、湿った石畳と油煙の匂いが入り混じっていた。

 深夜班の集合にしては珍しい顔ぶれ——テルコ、トメ、フィナ、テッサ。他は全員、深層の緊急案件でまとめて出払っているという。


「たまたま旦那の親がまたまた遊びに来ててね!子どもの面倒を見てもらってるの、だから!たまたま今日は深夜班なの〜!」


 鞄を肩に掛けたテルコが笑う。


「ホシノさんたち、全員出勤なんですね」

「そうそう!ホシノ、コンラッド、ゲンゾウ、ロヴァン、カンナ、それに単独で深層全部回れる化け物級の人たちが揃って大仕事。滅多にないわよ、あの面子が全員席を空けるなんて!で、急遽わたしが呼ばれたってわけ〜!」


 いつもニコニコしているトメは、モップを握ったままうんうんと頷くが、特に言葉はない。


「浅層三か所よ!急がないから気楽に行きましょ〜!テッサ、今日は久しぶりに身体動かしてストレス発散しましょ〜!久しぶりってことは、身体に異変がないか確認するのよ?何事も気づきが大事よね!あ、気づきと言えばなんだけどぉ〜、こないだテッサのカップ間違えてホシノが飲んだことあったでしょ?あれ本人多分気づいてないわよ」

「え、私のだったんですか!?」


 テッサが声を上げる。笑うテルコの声は軽いが、その腰にはよく使い込まれたモップとフックランプが揺れている。そして黒く鈍い光を放つ胸当てには、蓮の花があしらってある。

 フィナはちらりと見て、「……これ、ロータスガード級の装備ですよね?」と小声で言った。


「これでも元ローガよ。ブランクあるけどね〜!」




 石段を降りると、昼間に潜った冒険者たちの痕跡が肌に触れるように目に入る。泥の足跡、転がった瓶、焦げた松明。


 フィナが箆で瓶を拾い、袋に入れる間に、テルコは壁際の埃と小石を、モップ布の乾いた面で一瞬になぞるだけで一点にまとめた。布には《埃締め粉》が軽く塗ってあり、粉塵が舞い上がらない。動きは速いのに、床石を擦る音も立てない。


 その後ろでトメはモップにごく少量の《防滑液》を染み込ませ、泥足跡をなぞってはにこっと笑う。


 一か所目は古い地下室。干からびた骨と紙くず、割れたコップが転がっている。紙屑は端が焦げているものもあり、煤が指先に移る。テッサが革手袋のまま拾い、記録とマーキングを済ませる。


 テルコは天井の角に引っかかった埃をフックランプで照らし、柄長の《埃払い》で絡め落とす。埃は一度も空気に舞わず、用意した受け袋に吸い込まれていく。


「テルコさん、テルコさん、ホシノさんって昔どんなだったんです?」

「ホシノはねぇ…… 今だって十分口数少ないけど、昔は会話は三ヶ月に一度って感じで。それがある時だけやたら喋ったと思ったら、モップの柄の新しい巻き方の話を延々と……半日よ?聞くだけで私、耳が腱鞘炎になるかと思ったわ!耳に腱ないんですけどぉ!あ、そういえば、コーヒー豆の産地の違いについても語れるからね、あの子は!ドルマタイ産は火で炙ってから食べるのが一番って真顔で言うの、食べるのよ?コーヒー豆を。うそでしょ?あと一度だけ、『誰にも言うなよ』って前置きして、"下りられるはずのない階段"を降りたことがあるって…あれは冗談だったのかしら?」

「な、なんですかそれ」


 フィナが笑いながらも眉をひそめる。テッサはペンを走らせながら、半分聴き流していた。


「でね、あ!コンラッドは52、あ、53になったかしら。怖そうだけど、手仕事が好きでねぇ、編み物の糸の撚り方の話になると目がキラキラするの!この前なんか、袋から出てた毛糸を触ったらちょっと熱かったのよ〜!そしたらコンラッドが飛んできて、『ああ、まだ生きてる』って呟いてたわ。意味わからないでしょ?」

「…はい、まったく」


 フィナは苦笑し、骨を布に包む。トメはにこにこしながら、天井の梁に引っかかった埃を落とした。



二か所目、小広間。

 何かの腐肉が乾ききって床に張り付いているため、フィナは箆に吸着液を一滴垂らしてから石肌をなぞり、塊をはがしていく。はがした瞬間に、甘酸っぱい腐敗匂が立ち上る。防護マスクがなければむせ返る強さだ。

 

 テルコは樽の側に付着した古い麦汁染みを布でひと拭き。使用しているのは《麦糖分解布》で、硬化した糖分汚れを化学的に緩め、染み抜きと消臭を同時に行う。拭き取られた跡は石の地色が露出し、周囲よりわずかに清潔な明るさを放った。


 トメは苔むした壁際にしゃがみこみ、スクレーパー状のブラシで苔を剥がす。《イドク硝酸銀精》を薄く塗った刃先が苔の根ごと切除し、青緑の菌糸色が露出するのを防ぐ。


「静かですね」


 テッサが思わず呟いた。


「静かなときが一番危ないの!前にここで樽を倒したら、中からスライムが二匹出てきて、しかも私の髪に絡んできたのよ〜!そのとき一緒だったゲンゾウが、無言でスープジャーを出して煮込みにしようとしたのは笑ったわ!トメさん、ちゃんと止めないとダメよ、トメが止めないと!トメ止め〜!!」


 テッサの呟きに全力で返すテルコ。フィナは「こわっ!」と声を上げながら、破れた鞘を拾って袋へ。トメは相変わらずニコニコと苔を削っていた。



 三か所目は曲がりくねった通路。

 ここの壁には《乾固汁痕》と呼ばれる、魔物由来の体液の跡がこびりついている。時間が経って変色し、石に光沢を残していた。


 テッサは布に《中性化粉》を擦り込み、円を描くように跡を磨く。粉が反応して、表面の光沢が失われ、石の色が均一になる。

 

 床には小瓶の破片が散らばっており、破片の縁に黄色の結晶が付着している。これは低濃度の《麻痺樹脂》の可能性があるため、テルコが破片専用袋に錠剤状の中和剤と一緒に収納。


 トメは周囲の小砂利と塵をモップで絡め取り、一度も漂わせることなく袋へ入れた。


「時間かかるかな…」


 フィナが呟くとテルコはうなずき、乾いた布で一拭き。跡はきれいに消え、石の色が周囲よりもわずかに明るくなった。


「速っ…。やっぱりすごいですね」

「今日は本当に楽なほうよ!本当に厄介な仕事は〜……内緒」


 テルコは笑って歩き出した。



 地上に戻ると夜風が頬をかすめた。湿った石と薬品の匂いが外気で薄まっていく。

 道具はすでに汚れを落とし、袋も材質ごとに分けて縛られている。

 

 何事もなく終わった浅層清掃——だが、拾い集められた袋の中には、乾いた骨、焦げ串、苔屑、液の跡の剥離片、小瓶破片と樹脂結晶が静かに収まっていた。

 テルコとトメの熟達した動きが、どの袋にも効率的な整頓を生み出していたのが印象的だった。


「こんな日もいいですね」


 フィナが言うと、トメはにこっと笑ってうなずく。そして道具を肩にかけて歩き去っていった。

 フィナはテルコの長話の中で出た、“降りられるはずのない階段”や“熱を持つ毛糸”という言葉を、不意に思い出し、首をかしげた。

 

 どうでもいい笑い話のはずなのに、胸の奥でざらりと引っかかる。

 それは夜風よりもひやりとした感触となって、彼女と共に街路へと溶けていった。

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