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第九話

 深夜二時過ぎ。

 冒険者協会の裏手にある物資搬入口は、昼間の喧噪が嘘のように静かだ。

 

 重い革靴の足音が二つ、石畳をゆっくり叩いていた。ひとりは顎髭を短く刈った長身のロヴァン。

 片手で持てるタイルブレードを軽く回しながら歩く姿は、機嫌が良さそうにも見える。

 もうひとりは背の低いカンナ。小柄だが、腰にかけた短筒と厚手の革籠手は使い込まれて黒く艶めいていた。


 二人とも、普段は単独で深層の清掃案件を任される実力者だ。

 だが今日は旧神殿南区画、十六層の清掃兼危険物除去という、彼らにしては肩慣らし程度の案件だった。

 ロヴァンが無精ひげをなぞる。


「二十旧南は国が持ってったし、こっちは俺らで消化試合ってわけだ」

「消化試合でも十六層は十六層よ。気は抜かない」



 二人は転送陣で十六層へ降り立った。低めの天井には、かすれた古い魔法陣の線が岩肌に直接残光を放っている。


 ロヴァンはタイルブレードを手の中で一度回し、刃の厚みを指先で確かめる。

 カンナは腰の短筒にスクレーパーを取り付け、刃先に薄く防錆油を塗った。

 息を吐くと白くならず、湿ってこもる。あたりは海辺の岩場のような匂いが漂っている。


 このあたりは魔物も少なく、仕事は効率的に進む。ロヴァンが床に刺さったままの破損槍を片手で抜き、刃先だけ取り外し袋に放り込む。


 通路途中、壁際に立てかけられたまま崩れた木製道標が目に入る。外気の湿塩を長期間浴びて木肌は黒褐色に変色、触れただけでささくれが指に刺さる状態だった。


 ロヴァンは両手でそれを持ち上げ、木片が散らぬよう防虫油布でぐるりと覆う。

 腐食した金具部分は布ごと外して金属回収袋へ。袋の内張りに貼られた鎮錆符が淡く反応し、金属の表面光沢が少し戻る。


 カンナは石畳の目地にしゃがみ込み、スクレーパーで溝に固着した堆積膠層を削り出す。

 色は黒褐色、指先でほぐすと粘性の層が剥がれ、海藻と血が乾いたような匂いが立つ。膠層は小瓶に詰め、《封菌蓋》をねじ込み、瓶ごと《汚染物袋》へ。揺はしても一切漏れないようにする。


 通路中央に散らばっていたのは、錆び始めた釘や割れた陶器のかけら。ロヴァンが一歩進むごとに片手で拾い上げ、即座に分別収納。

 カンナはその後ろから、壁際の砂埃や細かな礫をモップ布に絡め取る。布には《埃締め粉》がごく薄く塗られており、砂埃が舞い上がらずに一度でまとまる。


 動きに無駄はなく、互いに声を掛け合う必要もない。それがベテランの呼吸だった。


「……風、変わったな」


 ロヴァンが立ち止まり、耳を澄ます。遠くで、小さな鈴の音が二度、三度。

 潮の匂いが濃くなったかと思うと、通路の向こうがかすかに明るくなった。


 曲がり角の先に、青白い揺らぎがあった。

 

 水面の反射かと思えば、水はない。宙に漂う光が、脈動するように強弱を繰り返している。その青を背に、四つ足の影が佇んでいた。


 大型の魔犬。だが通常よりもさらにひとまわり膨れ、濁った碧の眼が闇に滲む。

 呼吸ごとに爪先から粉状の石片が落ち、背毛は針のように逆立っている。

 光はその毛の先端からも微かに漏れていた。


「……強化されているわね」


 カンナがスクレーパーを構える。ロヴァンは返事の代わりに、刃先を通路の中央へ向けた。



 動いたのは魔犬だった。一瞬で距離を詰め、背後の壁が砕ける音が響く。

 ロヴァンは半身でかわしつつ、ブレードを振るう——だが衝撃は刃を通り抜け、腕に痺れを残すだけだった。

 

 青光が魔犬の動きと同期するように脈打ち、打撃も斬撃も柔らかく逸らす。

 カンナが懐に潜り込み、刃先を跳ね上げる。

硬質な音。魔犬の口がわずかに開く。そこにロヴァンが追撃を入れるが、青光に包まれた毛並みが衝撃を吸収した。


 通路いっぱいに散る火花と粉塵。視界が一瞬、白く被る。


 刹那——


 肉を裂く音。硬いものが壁に叩きつけられる鈍い響き。誰の声かも分からない低い息。

 そして、青光が脈を早め……ふっと消えた。


 暗闇。


 粉塵がゆっくりと落ち、鈴のような音も消えている。転がった石片が一つ、壁際を転がって止まった。



 夜明け前、クリーニングポニー事務所。

 出入口の自動扉が開き、ロヴァンとカンナが並んで入ってきた。全身に埃はついているが、傷は見当たらない。肩から提げた袋は二つとも潰れたようにしぼんでいた。


「十六層南部、異常なし」


 ロヴァンが受付に札を置く。カンナは無言で記録用紙に署名だけ残した。

 早番の受付が「あの、南部ってこの前——」と声をかけかけ、飲み込んだ。

 青白い顔色の二人が、貼り付けたような笑顔を纏ってこちらを覗き込んだからだ。

 

 受付が視線を落とすと、報告書の末尾には、《拾得物:特記事項なし》とだけ。

 二人が去った後、受付台の上に、小さな粉状の石片がひとつ残っていた。

 それは青白く、微かに温かかった。


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