第九話
深夜二時過ぎ。
冒険者協会の裏手にある物資搬入口は、昼間の喧噪が嘘のように静かだ。
重い革靴の足音が二つ、石畳をゆっくり叩いていた。ひとりは顎髭を短く刈った長身のロヴァン。
片手で持てるタイルブレードを軽く回しながら歩く姿は、機嫌が良さそうにも見える。
もうひとりは背の低いカンナ。小柄だが、腰にかけた短筒と厚手の革籠手は使い込まれて黒く艶めいていた。
二人とも、普段は単独で深層の清掃案件を任される実力者だ。
だが今日は旧神殿南区画、十六層の清掃兼危険物除去という、彼らにしては肩慣らし程度の案件だった。
ロヴァンが無精ひげをなぞる。
「二十旧南は国が持ってったし、こっちは俺らで消化試合ってわけだ」
「消化試合でも十六層は十六層よ。気は抜かない」
◆
二人は転送陣で十六層へ降り立った。低めの天井には、かすれた古い魔法陣の線が岩肌に直接残光を放っている。
ロヴァンはタイルブレードを手の中で一度回し、刃の厚みを指先で確かめる。
カンナは腰の短筒にスクレーパーを取り付け、刃先に薄く防錆油を塗った。
息を吐くと白くならず、湿ってこもる。あたりは海辺の岩場のような匂いが漂っている。
このあたりは魔物も少なく、仕事は効率的に進む。ロヴァンが床に刺さったままの破損槍を片手で抜き、刃先だけ取り外し袋に放り込む。
通路途中、壁際に立てかけられたまま崩れた木製道標が目に入る。外気の湿塩を長期間浴びて木肌は黒褐色に変色、触れただけでささくれが指に刺さる状態だった。
ロヴァンは両手でそれを持ち上げ、木片が散らぬよう防虫油布でぐるりと覆う。
腐食した金具部分は布ごと外して金属回収袋へ。袋の内張りに貼られた鎮錆符が淡く反応し、金属の表面光沢が少し戻る。
カンナは石畳の目地にしゃがみ込み、スクレーパーで溝に固着した堆積膠層を削り出す。
色は黒褐色、指先でほぐすと粘性の層が剥がれ、海藻と血が乾いたような匂いが立つ。膠層は小瓶に詰め、《封菌蓋》をねじ込み、瓶ごと《汚染物袋》へ。揺はしても一切漏れないようにする。
通路中央に散らばっていたのは、錆び始めた釘や割れた陶器のかけら。ロヴァンが一歩進むごとに片手で拾い上げ、即座に分別収納。
カンナはその後ろから、壁際の砂埃や細かな礫をモップ布に絡め取る。布には《埃締め粉》がごく薄く塗られており、砂埃が舞い上がらずに一度でまとまる。
動きに無駄はなく、互いに声を掛け合う必要もない。それがベテランの呼吸だった。
「……風、変わったな」
ロヴァンが立ち止まり、耳を澄ます。遠くで、小さな鈴の音が二度、三度。
潮の匂いが濃くなったかと思うと、通路の向こうがかすかに明るくなった。
曲がり角の先に、青白い揺らぎがあった。
水面の反射かと思えば、水はない。宙に漂う光が、脈動するように強弱を繰り返している。その青を背に、四つ足の影が佇んでいた。
大型の魔犬。だが通常よりもさらにひとまわり膨れ、濁った碧の眼が闇に滲む。
呼吸ごとに爪先から粉状の石片が落ち、背毛は針のように逆立っている。
光はその毛の先端からも微かに漏れていた。
「……強化されているわね」
カンナがスクレーパーを構える。ロヴァンは返事の代わりに、刃先を通路の中央へ向けた。
◆
動いたのは魔犬だった。一瞬で距離を詰め、背後の壁が砕ける音が響く。
ロヴァンは半身でかわしつつ、ブレードを振るう——だが衝撃は刃を通り抜け、腕に痺れを残すだけだった。
青光が魔犬の動きと同期するように脈打ち、打撃も斬撃も柔らかく逸らす。
カンナが懐に潜り込み、刃先を跳ね上げる。
硬質な音。魔犬の口がわずかに開く。そこにロヴァンが追撃を入れるが、青光に包まれた毛並みが衝撃を吸収した。
通路いっぱいに散る火花と粉塵。視界が一瞬、白く被る。
刹那——
肉を裂く音。硬いものが壁に叩きつけられる鈍い響き。誰の声かも分からない低い息。
そして、青光が脈を早め……ふっと消えた。
暗闇。
粉塵がゆっくりと落ち、鈴のような音も消えている。転がった石片が一つ、壁際を転がって止まった。
◆
夜明け前、クリーニングポニー事務所。
出入口の自動扉が開き、ロヴァンとカンナが並んで入ってきた。全身に埃はついているが、傷は見当たらない。肩から提げた袋は二つとも潰れたようにしぼんでいた。
「十六層南部、異常なし」
ロヴァンが受付に札を置く。カンナは無言で記録用紙に署名だけ残した。
早番の受付が「あの、南部ってこの前——」と声をかけかけ、飲み込んだ。
青白い顔色の二人が、貼り付けたような笑顔を纏ってこちらを覗き込んだからだ。
受付が視線を落とすと、報告書の末尾には、《拾得物:特記事項なし》とだけ。
二人が去った後、受付台の上に、小さな粉状の石片がひとつ残っていた。
それは青白く、微かに温かかった。




